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木の下闇  作者: 皇 凪沙
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3.疑念


───糞。

 舌打ちをして、おとこは襖を閉める。

 折角久々にすっきりとした気持ちでいたものが、すっかり台無しになっていた。

 昨夜───

 その手に残る心地よい感触と高揚する気持ちを抱いたまま、何処とも知れぬ闇の中を歩き、結局夜が()け掛かる頃におとこは目についた妓楼(ぎろう)へ上がった。筋が良いとは世辞にも言えない見世(みせ)で、敵娼(あいかた)に出た娼妓(おんな)は器量も気立ても良くは無かったが、そんなものはどうでもよかった。ただ昂ぶる気持ちのまま、顔も見ずに抱いた。

 場末の見世とは言え、懐具合を考えもせず使った代金は、相応のものになっているだろうが、その時のおとこは後の事など考えなかった───。

 朝帰りすると、父は軽く眉を(しか)めたきりだった。

 こちらへ戻ってから苛立(いらだ)っている事を、父も察している。大目に見る積もりだろうと、僅かに肩を(ちぢ)めて見せて黙って部屋へ向かおうとすると、すれ違い様父がふと何かを嗅ぎとった様な顔をした。

「───待て。」

 父が立ち止まる。

「遊ぶのはいい。だが───大概にしろ。」

 厳しい声音に思わず振り返ると、父の顔に咎めるような険しい表情が浮かんでいた。

 見交わした目に、探るような色が浮かぶ。

 寸の間見合って、やがて父は小さな溜息と共に言った。

此処(ここ)は、江戸とは違う───」

 ───分かったな。と、念を押すように言い置いて(きびす)を返した父に背を向け、おとこは何気無い素振りで自室へ戻った───。


 襖を締め、長い息を吐く。

 悟られたかと、咄嗟にそう思った。

 しかし、白粉(しろい)の匂いならともかく、血の臭いが残っていたとは思えない。薄暗がりで振るった刃は思いの外の手際だったらしく、着ているものを改めてみても目に立つ返り血などはない。

 もしや───と、横に置いた刀を取り上げ、抜いてみる。

 昨夜の内に(ぬぐ)って置いたそれは、すらりときれいに抜けた。柄にも刀身にも血の汚れは無い。刃こぼれも無く、僅かに脂に曇っている事を除けば、それを振るった(あかし)は無いと言って良い程だった。

 まさか───

 ぽつりと心中に湧いた黒い染みのような疑念を、おとこは打ち消す。

 父が知っている筈がない。

 昨夜の事を、そして───江戸で、おとこが既に幾度か人を斬っている事を。

 良くない仲間と(つる)んで度胸試しの戯れに斬ったのは、人と言っても非人、しかも非人の帳にも載っていない野非人だった。日々様々な事が起きている江戸では、流れ者の野非人が死んだところで人の口に上ることもない。斬った後、川へ流した屍骸が見つかったのかどうかさえ、おとこ自身も知らなかった。

 知られている筈が、ないではないか───

 唇に、わざと下卑(げび)た笑みを浮かべて、「───思い過ごし、だ。」と、そう呟いてみるが、一度心に湧いた疑念は晴れなかった。

 ふっと小さなため息をついて、元の通りに刀を収め、脇に置く。

 考えたところで仕方がない───

 あの高揚を知った後では、どの道これを最後にするつもりはない。

 さて、次はどうするか───

 襖も障子も閉て切ったままの薄暗い部屋で、おとこは畳の上に仰向けに寝転がる。そろそろ昇り切ったのだろう太陽が、裏庭の淀んだ空気を蒸し上げてゆく。

 首筋を、汗が伝った。

───昨夜は、あれ程に気が清いたものを……

 早々に鬱鬱としたものが心のうちへ忍び入り、晴れていたところにどす黒い雲がかかる。

 速やかに手を講じねばならない───この様な鬱鬱とした気持ちを、長い間抱え続けるなど我慢ならなかった。

───さて、どうするか。

 陽が高くなった裏庭は、みんみんと鳴く蝉の声が喧しい。

 閉て切られた障子戸に白々とした夏の陽射しが照りつけ、閉て切られた室内は一層暗く沈んで見えた。

 薄闇の中、流れる汗もそのままに天井を仰ぎおとこはくつりと嗤う。

 その胸の内には、一際暗い澱みがあった。

 薄暗がりに目を凝らし、おとこはやがて己の内の暗闇に身を委ねた───。


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