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木の下闇  作者: 皇 凪沙
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5.苛立


 蝉が鳴いている───

 気がつかなければどうということもなかったが、一度耳につきはじめるとその声はいかにも騒々しく、心を苛立たせる。

 蒸し暑い昼下がりの庭は、何もかもがぐったりとしていた。

 盛りの筈の蝉の声さえどこか投げやりで、それが一層苛立たしい。

 白々とした夏の陽射しが差し込む部屋に寝転んで、おとこはただぼんやりと外を眺めていた。

 江戸ではこんな風に所在なく、庭など眺めていたことはなかった。

 何故こんなところに居るのか───と、腹立ち紛れにそう思う。


 あれからもう、十日ばかりが過ぎていた。

 苛立ちは、既に限界に来ている。

 あの後改めて父に呼ばれ、家名を汚すような真似だけは慎む様にと、釘を刺された。

 あの夜非人を斬った事を、父が知っているのかどうかは分からない。

 月終わりには妓楼の払いがあっただろうから、その事を言われたのかも知れない。真相は、知れなかった───どちらでも良い。

 おとこは自嘲の笑みを唇の端に浮かべる。どちらにせよ、父には己が邪魔なのだろう。どれ程兄に(まさ)っていようと、兄がいる限りこの家に己の居場所は無い。それでも───江戸に居たなら、これ程に己が日陰者である事を思い知ることも無かっただろう。

 そう思って、おとこは苛立たしげな溜め息を吐く。

 無論江戸にあっても、武家の次男、三男が冷飯食いなのは変わらない。しかし、江戸には武士が(ひし)めいていた。己と同様、暇を持て余す武家のはみ出し者がそこいら中に幾らも居て、そうした連中が自然と寄り集まってそれなりに楽しくやっていた。

 先の見込みがないのは誰も同じで、だからこそ今この時をやり過ごす術を捻り出す事に長けた者がいて、馬鹿騒ぎで日々を過ごしていた。

 はみ出し者も数が多ければ、はみ出し者とは云われない。

 困ったものだと眉を(ひそ)められながらもやがては歳を重ね、それぞれに納まる先に納まったり、馬鹿を極めて粋人などと呼ばれる大人になってゆくものだと、そう思っていた。

 けれど───ここではそんな未来さえ見えない。先も覗えず、語る仲間もない。

 大人しく養子や婿入りの口を待つにしても、此処ではそう大した口があるとも思えず、精々がくだらぬ役目を背負わされて、詰らぬ一生を送るのが関の山だろう。

───詰らぬものだ。

 呟いて、おとこは顔を(しか)める。

 どちらにせよ変わらない。家を継ぐことが出来たとしても、父も兄も役目などという詰らぬものに縛られて、したい事も出来ずにいる。その御立派なお役目とて、知る限りでは日がな一日薄暗い部屋でごそごそと調べ物をしたり、小汚い書付を手にうろうろしているばかり───常日頃、武功を立てた家柄を誇っている癖に、それが武士のする事かと思う。

 そんな詰らぬものに振り回されて、幾代にも渡って住み慣れた江戸を離れ、こんな片田舎へ引っ込むことになったのだと思うと堪らなく腹立たしかった。

 そんなもの───

 吐き捨てるように呟いて、おとこは身を起こす。

 首筋に、汗が流れた。

 家名だの、御役だの───そんなものに、縛られる気はない。

 あの(たかぶ)りを知ってしまったからには、止められはしない───

 刀に手を掛けると、あの夜の昂りが蘇る。

 じっとその昂りに身を任せていると、不意に初めて人を斬った日のことを思い出した。

 ただわけも無く身が震えた、あの日───。

 あの頃は、人を斬っても今のような清々しい気持ちにはならかった───それが、随分と昔の事のような気がする。


 投げ遣りな蝉の声が耳につき、おとこは立ち上がり庭へ下りる。

 あれ程身を慎めと言うからには、本当に家の命運がかかっているのだろう。ならば───

「やってやる。」

 おとこは、そう小さく呟く。

 周囲から切り取られたような裏庭には僅かな風も通らず、蒸し上げられた空気が熱く澱んでいる。それでも、再びあの昂りの中に身を置くことを思うと、少しだけ胸がすいた。

 もう、待ちはしない───

 そう決めて深く息を吸うと、熱く澱んだ空気が腐った心太(ところてん)の様に喉の奥を滑り落ちて行った。その不快感に、おとこは皮肉な笑みを浮かべる。

───待っていろ。

 もうすぐ、この不快な苛々を吹き飛ばしてやる。

 刀に掛けた手が心地良い。唇に、知らず笑みが浮かんだ。

 もう一度、ゆっくりと息を吸う。さっきよりも不快感が薄れた様だった。投げ遣りな蝉の声が、少しばかり張りを持って聞こえる。

 久方ぶりに見上げると、頭上には輝くような夏空があった。

 輝く空を見上げて、おとこは久し振りに声を上げて笑った───


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