『それ』
ああ、慣れない場所に来て疲れたから、金縛りにあったんだ。
ふと首を起こすと、布団が剥ぎ取られた自分の体が見えた。お腹から下は闇で隠れて何も見えない。
いや……違う、これは金縛りなんかじゃない! 金縛りだったら首が動くことはないんだ。じゃあ、これは……。
その時、お腹の上で何かが動く感覚がした。猫が乗ったような感覚が、今はもぞもぞとして気持ち悪い。布団じゃないなら……これは何?
考えたくもない。でも、お腹の上に乗っていたそれは私の右脇に移動して、枯れ枝のような細い何かを突き出して私の脚を押さえた。よく見れば私を取り囲むぼこぼことした影は皆私の体を押さえている。
そ、そうだ、北川さんに助けを――呼ぼうとした瞬間、口を何者かに押さえつけられた。ぐいっと首が反らされて、一瞬完全な黒色しか見えなくなる。
喉が痛い。私は一体何をされるの⁉︎ 今は何が起きているの⁉︎
きぃ……。
天井から音がした。
ゴトッ。
板がずらされるような音。
その一瞬、微かに私の首を反らせる力が弱まる。私は精一杯目を開いて、黒い影の隙間から見える天井を凝視した。
天井に長方形の真っ暗な穴ができている。
その闇の中で何かが蠢いている。それと呼応するかのように私の周りの影も犇めき、数を増やした。その度に私の体にかかる力は強くなり、視界は狭まる。黒い……暗い……。
そのうち、彼らの丸っこい部分に凹凸が見えるようになってきた。鼻らしいものがあって、目のような窪みがあって、口のような空洞がある。何かを言っているんだろうか。彼らは私を見て口を動かすと、その後天井を仰いだ。上にいるのは彼らのボスだろうか?
私はどうなってしまうんだろう……。
体に力を込めてもどうすることもできない。それどころかより強く押さえつけられて、このまま圧死させられるんじゃないかと思う。
体には無数の黒い蚯蚓が這いずっているようだ。それは彼らの指らしく、私の服を掴んでいる。
……きいぃ。
もう一度天井で音がした。
……ずうううぅぅぅ。
今度は……硬いものを引き摺るような音もする。考えたくない。
その時、暗闇からにゅうっと顔が突き出た。
「……!」
喉の中で悲鳴が上がった。
泥を塗りたくって乾燥させたようなひび割れた顔。黄色くて濁った目。
それは私を見つけると、口の端をより深くひび割れさせて笑った。これは、笑ったなんて……本当に、そうなのかは分からないけど。……でも、まるで、獲物を見つけたような顔で、私に迫ってくる。
……ぎいいいいぃぃぃ。
天井がたわんで、それとその腕がだらりと垂らされた。芯だけの人形のような腕には、血管が浮き出て、ひびのような深い深い皺はより酷いものとなっている。それはもはや人間と呼べない。
それはにゅううぅっと上半身を乗り出して、天井から私を見ていた。
手にはギラギラと輝く鎌を握り、ぶらぶらとさせながらこちらの様子を伺っている。
私の喉が悲鳴を上げようと、ぎゅうっと締まって酷く痛む。……怖い。体は冷え切っているのに汗が止まらない。
そんな均衡状態がどれほど続いただろうか。
それは再び笑みを作ると、蛇のようになめらかに天井から這い下りた。粗末な着物を着ていて、そこから覗く足は土で汚れている。
それから畳の上を腹這いになって、私の方へとーー迫って、迫ってくる!
ざああ、ざあああぁぁ……。
やめて、来ないで……!
そんな願いは通じるはずもない。
分かってる。願っても無駄なことは。……でも、もし、どうにもならなかったら、どうなるの?
ここで死ぬの?
どうしても私には、そんな未来があるなんて信じられなかった。だって、ここまで16年間生きて来たのに。それがこんなにあっさり……? 今、ここで……?
それが私の脚に触れた。
見た目通りの乾燥した気持ち悪い感触。
幽霊って、触れるんだ……。
そんなこと思ったって、都合よく諦めの笑いなんて出てこない。怖い。こんなので死にたくない! 誰か助けて……北川さん!
人間は重い。それなのに、今私の上に乗っているこれは、人間のダミーなんじゃないかという軽さだった。もしかして、老人だから? だからこんなに軽いの?
それがいよいよ私の胸まで迫ってくる。
ああ……厭だ。怖い、気持ち悪い、厭、誰かあ……っ!
首が最大限に反らされる。きっとこれで首を掻き切られて死ぬんだ。痛いだろうなあ。辛いだろうなあ……。
もはや涙すら出てこない。死に物狂いで体を動かそうとしても、押さえつけられて動けず、声のひとつも出せなかった。
真っ黒で何も見えない。もうこれ以上何かを見るのは限界だった。諦めたわけじゃないけど、目を瞑って抵抗に専念する。
――ふと、首を反らせる力が弱まった。
息がしやすい。楽だ。……ひょっとして、死んでるとかじゃないよね。
恐る恐る目を開くと、鬼の様な形相をしたそれがいた。
…………なのに、それ以上前に来られない。
その時、北川さんの方で何か音が鳴った。これはスマホのアラーム? どうして……。
そう思った瞬間、何やらもの凄い音と声と共に、私の周りのそれらが吹っ飛んだ。
突然視界が真っ白になる。
「う……っ、眩しっ……!」
思わず手で目を隠した。……あれ、声も出るし、体も動く?
お腹が軽くなった気がして薄目を開けると、北川さんがさっきの鎌を持っていた。それを畳に置くと心配そうに私の方を覗き込む。
「き、北川さん……!」
掠れているものの、発声に問題はないようで安心した。北川さんの手が私に伸び、軽く手を引かれて起き上がる。
私はそのままの勢いで北川さんに抱きついた。
……ちゃんとあったかくて、ちゃんと柔らかくて、これは……全然怖くない。良かったあ、私、生きてる……!
「園田さん……先に、謝らせてください」
一人で喜びを噛み締めていると、頭上から震えた声が降って来た。
「え?」
北川さんは苦い顔をしながら、
「また……園田さんに、怖い思いをさせてしまいましたわ。前回のは仕方ありませんでしたが、今回は完全にあたくしの失態です。あたくしさえちゃんとしていれば防げたはずの事態でした。……申し訳ありませんでしたわ」
「き、北川さんは……悪くないじゃないですか……」
今になって諸々が込み上げて涙が溢れてくる。最悪。なんてタイミングが悪いんだよ。
北川さんは少し混乱した風に私を見た。
「間に合って……良かったですわ」
ぎこちない様子で抱きしめられる。
……あったかい。心臓と喉がきゅーっとした後、涙が堰を切ったように溢れてきた。
札田さん夫妻が起こされ、急遽リビングで寝ることになったのは、私がようやく落ち着いてからのことだった。本来なら真っ先にやらなきゃいけないはずなのに、申し訳ない。北川さんは「さすがに1日で二度もやらないはず」とは言っていたけど……。
「落ち着きましたか?」
「……はい。すみません、色々と」
「園田さんが謝ることではありませんわ」
来客用の布団を用意して札田さん達が寝る準備をするのも、私は手伝わせてもらえなかった。シーツをつけたり掛け布団にカバーをかけたりと大変だったのにも関わらず。
それで私は心配した咲さんにハーブティーを入れてもらった。温かくて、体の芯からほっとした。
だいぶ落ち着いて話せるようになってから、あのことを北川さんに話すのだけは辛かったけど。北川さんは極力無表情を貫いているように見えた。本当はどうだったのか分からない。
でも、色々と分かったこと、考えたことがあるだろうに黙っていてくれるのが優しい。ただひとつだけ言われたことは、それが胸より先に上がってこなかったのは私がお守りを首に下げてたからということ。
今日ぐらい歯磨きはいいって言われて、ご褒美にいちごミルクの飴をもらった。
甘くて美味しくて、安心した。
結局私の布団は札田さん達の隣に移動され、北川さんは私達を徹夜で見守ると言う。申し訳ないながらもそれが仕事なんだから仕方がない。それに、そのおかげで安心している私もいた。たくさん優しくしてもらって、癒された私は、再び眠りについた。