前の住人?
部屋が静まり返る。ダメ押しのようにもう一度、ガサッ、と音が鳴った。
でもこの部屋からじゃない。多分どこか別の部屋で、誰かが荷物を漁っているんだ。……一体、誰が?
止む気配のない音に北川さんが立ち上がった。
「扉を開けても?」
「は、はい、どうぞ」
崇さんにそう言われて北川さんは横開きの扉をスライドさせる。そこは、さっき私達が荷物を置いた部屋だった。繋がってたんだ。
畳の床にはスーツケースが二つと私のリュック、北川さんのトートバッグ。特に荒らされた様子はないけど、北川さんはまず自分のトートバッグへと近寄った。
「……無くなっていますわね」
「何がですか?」
「非常食です」
「ひ、非常食なんて持ち歩いてるんですか?」
当然のように「ええ」と頷かれる。確かに調査で何があるか分からないからなあ……多分私以上に北川さんは必要性を分かっているのだろう。
まだ何か確認しているようだったけど、鞄からポーチを取り出してこちらに戻ってきた。
「鞄に入れてある非常食が無くなっていました。ですが、これはまだ残っていましたわ」
北川さんはジーッという音を立ててジッパーを開くと、それを広げつつも隠す様に手で覆いを作っている。だから私と札田さん夫妻も上から覗く。中に入っているのは……飴?
私達が見終わったのを察したのか、北川さんはジッパーを閉めた。開け口を手に持ったままテーブルに置いている。
「ポーチの中に入っていましたから、この短時間では取れなかったのでしょう。今見た物の名前は念の為口にしないでくださいまし。そして……確実に、この家には幽霊がいます。お二人が普段過ごしていて食べ物以外に被害がないようなので、今晩はこちらに泊まらせていただきますが……もし何かあれば全員で近くのホテルに避難します」
「はい。分かりました」
「それから、日中換気をしたりしていませんか?」
崇さんは咲さんと顔を見合わせる。「していますが……」と崇さん。北川さんはあっさりと「そこにカメラを仕掛けさせてください」と言ったのだった。
「幽霊といえど、現実にある物まですり抜けるようにできるものは僅かですわ。それをできるのは空間を歪められるほど強力な幽霊だけですの。そしてここにいる霊はおそらくそれができませんわ。しかし、自分の体だけならいくらでもすり抜けることができるのでしょう。ですから、いくら戸締りをしても入ってきます。とは言え食品ごと壁をすり抜けることはできないので、どこかから外へ出ていると思いますの」
それを撮る為ってことか。うわ、今回田中先生もエイプリルもいないし、機材運ぶの超大変なんじゃ……。嫌な気分になってきたのでこれは一旦忘れることにする。
北川さんが言ってるのは、幽霊一人なら壁をすり抜けられるけど、何か物を持っちゃったら一緒にすり抜けることはできないってことだろう。
「北川さん、質問いいですか」
「なんですの」
「食べ物を盗るのってやっぱり食べるからですよね。幽霊が、盗った食べ物を食べてから外に出ようとしたら、幽霊の中の食べ物はどうなるんですか?」
「おそらく幽霊の一部となって、壁をすり抜けられるようになるのでしょう。本当にそうかは分かりませんが……。消えた食べ物の未消化物が壁際に広がっていた事はないようですし、それはつまり食べられたら一体化するという事の証明になりますわ。厳密なルールは存在していないと思いますけれど……」
たまに道端に落ちてるゲロが、実は食事した幽霊が何かをすり抜けようとして、胃の中身をぶちまけてしまったものに思えてきた。思わず笑いを溢してしまうと、怪訝な表情をされる。
「あたくし達は機材を運びますから、普段どこの窓で換気をされているか教えてくださいまし」
北川さんは2人にそう言うと席を立ち、私に向かって「園田さん」とだけ呼びかけた。私も慌てて席を立って後を追う。なんとなく、廊下の空気がひんやりした。
北川さんが玄関扉を開けば、木と冬特有のつんとした匂いがふわっと流れ込んでくる。春とはいえまだまだ寒い。
崇さんと咲さんの話を聞いた後だと、さっきまでは豪邸に見えたこの家も、失礼ながらホラー映画を盛り上げる壮大な舞台装置の様に感じられてしまう。山の空気だってそうだ。いつ竹の隙間から何かが飛び出してきてもおかしくないような……。
薄暗い。薄暗くて、嫌に静かだ。あたりに漂ってるのは木と土の匂い、それと冷たい冬の空気。春らしい花の香りなんてどこからもしない。
「園田さん、手伝う気がないのならやめてもらって結構なんですのよ」
「あっ、すみません」
私が悪いとは思いつつちょっとムッとしてしまう。だって言い方が刺々しいから。どう考えても上の空だった私が悪いわけだけど……。
頭を切り替えて、北川さんと息を合わせて機材を下ろす。こんなの一人じゃ絶対持てないだろう。
玄関扉まで運ぼうとしたら、咲さんが扉の前で手招きしていた。
「ここからじゃ狭いから、庭側の窓から入れてほしいの。ごめんなさいね、こんな歳だから手伝えなくて……」
「い、いえいえ、お客様ですから、お気になさらず」
咲さんは女子高校生の身でこんなバイト(こんなって言ったら酷いけど)をしている私を気遣ってくれているようで、運んでいる間もしきりに話しかけてくれる。もちろん北川さんにも話を振ってるんだけど、なぜかもっぱら私が話しかけられている。子供が好きなのかな? ありがたいっちゃありがたいけど、世間話は落ち着いた時にしてほしいな。
「ああそうだ、これよ、例の桜の木」
「2本もあるんですか?」
結構ほっそりした若めの木だ。それがあまり間を開けずに植えられている。両方とも言われないと桜だと気付かないくらいに葉が茂っている。
「随分と若い木なんですのね」
「そうなのよお、前に住んでた人……いえ、住んでた訳じゃないんだけどね。この家を作らせた人が植えたらしいのよ」
「住んでいた訳じゃない……というのは?」
北川さんは機材を置いてすっかり話にのめり込む姿勢だ。夫人は記憶を思い出す様に、斜め上を見上げた。
「引っ越してきたって言ったでしょう。それがねえ、親戚の人が行方不明になったからなの。お金持ちでね……山に入る前の坂道に、大きな家がたくさん並んでいたじゃない? あそこは高級住宅街で、土地も高いし、もうとっくに買われてしまっているのよ。その人はそこに別荘を建てたかったらしいんだけど、断念してこの山の中にしたの。ここも素敵だからってね。それでこの家を建てて、桜の木を植えて、お金は払い終えていたらしいんだけど――まだ家具やなんかが運び込まれる前に、車だけ残してそのまま行方不明になったわ。取り壊すわけにもいかないから、たまたま住める場所を探していた私達が、その人が見つかるまでここに住むことになったのよ」
「その行方不明になった方がどうなったかは分かりますか?」
咲さんは眉を顰める。
「まだ分からないの。さっきも言ったけど、家の前に車があったらしいから、多分ここで失踪したって話だわ。生死も不明、遺体も見つかっていないし……それにこの山、そんなに深くないのよ。遭難するほどの場所じゃないの。全体を住宅街で囲まれてるから、誰にも見られないで消えるなんてことできやしないでしょう? それで……その、これは秘密なんだけど」
私達2人を近くに寄せると、ひそひそ声で続きを始めた。
「主人がね、実はまだ生きているんじゃないかって……それで怯えてるのよ」
「……生きている?」
北川さんが声のトーンを低くする。そりゃそーだ、根拠もないのに分かることじゃない。
「この家には屋根裏があるの。それも全ての部屋に上から繋がった……ね。でも、立つスペースなんてちっともないのよ。私が腹這いになってようやく入れるぐらいかしら。主人は、失踪したはずのその人が屋根裏で私達を見てるって……それで、目を離した隙に天井から手を伸ばして食べ物を盗るんだって。屋根裏はその為に作られたんじゃないかって言うの」
これを聞いた瞬間、何かがピンと来た。こんなに酷い状況なのに札田氏が最初調査だけを依頼した理由。なぜなら、犯人は幽霊じゃないと思っていたから……。
「私は違うと思うわ。だって一度覗いてみたけど人なんていなかったし、ためしに登ってみても、そこから手を伸ばしてもテーブルにすら届かないんだから」
「ええ、あたくしもそう思います」
そう言う北川さんは顎に手を当てて、どこか遠くを見ていた。……とても、そう思っているとは思えない様子で。