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木の下闇  作者: 皇 凪沙
9/22

⒏非人


 盛りの勢いを誇る様に、賑やかな蝉時雨が降り注ぐ。

 空を仰げば、これもまた勢いを見せつけるかの様なぎらぎらとした太陽が、地上を照らしつけていた。

 この夏一番かと思われる暑さに、えんは流れる汗を拭う。

 火照(ほて)る身体とは裏腹に、その心中は冷たく(こご)っていた。

───非人だまりで人斬りがあったらしい。

 あの嫌な夜が明けるなりそんな噂を耳にして、えんは町外れの集落へと向かった。斬られたと噂される男の年格好は、其所(そこ)に居る筈のえんのよく知る兄妹の兄によく似ている。

 非人では無い者が日なかに彼等の集落に入って行くのは気が引けたが、あの闇を覗いた後ではじっとはしていられなかった。

───笑い話で済めばいいが。

 いずれにせよ、ひと一人死んでいるなら笑い話で済みはしない。それを重々承知の上で、えんはそう思う。


 やがて集落の入り口が見えてくる。

 真っ直ぐに入って行くのを憚って、えんは手前で大きく道を回り、目に立たぬよう横手から集落に入った。

 人目を避けているとは言え、余所者が無闇に歩く場所ではない。騒ぎが起きている最中でもあり、あちこちから胡散臭(うさんくさ)げな眼差しがえんに向けられる。それらには構わず、えんは真っ直ぐに集落の奥にある目当ての場所へと向かった。

 集落の外れにあるその場所へ近づくと、独特の匂いが鼻をついた。漂う匂いに気がついて、えんは顔を上げ首筋の汗を拭う。

 皮職の作業場がある一角。その職人等の寝起きする建物が、えんの目指す場所だった。

 日射し除けに手をかざして様子を窺うと、敷地の中を幾人かが忙しげに往き来している。胸騒ぎを覚えながら戸口に立つと、何処からか僅かに線香の匂いがした。

 不安に鳴る胸の鼓動を強いて抑えて、えんは訪いを告げる。

───はい。

 と、応える声がして、がらりと戸が開いた。

 戸の内から香の匂いが流れ出す。ちらりと目を遣ると、奥に慎ましい弔い支度がしてあるのが見えた。

───まさか。

 寸の間ひやりとしたえんは、目の前に馴染みの顔を見てほっと胸をなで下ろした。

「久しぶりだね───」

 取次ぎに出た娘は、馴染みの兄妹の妹娘だった。

 兄が斬られたのなら、妹を取次ぎに出しはするまい───そう思って奥に目を遣る。あれこれと差配をしていた皮職の親方がえんに気がつき、神妙に頭を下げた。

 親方に丁寧に礼を返し、えんは戸口を潜って中に入る。

 入ったところは普段は何かの作業場なのか、広い土間になっている。奥では一段上がった板張りの床に亡骸が横たえられ、その前で老いた女が泣き崩れていた。

 妹が兄を呼ぶ。

 慌ててやって来た兄の顔を見て、えんはほっと深い息を吐いた。

「無事だったようだね。」

 僅かに笑みを浮かべて、えんは小さな声でそう言う。何も言わずにえんを見上げて、少女が泣き出す。えんは黙って腕を伸ばし、その頭をそっと抱いた。

───大変だったね。

 泣き腫らした目で見上げる少女の背を撫でながら、えんは言った。

 そうして、遺体の前で泣いている老女にそっと目を遣り、(はばか)る様に低い声で二人に囁く。

「けど───あんたたちが無事で本当に良かった。」

 再び涙を零し始めた少女を兄が宥め、少女は袖の端で涙を拭いながら奥へと戻って行った。

「すみません。」

 少女の兄はそう言ってえんに頭を下げる。

 初めて会った時にはまだ十二、三ばかりの少年だった彼は、既に二十歳前後になる筈だった。えんの背丈を頭ひとつ分は優に超えた立派な青年の姿を、えんは眩しげに見上げる。

「ずいぶん、久しぶりだね。」

 そう言って、えんは小さく笑みを浮かべる。

 父母を亡くした当初は、幾度か様子を見に来た事もあったが、自分達の力で今の場所に居所を得て逞しく生きる彼等に安心し、ここ数年は顔を出してはいなかった。

「まさかとは思ったんだけどね、聞いた年恰好が似ていたから───笑い話で済むならそれでいいと思って来てみたのさ。」

 けど───と、小さな声で囁いて、えんは遺体の方に目を向けた。

「ここの職人だったんだね。」

 問われて彼は頷き、小さな溜息をついた。

 深くかぶった手縫いに無意識に手を遣るが、彼が人前でそれを取る事は決してない。彼等兄妹の額に刻まれた罪の跡を、えんはよく知っていた。

「妹が───想いを寄せていた様で。」

 小さく呟くその声には、呆れた様な色はなく憐れみが色濃く感じられた。おそらくは叶わぬ想いではなく、ゆくゆくはそうなる事と周りも納得していたのだろう。そうだとすれば彼もまた、将来の身内を失った事になる。

 悲嘆にくれる老母の哀哭(あいこく)の声が部屋に高く響く。

 女達が懸命に慰めているのにそっと目を遣って、えんは彼を促し外へ出た。


 外には夏空が広がり、強気な太陽が容赦なく照りつけている。

 忽ち汗が噴き出す暑さに、少し離れた木陰に入ろうとしたえんを彼は慌てて止めた。

「あれを───」

 指差す先に何かが染みた痕が黒く残っているのを見て、えんは息を呑む。思わず振り返ると、今出て来たばかりの木戸までほんの僅かな距離しか無かった。

「ここで、斬られていたんです───」

 手拭に手を遣りながら、彼はそう言って悔しげな顔でえんを見た。

「───こんな、目と鼻の先で。」

 涙と怒りを堪えるように、彼の目尻がほんのりと染まっている。えんはゆっくりと息を吐き、宥めるように頷いた。

 死んだ男は彼にとって、妹が想いを寄せる相手であると同時に、気の置けない大事な仲間であったのだろう。その顔には、遣り場のない憤りが浮かんでいる。

「俺たちは、非人だ───」

 俯いたまま、絞り出すような声で彼が云う。

「けど───それでも、生きている。」

 ぽつっ、と涙の滴が乾いた地面を叩く。

 たとえ身分は人に非ずとそう言われても、常人と変わらぬ思いを持って生きている。その命を理不尽に取られて良い理由が無い。

 それでも───

 えんは唇をかんで、項垂れる彼の肩にそっと手を置く。

「悔しいだろうが───仕方がない。」

 彼の口から鳴咽が洩れる。

「刀で斬られていたんなら、相手は侍だろうよ。」

 非人の身分は常人の七分の一と言われる。斬ったのが侍では、訴え出る事さえ儘ならない。たとえ訴え出たところでまともに取り上げては貰えぬばかりか、身分を(わきま)えぬ事をしたと咎められる事にもなりかねなかった。

 遣り場のない悔しさを握り潰そうとするかのように、彼は項垂れたまま真っ白になる程拳を握りしめる。

 ぽつりとまた、涙の滴が地面を叩いた。

───気持ちはわかるよ。

 心の内で、えんはそう言う。

 そのひと言は、非人ではないえんは口には出来ない。

 彼等と何も変わらぬ生を生きていても、えんは非人ではないからだ。

 たとえなにも違わずとも、非人ではないえんにはその本当の悔しさが分かってはいないのかも知れないと、そう思うからだ。

 だからえんは、遣り切れない思いで項垂れる。

 項垂れたえんの頭の上に、騒がしく鳴く蝉の声が降りかかる。見つめる乾いた足元には、短い影が濃く落ちていた。

「もう二度と、こんな事はあっちゃいけない───」

 足元に目を落としたまま鳴咽する彼の背をさすりながら、誰に言うでもなく、願うようにえんはそう呟いた。

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