2.骸
夜更けから降り出した雨が朝方に止んで、空には薄明かりが差していた。夜の間しとどに濡れた道には水が浮き、あちこちに泥濘が出来ている。
泥濘を避けながら、えんは境の橋に近い道を歩いていた。
この道はそのまま川沿いの通りへと続いている。酒食を供する店が並び、ささやかな歓楽街を形作っているその通りは、中心に近いほど格の高い料理屋を配し、中心から離れる程に格が落ちてゆく。橋に近い通りの果てには、うらぶれ寂れた小店が押し合うように軒を連ね、その小店さえも境の橋が見通せる辺りからは無くなって、切り離された場所と場所を繋ぐように、しばらくはただ泥濘む道だけが続く。
泥濘みの始まり、小店の途切れる僅か手前に出来た人だかりの前で、えんは足を止める。
集まった人々が遠巻きにしているのは、無残な死骸だった。
雨に打たれ泥に塗れて一層無残な様を晒すそれは、うつ伏せて後ろを振り返った様な形で倒れていた。逃げかける所を斬られたのか、肩から背中に掛けて割下ろされたように裂けている。身体の厚みの半分ばかりを切り裂いた傷は、男の背を斜めに割いて腰の辺りまで続いていた。
───酷いことを。
老いた男の虚ろに見開かれた目を見て、えんは小さくため息をつく。刑場の骸とは違い、その顔には不意に訪れた死に対する恐怖と驚きが張り付いている。
辻斬りか、無礼討ちか───
いずれにせよ無残な刀傷を見れば、斬ったのは侍だろう。非人を斬ったところで、侍が真っ当にその罪を問われることはない筈だった。
「───ひと思いにやって貰ったんだ、三途の川の向こうでありがたがってるだろうよ。」
何処からか、心無い言葉が飛ぶ。
咎める声が無いのは、死んでいる男が非人だからだろう。
ひと目で非人と分かるその骸に向けられる目は冷たく、集まった野次馬も遠巻きにするばかりで、側による者はない。
無残な死にも拘らず、どこか他人事のような乾いた気配が漂うのもその所為に違いなかった。
遠巻きにした野次馬が眉をひそめて囁く声を聞くと、男はこの辺りでは馴染みの顔であったらしい。夜ごと裏通りへ出てきては、僅かに一、二杯の酒を買っては屯していくのが常のようだった。
───非人がこんなところへ出てくるからよ。
厳しく守られてはいないとは言え、陽が落ちてから非人等が集落の外へ出る事は許されていない。迷惑そうに罵る声は多く、人垣の後ろからそっと覗く同じ非人らしき者たちさえ、小さなため息とともに頷いている。老いて酒に飲まれた男は、既に仲間内にも身の置き所が無かったのかも知れない───
そう思うとひどく哀しい思いがして、えんは老いた男の骸からそっと目を逸らした。
非人頭に知らされたのだろう。やがて刑吏の手下を務める非人等がやって来て、男の骸を菰に包んで運んで行った。
集められた非人等の手で地面に散った血の跡が削られ、新しい砂が撒かれて通りが清められる。人だかりが消える頃には、男が死んだ痕跡は跡形も無くなっていた。幾日かすれば、近くの者が迷惑げに話すばかりで、男の死など忘れられて仕舞うのだろう。
───哀しいもんだね。
骸を見送って、えんは呟く。
暑い夏の日が照り始め、泥濘るんでいた道は白く乾き始めている。
寒々しい思いを抱えたまま、えんはそっとその場を離れた。




