1.闇
───つまらない。
曇天を見上げて呟く。
月半ば、十五夜が近い筈の月は、重たげな雲に覆われて欠片も見えない。
雨でも降れば少しは涼しくなるのだろうが、降ってくるにはまだ間があるらしかった。湿気を含んだ生温い風が肌にまとわりつくのが疎ましく、おとこは見上げた空をいまいましげに睨む。
江戸に居れば、今時分こんな風にぼんやりと曇空など眺めてはいなかったものを───
くさくさした気持ちで目を戻すと、通りは既に酔客の姿も疎らで、うら寂しい様子を見せている。江戸ならばまだ宵の口、これからが騒ぎ時という刻限だというのに、田舎町は随分と夜が早いものらしい。
飲み足らず、いっそ妓楼へでも揚がろうかと懐を探って、おとこは舌打ちをする。日頃からさほど余裕があるわけでもない財布は、今日は殊更に軽かった。
無理もない───おとこは苦々しい思いで呟く。
此方へ来てから、飲み代は嵩んでいた。
江戸ではたかが小藩の家臣、さらにその部屋住みの次男など何の身分も無いに等しかったが、国元に戻ればそうはいかない。 藩主の側近く仕える家格の者が、たとえ部屋住みとはいえ城下で気軽に安酒を引っ掛けるわけにはいかず、そこそこの店で、そこそこの料理を整え酒を飲めば、それなりの出費になる。
つけで飲み歩いてくどくどと意見されるのも面倒だったし、どこで何をしているかを一々知られるのも業腹で、今のところは手持ちで飲み歩いているが、そろそろそれも限界かも知れなかった。
大きく舌打ちをして、おとこは生温い闇の中へ歩み出す。何処へ行くというあてもなかったが、帰る気にはなれない。酔いに火照った身体を持て余し、おとこは取りあえずぶらぶらと通りヘ歩きだした。
酔いに任せ、方向も定めずに歩いて行く───どこへ向かっているかも分からなかったが、繁華な場所から次第に離れていくのだけは分かった。行くほどに店の構えは粗末になり、軒先の掛行灯の灯りも心許なくなってゆく。向かう方向を誤ったと思ったが、引き返す気にもなれず、おとこはただ真っ直ぐに寂れてゆく道を歩いて行った。
やがて通りの果てが近づく。辺りには間口の傾き掛けた安酒屋が並び、闇の濃い路地には水と区別がつかぬ酒を一合幾らで売る店が細々と軒を連ねていた。銭さえ持って来れば非人にでも酒を売るような、街末のあやしげな場所だ。まだ屯する者どもがいるらしく、路地の奥からはどこか陰気な酔声が響いている。
あんな連中さえも憂さを晴らしているというのに───
苛々とした気持ちで辻を通り過ぎようとした時、不意に闇に沈んだ路地の一本からふらりと人影があらわれた。
おとこの肩を掠めて、蹌踉めくような足取りで歩いて往く処を見ると、したたかに酔っているのだろう。正気であれば、ぶつかるような場所ではない。
ふっと、怒りが湧いた。
───待て。
怒りを含んだ声で呼び止めると、人影はふらりと立ち止まり振り返った。破れかけた掛行灯の薄明かりに、老いた男の酔顔が浮かぶ。深い皺が刻まれた額の上の、薄くなった髪は非人髷に結われていた。
───非人か。
吐き捨てるようにおとこが呟くと、老いた非人はおとこに怯えた目を向けたまま、よろよろと後ずさった。卑屈な様に、苛立ちがつのる。不穏な気配を察した非人の口から、詫びか言い訳か何かが出る前に、おとこは刀を抜いていた。
驚いた非人が、逃げかかる。
苛立ちと怒りに任せ、おとこはその背に刃を振り下ろした。
骨肉を断つ手答えと共に血飛沫が上がる───
刀を納めて、おとこは骸を見下ろした。うつ伏せに倒れたそれは、背後を振り返ろうとするように首を捩じ曲げている。最前まで、最後の生気を絞り出すようにびくびくと痙攣していた身体は、今はただ力無く転がっていた。見開かれたままの目が光を失い、皺が刻まれた顔からは表情が失せて、非人は命を失った骸となっている。
ふと、おとこの唇に笑みが浮かんだ。
気がつけば、遣り場のない苛立ちが和らいでいる。
手に残る感触を確かめると、久方ぶりに胸のすく思いがした。
───成る程。
込み上げる笑いを堪えて、おとこは頷いた。
そのまま 行く先も定めず早足に歩き出す。
どうせ無礼打ち、誰にも見られてはいない。どこぞへ届け出るのも面倒だったし、何よりこの高揚した気分に水を注されるのが嫌だった。
高まる気持ちに押されるように足早に歩みながら、おとこはもう一度、既に鞘に収まっている刀の柄に手を掛ける。
命を切り裂く手ごたえが、その手にありありと蘇った。
───これだったか。
胸に掛かっていた薄雲が晴れてゆく。
声を上げて笑い出したい誘惑を押し殺しながら、おとこは高揚してゆく気持ちのままに宵闇の中ヘと歩いて行った。