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木の下闇  作者: 皇 凪沙
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20.後生


 随分と長い時が経った気がした。それとも、幾らも時など経っていないのかも知れない───。

 あまりの穢らわしさ故か獄卒鬼等さえ滅多に姿を見せない屎泥地獄の内で、今この時目の前の糞泥に溺れない様にするのが精一杯のおとこには、どれほどの時が流れたかなど知りようも無い。悪臭に喘ぎ、(おぞ)ましさに悶え、苦痛に身をよじる時は、一刻が一年にも感じられているのかも知れなかった。

 懸命にもがいて、漸々糞泥の上に出した口から僅かに息を吸い、おとこは嗤う。捨て置かれ、為す術もなくただもがき続けいる今の有り様は惨めなものだ───しかし、考えてみれば以前と何も変わってはいないではないか───。

 そう己を嗤いながら、おとこは閻魔王の前で会った名も知らぬ女を思い出す。

───あんたが斬ったのは、あんたよりもよっぽど世の中の役に立つ人間だった───。

 あの女の言葉は正しかったのだ───今はそう思う。

 いや、そうではない───

 あの時既に分かっていたからこそ、あれほどに怒りが湧いたのだ。武士でありながら、また武士である故に、役に立たない我と我が身に対する怒りが───。

 情けなさと惨めさが込み上げる。そんな己をおとこは嘲笑った。

「───何を笑う。」

「いや、泣いておるではないか。」

 (あざけ)る様な声がした───見上げる弾みに足を滑らし、糞泥に鼻先まで沈んだおとこを赤青の獄卒鬼等が嗤う。 

「───少しは身の程が知れたか。」

 嘲られながら漸々糞泥の上に顔を出し、おとこはただ黙って獄卒鬼等を見上げる。始めのうちは嘲る獄卒鬼等を睨み上げ、口を極めて罵っていたが、もう既にそうした気持ちは無くなっていた。

「お前が切った非人等への回向の余り水だ。」

 つまらなそうな顔でおとこを見下ろした青の獄卒鬼が、揶揄(からか)うように手にした柄杓を出して見せる。

「欲しいか───」

 そう問われ、僅かな逡巡(しゅんじゅん)の後おとこは肯いた。

 断る理由はない。虫けら同然と見下していた非人等さえ、今の己には雲の上にあるのだ。糞泥に溺れ、蛆虫の餌と成り果てた身には、もう意地も恥もない───。

 素直に肯いたおとこに、青の獄卒鬼が意外そうな顔をした。

 ほら───と、無造作に流し込まれた水は、辛うじて喉を潤す程の僅かなものだったが、舌を刺す苦味も、喉を焼く熱さも、鼻を突く臭気もない清浄な水が喉を流れ、身に染みてゆくと、涸れたと思った涙がぽつりと零れて落ちた。

「やはり、泣いておる───」

 青の獄卒鬼が嗤う。

「僅かに得たばかりの水を涙に変えて零すのだ、余程泣きたかったのであろうよ。」

 嗤わずに置いてやれ───とそう云って、赤の獄卒鬼がおとこを見下ろす。

「お前が其処へ沈んでから、どれほど時が経ったか判るか。」

 哀れむでもなく向けられた問いに、おとこは首を横に振った。

「───三回の忌日もとうに過ぎたわ。年忌を待たず六部(ろくぶ)となったお前の父も、もう三年半は歩いておろう。」

 青の獄卒鬼が呆れ顔で云う。

 そうか───と呟いて、おとこは自嘲(わら)う。

 それ程時が経ってもまだ───父は己の為に祈ってはくれぬのだ。

 家名を汚し、家を潰し掛けた事への怒りは分かる、しかしそれならばなぜ、六部となってまで非人等の供養をするのか───

「なぜだ───」

 声に出して呟く。

 折角清められた口中に、再び糞泥の苦味が広がった。

「───分からぬか。」

 おとこをじっと見下ろして、赤の獄卒鬼が問う。

 青の獄卒鬼が顔を顰めた。

「この者の供養などしたところで、何になる───砂地に水を撒くようなものであろう。」

 そうだな───と、赤の獄卒鬼が頷く。

「今のお前にはどんな供養も届きはせぬ。こんな僅かな水さえも、非人等への供養であるからこそ辛うじてお前に届くのだ───。」

 おとこを静かに見下ろし、獄卒鬼は言う。

「お前の父が老いた身には辛い巡礼を続け非人等を供養するのは、それが成らぬうちはお前の罪が赦されることは無いからだ。」

 獄卒鬼の言葉に、揶揄(からか)いは無かった。

「己も罪を抱えながら己の事は一切何も願わず、ただお前に殺された者達の冥福を、ひいてはお前の罪が幾らかでも早く赦される事を願って廻国(かいこく)を続けている。」

 言葉も無く見上げるおとこに、獄卒鬼は厳しい声で問う。

「子殺しの罪が、どれほど重いものか知っているか。」

 おとこは小さく首を振った。

「ことによると、お前よりも罪が重い。」

 きつく唇を噛んで、おとこは獄卒鬼を見上げる。

「地獄へ───堕ちるというか。」

 当然であろう───と、青の獄卒鬼が嗤う。

「お前を斬った報いを受けるのだ───満足であろうに。」

 嘲笑(ちょうしょう)する獄卒鬼をおとこは睨み上げる。その目に涙が浮かんでいた。

「自身の後生を一番に願えば良いものを───」

 ぽつりとおとこが呟くのを聞き、赤の獄卒鬼が首を振る。

「お前の父は、お前の犯した罪の重さを知っている。お前をその様に育てた父としての責任の重さを、その結果我が子をその手に掛けることになった罪の重さを知っている───。」

 だから、それは出来ぬのだろう───と、獄卒鬼は小さな溜め息を吐く。

 ぽろぽろと、おとこの目から涙が零れた。

「ならば───父は、どうなる。」

 押し殺した様な声で問うおとこに、獄卒鬼等は眉根を寄せて顔を見合わせる。

「己の為の功徳は一切積んでおらぬのだ───死ねば一切の斟酌無く、罪の報いを受けよう。」

 赤の獄卒鬼が云う。

「今のお前の苦など、何ほどもない程の苛烈な責めを、な───。」

 青の獄卒鬼が云った。

 おとこが呻く。項垂れてじっと唇を噛むおとこを、獄卒鬼等が見下ろしていた。

「どうすれば、いい───」

 やがて、おとこが言った。

「俺が───父の、後生を願うには、どうすればいい───」

 青の獄卒鬼が呆れた顔をおとこに向ける。

「お前を斬った者を罰せよと、がなり立てたのは誰だ。」

 赤の獄卒鬼が、ふんと嗤った。 

「地獄の底で蛆虫の餌と成り下がった身が、人の世に有る者を供養すると言うか。」

 見下ろす獄卒鬼等を仰いで、そうだ───と、おとこは肯いた。

「父が己の後生を願わぬなら、俺が願う───どうすれば、よい。」

 嘲笑(あざわら)う獄卒鬼等を見上げて訴えるおとこを、赤の獄卒鬼が笑った。

「さてな───念仏でも唱えてみてはどうだ。」

 青の獄卒鬼が眉を(しか)める。

「地獄の罪人の唱える念仏など、足しにもなるまい。」

 赤の獄卒鬼が、そうであろうなと笑った。

「しかし、たとえ地獄の糞泥の中、虫けらにも満たぬ身の唱えるものでも、仏の御名は穢れはすまい───どれほどの功徳があるかは知らぬがな。」

 成る程と、青の獄卒鬼が笑う。

「なれば、試しに唱えてみるがよかろうよ───」

 口々にそう云って一頻(ひとしき)り笑い、獄卒鬼等は去った。



 背後から切れぎれに拙い念仏が聞こえた。

 獄卒鬼等は顔を見合わせる。

 ほっと息をつくと、青の獄卒鬼が悪戯げに云った。

「しかし、さても随分と弁の立つ事───閻魔王様に取って代わるつもりではあるまいな。」

 青の揶揄いに、赤の獄卒鬼が渋面を作る。

「その様なわけがあるか───ただの、受け売りよ。」

 青の獄卒鬼が、そうか───と、笑った。

「その様な事だろうと思ったわ。」

 一頻り笑い合い、獄卒鬼等はちらりと後ろを振り返る。

 背後からはまだ、漸々唱えるおとこの念仏が聞こえてくる。

 ふん───と、青の獄卒鬼が鼻を鳴らした。

「もう───己が苦しいのも忘れておる。」

 地獄へ堕とした甲斐がない───と顔を顰めて見せるのを、赤の獄卒鬼が笑った。

「どうせ、前座の地獄よ───本当に罪を償うのは、此れからだ。」

 青の獄卒鬼が溜め息を吐く。

 簡単に赦される罪ではない。

 この後は重い罪を償う為により深い地獄へ移されて、長い間辛酸を舐める事になる───獄卒鬼等にはよく分かっていた。

「仕方があるまい───。」

「───なに、過ぎてみれば何ほどの事も無いものよ。」

 どちらからとも無く呟くと、赤青の獄卒鬼等は頷き合い、何処へともなく消えて行った───。

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