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木の下闇  作者: 皇 凪沙
3/22

2.骸


 夜更けから降り出した雨が朝方に止んで、空には薄明(うすあ)かりが差していた。夜の間しとどに濡れた道には水が浮き、あちこちに泥濘(ぬかるみ)が出来ている。

 泥濘を避けながら、えんは境の橋に近い道を歩いていた。

 この道はそのまま川沿いの通りへと続いている。酒食を供する店が並び、ささやかな歓楽街を形作っているその通りは、中心に近いほど格の高い料理屋を配し、中心から離れる程に格が落ちてゆく。橋に近い通りの果てには、うらぶれ寂れた小店が押し合うように軒を連ね、その小店さえも境の橋が見通せる辺りからは無くなって、切り離された場所と場所を繋ぐように、しばらくはただ泥濘む道だけが続く。

 泥濘みの始まり、小店の途切れる僅か手前に出来た人だかりの前で、えんは足を止める。

 集まった人々が遠巻きにしているのは、無残な死骸だった。

 雨に打たれ泥に(まみ)れて一層無残な様を(さら)すそれは、うつ伏せて後ろを振り返った様な形で倒れていた。逃げかける所を斬られたのか、肩から背中に掛けて割下(わりお)ろされたように裂けている。身体の厚みの半分ばかりを切り裂いた傷は、男の背を斜めに割いて腰の辺りまで続いていた。

───(むご)いことを。

 老いた男の虚ろに見開かれた目を見て、えんは小さくため息をつく。刑場の骸とは違い、その顔には不意に訪れた死に対する恐怖と驚きが張り付いている。

 辻斬(つじぎ)りか、無礼討(ぶれいう)ちか───

 いずれにせよ無残な刀傷を見れば、斬ったのは侍だろう。非人を斬ったところで、侍が真っ当にその罪を問われることはない筈だった。


「───ひと思いにやって貰ったんだ、三途の川の向こうでありがたがってるだろうよ。」

 何処(どこ)からか、心無い言葉が飛ぶ。

 (とが)める声が無いのは、死んでいる男が非人だからだろう。

 ひと目で非人と分かるその骸に向けられる目は冷たく、集まった野次馬も遠巻きにするばかりで、(そば)による者はない。

 無残な死にも(かかわ)らず、どこか他人事のような乾いた気配が漂うのもその所為(せい)に違いなかった。

 遠巻きにした野次馬が眉をひそめて(ささや)く声を聞くと、男はこの辺りでは馴染みの顔であったらしい。夜ごと裏通りへ出てきては、僅かに一、二杯の酒を買っては屯していくのが常のようだった。

───非人がこんなところへ出てくるからよ。

 厳しく守られてはいないとは言え、陽が落ちてから非人等が集落の外へ出る事は許されていない。迷惑そうに罵る声は多く、人垣の後ろからそっと覗く同じ非人らしき者たちさえ、小さなため息とともに頷いている。老いて酒に飲まれた男は、既に仲間内にも身の置き所が無かったのかも知れない───

 そう思うとひどく哀しい思いがして、えんは老いた男の骸からそっと目を逸らした。

 

 非人頭に知らされたのだろう。やがて刑吏(けいり)手下(てか)を務める非人等がやって来て、男の骸を(こも)に包んで運んで行った。

 集められた非人等の手で地面に散った血の跡が削られ、新しい砂が撒かれて通りが清められる。人だかりが消える頃には、男が死んだ痕跡は跡形も無くなっていた。幾日かすれば、近くの者が迷惑げに話すばかりで、男の死など忘れられて仕舞(しま)うのだろう。

───哀しいもんだね。

 骸を見送って、えんは呟く。

 暑い夏の日が照り始め、泥濘るんでいた道は白く乾き始めている。

 寒々しい思いを抱えたまま、えんはそっとその場を離れた。

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