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姫君の最期

作者: Wasanus

「変わらず、いい味ね。」

「光栄にこざいます。」

「ふふ、ニーサのお茶と過ごすお昼はいつも最高の楽しみだわ。」

皿の上の蝋燭だけが、ぼんやりと円卓に色彩を与えている。

薔薇束を生けたガラスの瓶、金の蔦が縁に描かれたカップとソーサー、それとポット――輝くような品ではないが、彼女の立場を表すにはぴったりの品の良さだった。

カチ、カップがソーサーを叩く。

「今日は冷えるわね。」

「直ぐに毛布を。」

「いいのよ、そんなに暖かくしては蝋燭の美しさを感じられないわ。」

口角を少し上げながら続ける。

「ねえ、この蝋燭はあとどのくらい灯っていられるのかしら。」

「…。」

そう微笑む青い目には、仄暗い光がゆっくりと揺らめいていた。

伸ばした腕で冷たい盆を抱え、私はその横顔を眺めていた。

ちらと視界の端で窓の外を見る。

今頃なら通りに持ち出したテーブルで酒を呷りながら騒ぐ者、そうした者に山盛りにされたガチョウの丸焼きを売る者、様々に過ごす人々の姿が見えるはずだが今日は誰一人として見当たらない。

窓から漏れる灯りだって一筋もない。

止まったような世界で時折揺れる窓の硬い音だけが、淡々とした時の流れを語っているようだった。

しかし、そんな窓の役目は唐突に終わることになった。

「ねえ。」

「はい。」

彼女が振り向く。

「私、立派にやれてたかしら。お母様の跡を継げるくらい立派に。」

盆を持つ手に力がこもる。

「勿論でございます。御身よりも民を第一にお考えになる慈悲深く勇敢な御心は、ウェニサーナ様の写し鏡のようでございます。」

「良かったわ、ありがとう。」

そう言うと、柔らかくカップを口に運んだ。

そんな彼女はどこか満たされたようで、だからこそこの部屋に呑まれてしまいそうで、気づけば口を開いていた。

「姫様。」

「…どうしたのかしら。」

彼女はゆっくりと口を離し、目を合わせた。

私の背筋まで見えているかのような目だった。

「…もう一度、お考え頂けませ――」

「ダメだわ。」

冷たく、はっきりと答えた。

窓の揺れる音が、少しだけ大きくなったような気がした。

「ごめんなさい、これだけは迷ってはいけないの。」

「…申し訳ございません。」

「でも、その気持ちは嬉しいわ。ありがとう。」

彼女はにこやかにそう言ったが、私はそれ以上何も言えずにいた。

蝋燭は彼女の顔を優しく照らしている。しかし、それを支える皿の影は全てを吸い込んでしまいそうだった。

彼女はカップを置き、立ち上がる。

私はすかさず椅子を引いた。

音もなく歩き、彼女は窓辺に立つ。

民の姿はなく、城壁まで広がる石の家々を眺める背中は、余計に小さく見えたが、その背筋はしっかりと伸びていた。

「…お母様は、民の為に前線で力の限り戦い抜きなさったわ。」

窓に指先を触れさせながら、彼女は続ける。

「だから、彼等の将軍が私の首と引き換えに民を見逃すのなら――。」

人々が築き上げたこの空間を愛でるように、彼女は優しく窓を撫でる。

「この血筋は滅び、国の名前も変わるでしょう。でも、民まで同じ道を歩ませる訳にはいかないの。」

「…。」

言い終わってもなお、彼女は愛おしそうに外を眺めていた。

指に押えられた窓はもう揺れない。

気がつけば蝋燭が小さな山のようになっていた。

ゆっくりと窓から指を離した彼女は、体ごと振り向く。

その表情はよく見えない。

蝋燭の火では柔らかすぎる。

「ニーサ。」

「…はい。」

「渡して頂戴。」

震える手で盆を置き、袖から絹の包みをゆっくりと引っ張り出す。

その純白な布は、黒よりも黒く見え、そして無機質な重みがあった。

あとはこの腕を前に伸ばせば良い。

ただ、前に出すだけ。

「ニーサ。」

できない。これを渡してしまえば――。

「これは言いつけよ。」

「…ッ。」

「あなたは良くやってくれているわ。誰に自慢しても恥ずかしくない従者だわ。」

蝋燭の火のように語りかける。

包みに滴が落ちていた。

しみとなった部分は、さらに黒く見えた。

「お願いよ。」

重さで滑り落ちないように、支えながら差し出す。

柔らかな温かい掌が添えられる。指先は少し冷たかった。

「ありがとう。」

その言葉は、頭の中で反響した。

何度も、何度も。

彼女の指先が温まっていることに気づき、するりと手を引いた。

もう、重くない。

「――今日のお茶も楽しかったわ。下げておいてちょうだい。」

「…かしこ、まりました。」

ぼやけた視界でなんとか盆にティーセットを載せ、ドアに向かう。

この部屋が傾いてしまっているような気がした。

たった数回、右脚を出し、左脚を出す。

そうして何とかたどり着いたドアノブに手をかけようとした時、

「今まで、ありがとう」

そう聞こえた。

黙って冷たいドアノブを捻る。

ここで止まれば、二度と動けない。

ドアを開き、一歩進み、振り返る。

「失礼致します、姫様――いえ、親愛なるティケーナ様。」

深々とお辞儀をする、最大限の敬意を込めて。

顔を上げた時、彼女の表情は全く見えなかった。

もう、蝋燭の火は消えていた。

ゆっくりと、ゆっくりと扉を閉める。

カチャ、響く音と共に足の力が抜ける。

冷たい石の床が優しく私を包む。

散らばる陶片など、もうどうでも良かった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 残酷な美しさで、どきどきしました。姫の優しい動作や洒落た調度品から彼女の気品を感じて好きです。時間を感じさせる蝋燭、手から布が離れる運命の呆気なさや、姫の立場を表すティーセットが部屋を出て…
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