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木の下闇  作者: 皇 凪沙
8/22

⒎|冥闇《くらやみ》


 月の無い空に星が力無く散っている。

 じっとりとした蒸し暑さが闇の粘度を一層際立たせ、ねっとりと(まと)わりつくような闇が辺りを包んでいた。

 胸元に噴き出す汗を苛立たしげに拭い、おとこは小さく舌打ちした。じっと身を潜めた闇の中には、肥えの臭い、甘ったるく何かが腐った様な臭い、獣臭いすえたような臭い───不快な臭いが淀んだ空気と共に溜まっている。苛立ちは募るばかりだった。

───構うものか。

 と、おとこは不快感を振り払うようにそう思う。そもそも、遣り場の無いこの苛立ちを払う為に、此処にいるのだ───

 気を取り直して、おとこは再びそっと闇に身を潜める。

 非人だまりの一角。

 普段ならば決して足を向ける事のないその場所に、おとこは闇に紛れて身を潜めている。昼間ならば、非人以外が歩いていれば忽ち目につくこの辺りも、闇に落ちた今ならば彼我(ひが)の区別もつき難い。町屋と違い、明かりの乏しい集落の中は、身を隠すには好都合だった。

 夜も更けかけたというのに、じっとしていても汗の噴き出るような蒸し暑さに耐えかね、涼みに出る影が時折よぎる。

 その影を目で追いながら、身を隠した暗がりに十分獲物が近づくのを、おとこは息を潜めてじっと待っていた。

───失敗(しくじ)りはしない。

 この間は偶々(たまたま)出くわした者を斬ったが、獲物を狙って待つのはこれが初めてでは無い。もっとも以前獲物を狙って潜んだのは、こんな酷い所ではなかったが───と、おとこは閉口しながら思う。

 江戸にいた頃、仲間等と獲物を待って身を潜めたのは、人気のない川縁の物陰だった。青臭いような川風が、さやさやと心地良く吹いていたのをやけにはっきりと覚えている。狙ったのは、非人の帳にも載らぬ野非人。野非人なら、非人頭の下にいる非人等よりもさらに気にする者とてない。

 江戸にはどこからとも無く流れて来るそうした者どもが幾らもいた。川小屋や橋下に棲み着いた野非人を狙うなら、わざわざ不快な臭いの染みた非人溜まりへ身を潜めることもない───

 粋で、雑多で、曖昧で、騒々しい───仲間がいて馬鹿騒ぎで日々を過ごした江戸の町を思い出し、おとこは苦々しい思いで溜め息を吐く。

───この春までは、あそこに居たものを。

 あの雑踏の中に己の身を置けないことが口惜しい。

 父が詰まらぬ出世さえしなければ、今もあそこに居られたのだ。

───武士ならば、江戸に有ってこそ花実も咲くというものだろうに。僅かばかり扶持が上がるのと引き換えに、この様な辺鄙な場所に追いやられるのを喜ぶ父と兄の気が知れない───

 寄って来る蚊を払いながら、おとこは改めて自分がこんな所で(くすぶ)っていることに腹が立った。

 募る苛立ちをぶつけるようにおとこは再び気配を探る事に集中する。折角この様な所まで足を運んだからには、目的を遂げずに帰るつもりはなかった。


 やがてじっと獲物を待つおとこの目に、小走りにこちらへ近づいてくる影が見えた。目を細め闇を透かして見ると、どうやら獲物はおとこと然程(さほど)歳も違わぬ様な若い男らしかった。

 おとこの顔に薄い笑みが浮かぶ。

 どうせ斬るのなら、年寄りよりも若い方が面白い。

 手応えも良く、仕損じれば抵抗するかも知れない緊張感もある───

 静かに間合いをはかるおとこの方へ、まだ若い非人は無造作に小走りで近付いてくる。闇夜とはいえ集落の内、なんの危険も感じてはいないのだろう。警戒の色は微塵も無い───。

 十分に獲物が近付くのを待って、おとこは一息に刃を振るった。

 驚いた様な小さな呻き声は闇に吸われ、血飛沫(ちしぶき)を上げる身体が無言のまま崩れ落ちる───

 どさり、という音をおとこは背後に聞いた。

 求めていた手応えをその手に感じ、湧き上がる高揚に身を預けて、おとこは会心の笑みを浮かべる。

 そう───これだ。

 苛々とした気持ちが拭われた様に消えてゆく。

 大声で笑い出したいような爽快感が身体中に巡るのを感じながら、おとこは慎重に闇を辿ってその場を去った。


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