釘
その後許可を取って寝室や物置の室温を測らせてもらった。測った温度を記したメモ帳を見せてもらったけど、どこも18〜22℃ぐらいで大差ない。リビングには床暖房がついているから少し暖かかった。いつ測ったのか外の気温も端に記されている。15℃。なぜかそこだけペンでぐるっと囲まれているのだ。
「園田さん、押さえていてくださいまし」
「はーい」
北川さんが脚立に乗って、天井板をずらした穴に上半身を突っ込んでいる。ここまで降りてくる冷気は少しカビっぽくて、ぶるっと体が震えた。
しばらくするとくぐもった電子音が聞こえる。測り終えたんだと思う――のに、北川さんは微動だにしない。
「北川さん?」
呼びかけても答えない。もう一度声をかけようとした時、淡々とした「10℃です」という声が聞こえた。
10℃って……外より低いんじゃ。
そう思っていると、上で板を叩くような音がする。多分北川さんだろうけど、一体何をやってるんだ……?
ちょっとすると降りてきた。数本釘を手に持っている。
「屋根裏にありましたわ。崇さんに渡してきてほしいのですが」
「はい、行ってきます」
手渡された釘は4本。屋根裏に入る為の穴はこの前札田さん達が釘を取り除いているので、これはその時に取られたものではないのが分かる。曰く天井には柱となる木材が何本か通ってあって、その上に木の板が釘で固定されているらしいのだ。だから天井を見上げると太い木の柱が見える。
「あれ……? 崇さん?」
咲さんと一緒にいるのかなあ。いないとは思いつつも、風呂場に繋がる廊下を覗いてみる。すると、こちらに伸びる人影が見えた。形的に咲さんだろうか……。
「きゃっ」
短い悲鳴。すぐにガラガラッと蓋を落としたような音が響いた。
「大丈夫ですか⁉︎」
駆けつけようとした一瞬――左の脇腹にぶわっと風の感触が来た。まさか人?
とっさに首を捻って後ろを見た。リビングから溢れる光の中に、黒いぼんやりとした影がある。人かと思ったその瞬間、煙のようにふっと消えてしまった。
なんだったんだ……あれ……。
そうだ、咲さん! 私が視線を元に戻すのと、咲さんが風呂場から顔を出すのが同時だった。
「……見たの?」
「か、影だけですけど……」
「ちょっと来て」
咲さんに手招きされ、私は浴室へ足を踏み入れる。空の浴槽には咲さんが放り投げた蓋が落っこちていて、咲さんはそれを持ち上げて直すと、中を指さした。
「今……ここにね、子供が入ってたの」
少し震えた声。もちろん中には何もいない……なのに、蓋が浴槽に落とす青黒い影がやけに気持ち悪かった。
「膝を抱えて……縮こまってたと思うわ。……それで、目が合った。一瞬だったけど、それで向こうが這い出て来て……私が悲鳴をあげたのよ」
「怪我はありませんでしたか?」
今更だよな、これ。
咲さんはゆっくりと首を横に振ると、浴槽の蓋を二つとも重ねて壁に立てかけた。
「びっくりさせちゃってごめんなさいね。もう大丈夫だから、お仕事に戻っていいわよ」
「大丈夫ですよ、そういう仕事ですから……。でも今みたいな事が起きた後に一人って怖くありませんか? 一緒にやりますよ」
「お仕事があるんじゃないの?」
「あ、あー……それは、そうでした。崇さんって今どこにいますか?」
「あの人なら多分自分の部屋よ。特に入っちゃダメな部屋はないから、ノックしたらどこでも入っていいからね」
「はい、ありがとうございます。あっでも……このことも北川さんに報告しないと」
何が何だか分からなくなってきた。ちょうどその時、ぽんっと背中が叩かれる。
「わっ! き、北川さん……」
北川さんは私の肩越しに咲さんに何かを渡した。
「お守りですわ。なるべく肌身離さず持っていてください。本来なら最初に渡すべきでしたのに、判断を間違えてしまい申し訳ありません」
「いいのよ、ちょっとびっくりしただけだから」
咲さんが優しい表情になると、対照的に北川さんが冷たいオーラを発し始めた。
「園田さん、不測の事態でしたから遅れるのは仕方がないとして、優先順位ぐらい考えてくださいまし。ここは咲さんをあたくしの元に連れて行くついでに、あたくしに事情を説明するのが最初に取る行動です。そもそも釘を渡しに行かせるのは本当にちょっとした雑用であって、そこまで深い意味はありませんでしたの。ですからあたくしが後から渡すのでも良かったのですわ」
「……ハイ」
「まあまあ、高校生なんだし、分からないこともあるわよねえ?」
咲さんが救いの手を差し伸べてくれる。なんて優しい人。北川さんは少し視線を彷徨わせると、私の方を見た。でも、目は合わない。
「……あたくしも、そこまで教えてはいませんでしたから。次から気をつけてください」
「はっ、はい!」
こんな人前……いや、依頼人の前での説教は、いくら北川さんにしても珍しいんじゃないか? 慌ててたのだろうか。
「咲さん、もし心配なようでしたらうちの園田に手伝わせますが、どうなさいますか」
おお、流れ的にそうなるとはいえ、北川さんに呼び捨てされるなんて初めてだ。ちょっと新鮮。
「一人で大丈夫よ。園田さん……ええっと、ごめんなさいね、下の名前はなんだったかしら?」
「灯です」
「灯ちゃん、休み時間があったらソファもテレビも勝手に使っていいわよ」
「分かりました、ありがとうございます」
「それでは、あたくし達はこれで失礼しますわ」
軽く礼をして浴室を出る。北川さんが来てからの咲さんは、表情が柔らかくなって、恐怖心が薄れたように見えた。流石だよなあ。この淡々とした感じでも、なんだか安心感がある。
「あれっ、そういえばなんで場所分かったんです?」
「崇さんが来ましたの」
「えっ」
「あたくしはてっきり園田さんから釘をもらったからかと……。流石に仕事を放り出す人じゃないと分かっていますから、少しだけ心配したんですわよ」
そっかあ、心配かあ……。少しだけをかなり強調されたような気もしたけど……。
「何がおかしいんですの?」
「おかしいわけじゃありませんよ。心配してくれるんだと思って」
「失礼な言い方ですわね」
「あっ、すみません。……でも、その……北川さんに限ったことではなく、人に心配されてるって分かる時って嬉しくありませんか」
「あたくしは心配されるようなことがありませんでしたから」
それは北川さんが凄かったのか、周りが冷たかったのか、どっちなんだろう。
「後で園田さんにもお守りを渡します。あたくしが誘っておいて、ですが……、やはり今回のような場所だと、なんの対抗手段も持たない人は危険です。あたくしとしては、早く心配がかからないようになって欲しいですわね」
「ハイ、精進します……」
このバイトは異常に時給がいいので、辞めるわけにはいかない。私の家計とお小遣いがかかっているのだ。で、バイトの内容には身の安全が。
リビングに行かず私達の拠点となる部屋に入った。北川さんはパッと画面を確認したけど、そのまま床に座る。
「さっきの屋根裏の釘……あれがどういうことか分かりますか」
「え? えーっと、釘が外れてたってことは、板さえずらせば屋根裏から下に手を伸ばせますよね」
「ええ、そういうことですわ。それが以前確認した時はなかったらしいんですの。つまり、ここ最近で外れたわけです」
一瞬、私の背後に降りてくる手を想像して気持ち悪くなった。そういう、ことなんだろうか……。