追憶・零
「それで……俺の娘はいくらで買い取ってくれるんだ?」
年のころは三十に達したぐらい……銀髪翠眼のまだ若い男。
その眼差しはまるで恋人にプレゼントを贈るかのような優しげなものだった。
野暮ったさのまるでない、一目で貴種だと分かる整った顔立ち。
声もまたあたりに響く朗々たるテノール。
身体は適度に引き締まり、きちんと仕立て上げられた礼服は無駄な装飾もなく、それ故か高価な素材を用いていることが良く分かる。
その性根が腐り果てていることを除けば、王族として申し分のない人物だった。
「今日が何の日かご存じですか……殿下?」
相対するのは四十半ばの「壮年の」男だった。
その顔には呆れを通り越してただ濃い疲労の色がある。
無骨な皮鎧に、腰には剣帯……彼の前では武装が許されておらず、本来であれば使い込まれた神剣を帯びているはずだった。
見るからに武人然とした姿だが、唯一、首からかけられた銀色の装飾具が洒落ていた。
丸い形のそれから、小さくカチコチと音がする。
「勝手なことだと分かっていたのですが、ご息女は一時的に預からせてさせていただきました……式の後には、再び戻しますのでどうかご容赦を」
「恩義のある我に対してどうしてそんな真似を……気でも違ったかローベルト?」
貸しのある友人に、心底心配そうな声をかける男。
彼の中では自分の子供が自身の所有物であることは自明の理であるらしい。
もはや男はため息すら出てこなかった。
「母君の葬式であらせられますので……」
お前の妻の葬式でもあるのだがな……との言葉を老人はすんでの所で飲み込んだ。
わずかに視線を変えて部屋の奥を見れば、寝室前に脱ぎ散らかされた服が床に散乱していた。
これが彼の物であれば、だらしないで済むのだが。
布地が少なすぎる深紅のドレスに、女性用の下着とあっては、奥にある寝室がどうなっているか推察するまでもなかった。
(まったく、奥方の死去は数日前にお伝えしたのだが……)
妻の死など、彼の頭の中からもはや抜け落ちてしまったようだ。
今、彼の頭にあるのは、愛人との情事だけだろう。
夫として父として、否……人として尊厳などまるで期待できない。
だが恐ろしいことに彼は、彼の一族……ヴェルダンディア王家の中ではまだマシな方であった。
その醜悪な素行もまだ自分の家族内で留めている。
他人の娘を売るわけではないし、他人の妻の葬式を蔑ろにした訳でもない。
「少なくとも、このくらいは値をつけてくれるのだろうな……不死教徒はこのぐらいは出してくれるそうだ」
男は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
しばし沈黙し、彼が商談を続行したのだと理解した。
「不死教徒と商談はお止め下され、彼らが欲しいのは王族の贄……ご息女が餌として八つ裂きにされるのは心が痛むでしょう」
「しかし、いい値をつけてくれたからな」
無駄と知りつつも諫めたが、例のごとく無駄であった。
全てを諦めた男は、不死教徒の言い値にいくばくか上乗せて彼に告げる。
それは満面の笑みを生じさせた。
「恩義のある者に対しては謙虚でなくてはな……これからも我を助けてくれ、ローベルト」
「ありがたきお言葉……」
まるで心のこもらない返答だったが、彼にとってはそれでも良かったらしい。
億劫そうに立ち上がり、礼服の首元に手をかけた。
後は金を置いて帰ってよい……との意味だ。
そのまま上着を床に放り捨てて、扉を開け、奥の寝室に消えていく。
それからいくばくかの時間が過ぎた。
男の感覚が正しければ、たっぷりと千は数えたのちにゆっくりと後ろを向き、寝室とは逆の方向にあたる入口に向き直る。
「お父上の許しが出ましたぞ……さ、母君を見送りましょう」
「お父様は……?」
部屋の入口……扉がゆっくりと開き、銀髪の少女が現れる。
その顔には希望……父親が母親の葬式に参加してくれることを願っていたのだろう。
男の顔が苦渋に歪む。
少女の願いは叶わない。
どう言いつくろう……どう誤魔化しても父の不義は隠しようがなかった。
病気……?
狂気に陥った……?
だとするならば、父親は少女が物心ついたころから錯乱していたことになる。
少女は父親が「正常」だった姿など見たことがなかった。
「行きましょうか……」
男にできたことは強引に連れ出すことだけ。
有無を言わさぬその態度に何かを感じ取ったのか、少女は抵抗することはなかった。
ゆっくりと扉が閉まる。
その退廃した空間に獣のごとき声が充満したが、外の人間には届くことはなかった。
*****
「父上……お疲れのようですね」
「ランドルフか……」
ローベルトは自身が眠りに落ちていたの事に気づいた。
なのに身体は少しも癒えておらず、むしろより疲労が濃くなったのかもしれない。
夢のせいか……。
数十年前、大戦より十も前の古い記憶。
ジークルーネを引き取った遠い過去。
思い出したのは……ジークルーネの娘である「ロスヴァイセ」を引き取ったせいか。
「それで父上……ロスヴァイセ様をどう利用しましょうか? 私の息子のスヴェンと結婚させるのが良いかと思いますが……」
目先の欲に捕らわれた下賤な笑みをランドルフが浮かべる。
これがわしの後継たる一人息子かとローベルトは昏い思いに駆られる。
大戦にてそれなりの功績を残したものの、明らかにそれ以上の栄誉を望む愚かな息子。
そのせいで家臣からはその実力を疑問視され、同輩たる剣聖家からも下に見られている。
そしてその事実を把握していないのが最も悪い。
「あれほど大戦で認めてくれたのに、戦後は武芸祭での逃亡の事ばかりを取り上げる恩知らずで掌返しの陛下から全てを奪い取る。素晴らしい事ではないですか?」
「不敬だぞ……陛下に対して」
死にかけの老人である自分の視線に息子は怯えと動揺を見せる。
それがローベルトをますます失望させた。
器が……小さすぎる。
まるで逃避するようにローベルトは王宮より半ば強引に連れ出した「彼女」を見やった。
三歳になる彼女は多感な歳にも関わらず、その顔に一切の表情が浮かんでいなかった。
母親たる女王陛下、そして父親たる王配は子供への興味を失っていた。
仮に暗殺されても「そうか」の一言で澄ましかねない異常さを察知して連れ出したのだが、老齢の自分が死んだ後の後継人がアレでは明るい未来は望めない。
(ああ、なぜ繰り返す。なぜやり直しても同じような結果になる)
ローベルトは死に瀕する己が肉体を思い、神の運命を呪った。
(エルネスト……なぜ殺された。お前が生きていればこうはならなかったのに……お前だけが輪廻を断ち切れたのに)
再び、ローベルトは息子のランドルフを見やった。
友人を手前勝手な理由で殺した愚息には、もはやなんの愛情も覚えなかった。