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木の下闇  作者: 皇 凪沙
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⒋匂い


 ぷん、と血の匂いがたった。

 本当に匂うわけではない。息子から立つ何とも言えない強い気配は、父である男に濃い血の匂いを思い起こさせる。

───また。

 奥歯を噛み締めて振り返り、父は息子の背を見つめる。此方へ来てから、次男が苛立ちを募らせているのは知っていた。

 藩内の騒動が元となり、思わぬ出世で国元へ戻ったのは早春の事だ。出世自体は喜ばしい事だったが、永らくの江戸定府の家に生まれ、家内の者は自身を含めて誰もが国元で暮らした事は無い。初めての田舎暮らしに、誰もが始めは戸惑った。

 それでも、御役に追われる内に自身の戸惑いは消え、奥向きを切り回す妻も、慣れない生活に苦労しつつも土地の暮らしに馴染んできている。国元ヘ移るとともに出仕を許された長男は、初めての御役目をこなすことに一杯で、暮らしの変化に戸惑う間さえ無いようだった。

 戸惑いや不満を忙しさに紛らす事ができる者は幸いなのだろう───

 廊下の先へ消える息子の姿を見送って、男は苦い顔で溜め息を吐く。

 己が身を置く場所があり、忙しく立ち働かねばならない者は、いずれ其処に馴染んでゆく。

 未だ身の置き所も定まっていない次男は、土地に馴染む切っ掛けすら見出せていないようだった。二つしか違わない兄が見習いとはいえ出仕を許されたことが、次男の苛立ちを一層大きくしている事も、父である男には分かっている。

 長男である兄が出仕を許され、正式に跡継ぎとして認められることは、次男三男にとっては、自らが正式に日陰の身となる事を意味する。武家に於いて長男以外の男子は、長子が無事家督を継げなかった時のための“予備”に過ぎない───。

───早くに他家へ養子にでも出せば良かったのだろうが。

 そう呟いて男は首を振り、その顔に苦い自嘲の笑みを浮かべる。

 長男は丈夫とは言えない子供だった。

 大病をする事こそ無かったが、折節に熱を出し、風邪を引いては床に伏した。幾度かは、育たぬ子かもしれないと覚悟した事もある。兄が無事成長するまでは弟を他家に出す事は出来なかった。

 そうして、いずれ長男に家督を継がせる目途が立つ迄はと躊躇ううちに、兄と二つしか歳の違わぬ次男はこの歳まで成長したのだ───。

 次男が、不満を募らせるのは必然であった。

 それでも───と、父である男は思う。

 次男が兄よりも愚鈍であったなら、これ程に不満を持つことは無かったかも知れない───兄に比べると、次男は丈夫なだけでなく、器用な子だった。

 もしもの事も考えて、兄弟には幼い頃から同様に隔てなく学問も武芸も身につけさせたが、二人の違いは初めから明らかだった。

 兄は何ごとも習得に人一倍の時が掛かる子供だったが、弟は何をさせても、さほどの苦労もなくひと通り以上にこなしてみせた。武張った先祖の血を引いたか、技を誇り礼を軽んじるきらいがあるものの、武芸には殊に秀でていた。このまま兄が病弱なままであったなら、弟に家名を譲るのも良いかも知れないと、一時は本気で考えたほどだ。

 今考えれば、兄と同様に遇しては貰えない悔しさも手伝っていたのかもしれない。その頃は父として、平穏な世とはいえ武士ならば刀を振るえるに越した事はあるまいと単純に喜び、やがてその力が次男を追い詰めてゆくとは思わずに優れた能力をただ嬉しく思っていた───


 自室に戻り、襖を開ける。

 障子戸が開け放された部屋には、朝日が注いでいた。

 夏の朝風が、明け方まで降っていた雨の名残りの湿気を含んで、襖の隙間から吹き抜けていく。

 ふう、と息を吐き、男は襖を締めて床の間を背に座る。

 ひどく、疲れたような気がした。

 次男が人を切ったのは、これが初めてではない。

 息子が江戸で一度ならず人を切った事を、男は知っている。

 その頃の息子は、良からぬ仲間と夜毎出歩いていた。何れも武家の冷飯食い、溜まった鬱憤を晴らすことも必要だろうと、遊び歩くことには目を瞑り厳しいことは言わずにいた。

 そんな時、ある朝帰ってきた息子から、あの匂いがした。

 荒れた気配はいつもの事だった。しかしあの濃い血のような禍々しい気配を感じたのは、それが初めてだった。

 何かがあったのだと、父である男には直ぐに分った。

 直接に問い質せば余計に頑なになるのではと、他人を使って密かに確かめると、その日次男は人を斬っていた。

 もっとも人とは言っても、非人の帳にも載らぬ流れ者の野非人だと知って、正直男はほっと胸を撫で下ろした。

 人の数にも入らぬ非人、しかも非人頭の庇護の下にも入っていない野非人ならば、騒ぎになる事もない。

───それで気が済むなら、構うまい。

 そう、思った。

 身につけた技を生かす術もない鬱憤を晴らすためか、仲間内の度胸試しででもあったのか。どちらにせよそれで気が済むなら、家内に騒ぎを持ち込まれるよりはずっと良い。

 その考えが、どれ程愚かなものだったか───。

 血の匂いの気配を纏った息子の姿が脳裡に蘇り、男は目を閉じる。

 他人の命の重さは疎か、息子には己の命の危うささえも解ってはいない。江戸で御役を頂いていた頃とは違い、国元で重責を担う身となった今は、家内の不祥事は命取りとなる。

 思わぬ出世へのやっかみもあり、仲間内には味方ばかりではない。次男の行状が明るみに出れば、役を解かれるだけでは済まず、出仕が叶ったばかりの長男共々腹を切らねばならなくなるだろう。

 国元へ戻る事が決まった時、家内の者達にはこれまでとは事情が違うということを、よくよく言い聞かせた。息子等には特に言動を慎しむよう厳命してある。元より目に立つ行いを好まない兄はともかく、江戸でのように気軽に遊び歩く事も、同類の仲間と憂さを晴らす事も儘ならなくなる弟には、面白くないだろうとは思っていたが、まさか此処で再びこの様な事を繰り返すとは───


 日当たりの良い庭から風が吹き込み、男は顔を上げる。

 いつの間にか、日が高く上っている。

 朝方の雨は既に乾き、吹く風は清しく乾いていた。

 晴れ上がった空ヘ目を遣って立ち上がり、男は苦い溜息を吐く。

 さほど大きいとも言えない藩の城下では、刀で斬られた死体は目に立つ。武士など珍しくもない江戸とは違い、城下の侍といえば藩士だからだ。斬られたのが非人や流れ者であっても、斬ったのが領内の藩士となれば、領内に暮らす者達の間には納め難い不安が拡がるだろう。繰り返せば早晩、取るに足らぬことと放っては置けなくなる───。

───それが分からぬ程、愚かしくはなかろうに。

 幼い日の、誇らしげに父を見上げる息子の顔が過ぎる。

 苦々しい思いで庭へ下りると、夏の日差しが目を刺した。

 もう、これ以上愚かな事はしないでくれれば良いが───

 眉根に深い皺を刻み、祈るように夏の空を見上げながら、父である男は深い深い溜め息を吐いた───。





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