井の頭線で
あなたはどんな物語にも始まりと終わりがなくちゃあならないって思うんですか?
昔は物語の終わり方が二つしかありませんでした、いろんな試練を経て、主人公と女主人公が結婚するかそれとも死んでしまうかでした。
あらゆる物語が伝える究極的な意味には二つの面があるのです、生命の連続性と、死の不可避性です。
––– イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
渋谷で京王井の頭線に乗り換えた。午後八時の電車は、いつも通りに帰宅中のサラリーマンの群れで満たされていた。スーツを着た乗客から放出される淀んだ気配が澱のように車内に溜まっていた。それは、意味のない仕事に振り回される疲れだったり、灰色の日常が明日もその翌日も続くことへの諦めから生まれているのだろう。
オレもそうした淀んだ空気を生み出している乗客の一人だった。客先からの直帰だったが、あてにしていた契約は取れなかった。これが成約しなければ、今月の営業目標は未達になる。明日の営業会議での言い訳や、上司の追求をかわすため他の見込み受注をどうでっち上げるかを思案していた。
オレはいつまでこんなことを続けないといけないのだろう?
オレは、九州の地方都市の高校を卒業して、MARCHに進学した。学歴も能力も大したことない上、東京に地縁や血縁といったネットワークやコネクションを持たないオレは、就職活動で苦戦した。人気企業や華やかな人気業種に応募してもかすりもしなかった。やっと拾ってくれたのは、地味な中堅建材メーカーだった。ここで働き始めて五年目になる。
特別な技能も才能も持ち合わせないオレは、ぱっとしない会社でノルマに追い立てられて生きる以外のすべはなさそうだ。車窓に映った吊り革にぶら下がる自分の姿を見て、さらに気が滅入った。実年齢よりも老けて見えるスーツ姿の男がそこにいた。働き出して五年でこんなにオッサン化するとは思わなかった。
「キャー‼︎」「うわぁー」「何だっ⁉︎」
突然、悲鳴と怒号が後方から聞こえてきた。隣の車両から多くの乗客が血相を変えて駆け出してくる。
「逃げろ、刃物を持った男が暴れている‼︎」誰かが叫んだ。
オレも他の乗客の後を追って、走り出そうと吊り革から手を離した。
その時。
「ともか‼︎」ひときわ大きな悲鳴が上がった。
若い女性が、自分の子供らしき四、五歳の女児を後ろから抱きしめている。怯えた女児は足がすくんで動けなくなったようだ。
そして、車両の連結部からナイフを持った男が現れた。刃渡り三十センチほどで、鍔がついた、一見して調理用のものではないことがわかる形状のナイフだった。
男の目は虚空をさまよい、意識が飛んでいるようだった。よれたスエットシャツとジーンズは、返り血で真っ赤に染まっている。虚な目が、親子の姿を認めるとよろめくように、そちらに向かって来た。
振り返って男が近づいて来るのに気づいた母親は、声にならない叫び声を上げた。重量物を吊り上げたワイヤーロープが重みに耐えきれず千切れる際に生じる軋みのような、絶望的な響きを帯びた叫びだった。
オレは反射的に逃げる乗客の流れに逆らい、男に向かって走り出した。
男は、うずくまる女児と女児を覆う母親を見下ろしていた。両手で握ったナイフを振りかざすのが目に入った。
全力で男にタックルすると、男は簡単にひっくり返され、連結部まで押し戻された。こいつ大したことないなと思った瞬間、背中に痺れとも痛みともつかない激痛が走った。刀身が背中に食い込むのがわかった。ナイフはオレから引き抜かれて、もう一度オレを貫いた。苦痛と共に意識が遠のいていく。これがオレの最期なのか。平凡な生き方をしていたオレがこんな場所で、こんな死に方をするとは思ってもみなかった。
薄れてゆく意識の端で、でも、これでいいんだ、これで自由になれると考えていた。もう、見積りの作成や営業会議の乗り切り方や契約条件の交渉について思い煩わされることはない。
オレは解放されたんだ。このまま生きていても、職場とアパートを往復するだけの灰色の日常が延々と続くだけだった。オレの能力や才能では、このまま生きていても、社会の向上や人類の発展に貢献できるようなことは何もできないはずだ。手持ちの命を人助けのために使えただけで良しとしよう。
そう、これで自由になれる……