朝焼けを運ぶきつね
あるところに、一匹のきつねがいました。身体は朝焼けの色で、足先は靴下を履いたように、上品な黒でした。口元からおなかにかけては、洗いたてのシーツのように真っ白で。ふわふわなしっぽの先も、素敵な白でした。
きつねは元気に育ちました。優しいおかあさん、強いおとうさんに守られて。陽気な兄弟たちと、共に育ちました。
きつねは、美しいきつねでした。ピンと立った耳に、聡明な光を宿した瞳。細い爪の先まで、まるで、神様が特別すてきに造ったかのように、美しかったのです。きつねが野を駆ける姿は、朝焼けが滲むようでした。しなやかな筋肉の動きは、そよ風のように柔らかく、木々のように静かでした。
きつねは、一人で生きるようになりました。ねずみを捕まえ、野で眠り、犬から逃げ、風の匂いを嗅ぎました。
ある日きつねは、鳴きました。空に向かって、吠えました。きつねは、何かを待っていて。でも、その正体はよく分からないままで。お腹はいっぱい。自慢のしっぽは、つやつやのふわふわで。なにか、なにかが足りないけれど、それって。なんだろう。
「ぼく、何を探してるんだろう」
そう思って、鳴きました。誰かに教えてほしくて、鳴きました。すると、きつねの声ではないものが、聞こえました。きつねと同じように、何かを求めている声が。きつねは思い出したかのように風を嗅いで、走り出しました。茂みを、岩を、丘を越えて、朝焼けを運びました。滲んだオレンジ色は、野原に、大地に。世界に溶けていきました。
声が呼ぶ方に導かれ、きつねは。その声の主に、匂いで気づきました。おかあさんです。懐かしいそれに、きつねの身体は震えました。息が漏れました。
だけど、もう一つ、きつねは気づいていました。きつねは賢いきつねでした。おかあさんの匂いの中に、鉄の匂いも混じっていました。かすかに、わずかに、隠れていました。
「おかあさん、」
走って、走って、走って。やっと、その姿を見つけました。地に伏せた、おかあさんを。
おかあさんの、荒い息。きつねの、荒い息。夜は、明けようとしていました。おかあさんは、ハッときつねを見ると。立ち上がろうとして、ガクンと、変な跳び方をして。
きつねは。おかあさんの脚に噛みついた、変なものを見ました。鉄の匂いが鼻を突き刺します。おかあさんはガチャガチャと音を立てて、もがいて、もがいて、もがいて。
 
きつねは。
 
きつねは、走りました。逃げました。おかあさんが、犬の吠え声が、バン、という大きな音が。たまらなく恐ろしかったからです。おかあさんの、荒い息。優しい瞳は血走って、綺麗な毛並みは逆立って、土ぼこりにまみれて。彼女の美しい朝焼けは、どこかに消えてしまって。今まで聞いたこともないうなり声をあげて、きつねに噛みついて。おかあさんが、おかあさんでなくなったようで。きつねは、震えました。頭の中に大きな音と恐ろしい匂い、赤い色が溢れて、溢れて。
朝が過ぎて、昼が過ぎて。夕焼けも、お別れを告げる頃でした。きつねは空を見て、うずくまりました。きつねの探し物は、見つからないままでした。
「おかあさん、ぼく、ぼくはさ」
「綺麗な世界には、綺麗なものしかないって思ってたんだ。でもさ、」
「違ったんだ。そもそも、世界は綺麗なんかじゃなくて、」
「綺麗に見えるだけだったんだ」
きつねは、鳴いて、泣きました。初めてこんな気持ちになりました。それでも、夜はやってきます。
いいえ。夜は、運ばれてくるものでした。
「ねぇ、」
「泣いてるの?」
上から降ってきた声に、きつねの身体はビクリと震えて。おそるおそる、顔を上げました。
そこには、夜空を運ぶきつねがいました。身体は夜の闇のように黒く、空の星をぜんぶ散りばめたように、月光を集めては返していました。ふわふわなしっぽの先だけ、きつねとおそろいの素敵な白でした。
そのあまりの美しさに、きつねは見蕩れてしまいました。涙なんて、忘れてしまいました。きつねは呟きました。
「……ぼく、」
「ずっと前から、きみを探していたのかも」
黒いきつねは、ふ、と瞳を細めて、
「そうかもね。それでも、世界は綺麗だよ」
と、返しました。
きつねは、黒いきつねと一緒にいることにしました。なぜだかわからないけれど、悲しい気持ちが、嫌な匂いが。気にならなくなるからです。黒いきつねは、それを「寂しさ」と呼びました。朝焼けと夜空は、何度でも世界に運ばれました。黒いきつねは、その「寂しさ」と共に生きてきたそうです。だったら、きつねも。そうなのかもしれない。きつねは言いました。
「じゃあさ、朝焼けを一人で眺めるとき。なんだか切なくて、苦しいけれど」
「時間の流れがすべて止まってしまったようで。なぜだか綺麗で、素晴らしいものに思えて。おとうさんもおかあさんも、兄弟たちも、それを教えてはくれなくて」
「そう思えるのは、その「寂しさ」ってやつのおかげなのかな」
黒いきつねは、静かに聞いて。しっぽをパタリと一振りし、応えました。
「そう思いたいね。世界は、ほんとうのほんとうは、どうしようもなく綺麗で、結局みんな寂しいんだ、って」
そうか。ぼくは、ぼくもきみも、寂しいんだ。だから、ぼくは鳴いたんだ。きつねは、心の奥の奥、一番やわらかくてあったかい所に、すとんと。その言葉を、しまいました。
「じゃあ、結局ぼくたちは、ずっとふたりぼっちだ」
きつねが言うと、黒いきつねは、そうだね、と。それだけ返しました。だけど、いつかは。いつかは、いつかはきっと、ぼくたちは。
朝焼けと夜空は、滲んで、運ばれ続けました。世界に溶けていきました。世界は変わりませんでした。おかあさんが居た場所は、相変わらず恐ろしい匂いがして。花の香りも、よくわかりませんでした。
けれど、少しずつ変わっていくものもありました。きつねと黒いきつねを追いかける犬は、ずっと大きな身体になっていて。鳥は、とんでもなく遠い所から、バン、と。落とされるのでした。優しい栗色の瞳をした鹿も、利口そうな顔をしたうさぎも。眠たげな熊も、甘えたがりのりすも。あぁ、きつねの兄弟たちも、みんなどこかに行ってしまいました。きつねは、黒いきつねは。ずっと、ふたりぼっちでした。素敵な朝焼けは、夜空は。滲んで溶けてを繰り返し、繰り返し。
きつねは言いました。
「世界は、ぼくたちは。ずっとおんなじようで実は、少しずつ、少しずつ。変わっていくんだね。いつも、後から気づくんだ」
黒いきつねは応えました。
「後からしか、気づけないんだよ。いまっていうのは、ほんとうにいましか無いんだから。当たり前みたいな景色も、いつかはさ、」
そこまで言いかけて、黒いきつねは。ふぅ、と軽く息をついて、きつねを見ました。
「きみもね。ずっとこのままじゃいられないって、わかってるんだろう」
「いつか。いつかは、朝焼けも夜空の星もぜんぶなくなって、みんな、みんないなくなって。照らされた氷のように綺麗なまま、世界は終わるんだ」
きつねは。きつねは、黒いきつねの言うことがわかるようで、わかりませんでした。ほんとうはわかるような気もしました。ですが、そうしてしまったら、なぜだかとても寂しくなってしまうような。そんな形の無い予感が、きつねの胸に残っていました。
たぶん、この気持ちはずっと消えないんだろうな。言葉にならないまま、きつねは呟きました。ふと見ると、黒いきつねは歩き出していて、きつねから離れていくのでした。きつねが応えられないまま、黒いきつねは言いました。
「寂しくなったら会おうよ。それだけを理由に逢おう。きみとの散歩も、狩りも、生き延びることも、語り合うことも。すべて心地よかったけれど、きっとそれだけじゃだめなんだ」
どうしてだめなの、と問いかける前に、黒いきつねはふわりと去ってしまいました。夜空の軌跡はかすかに残って、また朝がやって来ます。
きつねはやっぱり、何かを待っていました。鳴きました。空に向かって、吠えました。だけれど、返ってくるものは無く、黒いきつねにも会えませんでした。迫ってくるものは、嫌な鉄の匂いと、大きな吠え声。
きつねは、走りながら思いました。「寂しさ」ってなに。「会いたい」ってなに。確かに世界は綺麗だけれど、
「それだけだ」
「永遠なんて、絶対に無い。でも、絶対なんてのも、絶対に無い」
おかあさんはもう帰って来ない。
「ばかみたいだ。ぼくたち、ぼくたちこんな思いをするために、」
もう、帰って来ない。
息と共に、透明な涙がぼろぼろ零れました。きつねは、わからなくなってしまいました。いいえ、最初からわかるはずもなかったのです。わからないことを、認めたくなかったのです。認めてしまったら、それは。きみと一緒にいる理由が失くなってしまう。
「……あぁ、そうか、」
「ぼくは、逃げてばかりだった」
離れたのは、ぼく自身じゃないか。なのにぼくは、勝手に寂しくなって、勝手にひとりになって。
探し物は、とっくのとうに、わかっていたはずなのに。
「ぼくは、朝焼けは、ずっと。ずっときみを、きみを探していたのに」
「太陽と月が、星々が。溶けて混じらないみたいに、ぼくたち。ずっとふたりぼっちだったんだ」
「ねぇ、今度こそ。ぼくは、逃げたくないんだ」
きつねはそう言い切ると、ふるふると頭を揺らして涙を払いました。そして、地面を軽く蹴って、飛ぶように走り出しました。声が聞こえたからです。夜空の元で自分を待つ、友達の声が。
「きみに朝焼けを運ぶよ」
友達? いいえ。きっと、そんな生易しい言葉ではありませんでした。だけれど、他に表しようがありませんでした。きつねは、知りようがありませんでした。
そんなもの、駆ける風と共に、とうに超えていました。朝焼けが流れて滲んでいく姿は、飛ぶように駆けるきつねの姿は。燃える鳥のように、またたいて、きらめいて。刹那的で、感傷的で。確かに、生きていました。
夜も朝も超えて「いま」を生きる、姿でした。
「ねぇ、」
夜の闇に、空の星をぜんぶ散りばめたような、そんな色。きつねはその色が好きでした。「好き」というのは、「寂しさ」と「会いたい」を混ぜて、その上澄みとして浮かんでいるような、おかあさんのお腹の中にあるような、心にほんのり漂っているような、「好き」でした。
「逢いに来たよ。「寂しい」の埋め合わせをしに来たよ」
きつねは、黒いきつねにそう告げました。黒いきつねは、地面に横たわったまま、ゆっくりと頭を上げました。その表情は、昇り始めた太陽の逆光でよく見えません。
温かい光と影が重なる光景は、それは。それはまるで、世界が静かに、気づけないうちに終わっていくようで。
「どうして、」
黒いきつねが鼻を鳴らして問いかけると、きつねは答えました。
「理由なんて、最初から要らなかったんだよ。きみがぼくを呼ばなくても、「寂しさ」がわからなくても。こんな、こんな思いをするために、ううん、こんな思いこそが、」
「ぼくであることで、きみであることなんだ」
黒いきつねは、大きく目を見開いて。しなやかな足を動かしました。がちゃん、と嫌な音が静かな世界に響き、黒いきつねは変な跳び方をしました。その様子は、きつねのおかあさんの最期に、そっくりで。
きつねは賢いきつねだったので、とっくに気づいていました。暴力的な鉄の匂いと、恐ろしい赤い色の匂いに、朝焼けの毛並みは逆立っていました。足は、鼻は。震えていました。だけど、だけど。ぼくは、ぼくはもう。
「だめだ、来ちゃだめだ!」
黒いきつねは、ゆっくりと近づいてくるきつねに言いました。
「逃げるんだ、逃げなきゃいけない。きみまで、きみまでそんな、」
きつねに対して、初めて牙をむけました。黒いきつねの足に噛みついた変なものは、ガチャガチャと音を立てました。
「ねぇ、だめだよ、」
縋るような、祈るような声に、きつねは。
「明けない夜はないって言うよね。だけど、夜がなかったら、朝だってないんだよ」
「ぼくは、きみをひとりぼっちにしたくないから。ぼくたち、ずっとふたりぼっちでいよう」
きつねの瞳には、あまりにも優しい朝焼けと、黒いきつねの瞳と。
「ねぇ、」
滲んで溶けていく、綺麗な、綺麗なままの世界が。
「そばにいても、いいかな。いいよね」
 
がちゃん、と音がして。それから。世界は、静かになりました。
 




