16.野分の朝
強い、風が吹いていた───。
その風に雨が交じり出したらしい。ぽつぽつという音とともに、やがて濡れた地面や青葉の匂いが、寝所に臥して待つ男の元へ届いた。
夏の夜のまだ明けきらぬ刻限。
誰とも知らぬ使いが早暁の門を叩くのを、男はただじっと待っていた。
昨夜───。深夜に戻った男を妻は訝しげな顔で迎えたが、急な用事で遅くなったと言った男の言葉を、特に不審には思わなかった様だった。息子を斬った夜を、男は何時もの様に妻と並んで夜具に入りただじっと、妻の寝息と強くなる風の音を聞いて遣り過ごした。
風雨の中、門が叩かれる───
一睡も出来ぬまま横たわっていた長い夜がようやく明けたのだと、男はゆっくりと息を吐く。取りつぎに出た小者が、慌てた様子で廊下を近づいてくる音を聞きながら、男は身を起こした。
「何事だ───。」
問うが、慌てる小者は要領を得ない。
慌てるのも当然の事だ───そう心の内で思いながら小者を叱り宥め、男は手早く衣服を整え表へと急いだ。
「早朝よりお騒がせ致しまして申し訳ございません───」
そう言って丁寧に頭を下げたのは、身形の良い四十ばかりの実直そうな男だった。町内でも名の通った料理屋の番当を名乗った男は、憚るようにこちらを見上げ、そっと告げた。
───こちらのお身内ではと思いまして。
そう言って告げられた遺体が見つかった場所は、その料理屋からほど近い、男には全く覚えのない場所だった。
お武家様とお見受け致しましたので───と、遺体は既に近隣の寺院に安置してあると云う。名を聞けば、それなりの格式を持った寺院である。
不安げな表情で、家内の者達がこちらを窺っている。
向けられる不安を鎮めるように、男は重々しい仕草でゆっくりと頷いた。
長男を傍らに呼び、目立たぬよう小者をひとりだけ付けて、直ぐに確かめに行くように命じる。
硬い表情ではいと頷き、番当を名乗る男の案内で風雨の中を出て行った長男は、やがて白布に包まれた弟の亡骸を連れ帰った───。
亡骸を前に妻が泣き崩れる───
家内の者等が少し離れたところから、青ざめた顔でこちらを取り巻いている。
重々承知していた光景の中、男はじっと立ち尽くす。
───こうするしか、なかった。
その思いは、揺らいではいない。
非人とはいえ、幼子さえその手に掛けようとした息子だ。
けれど───。
息子の遺体を見下ろしたまま、男は込み上げる悲しみをじっと堪える。すべては考えつくした末の事だった。それでもこうして向き合えば、やはり親であり子であるのだと思い知らされる。
不憫な───
己の手に掛かって死んだ息子に、男は心の内でそっと呟いた。
「───着替えさせてやって下さい。」
立ち尽くす男の傍らで、己もぐっしょりと雨に濡れた長男が目元に滴る水を拭いながらそう言った。
そうだな───と、男は肯く。
「二人の着替えを用意してやれ。」
そっと肩に手を置いてそう言うと、変わり果てた姿の息子に縋って泣き崩れていた妻は、気丈に立ち上がった。
「───斬られています。」
二人の息子の着がえを用意しに奥へと立って行く母を見送って、長男が父にそっと耳打ちする。
「そうか───。」
男は頷いて、長男を見上げた。
既に男の背丈を越えた息子に、これまでに感じた事の無かった頼もしさを感じる。
ぐったりと、疲れた気がした。
この件が落ち着いたなら御役を辞し、息子に家督を譲って───。
そんな考えが、心の内に浮かぶ。
「近頃は、物騒な話も聞く───」
じっと父を見つめる長男にそう言って、男は命亡く横たわる次男へ目を落とした。
「───何にせよ武士ならば、病や事故で命を落とすより、本人も良かっただろう。」
遣り切れない表情を浮かべたまま「はい」と頷く長男を見上げ、
「けれど───」と、男は呟く。
やがて、妻が二人の息子の着替えを揃えて戻って来るのを待って、男はゆっくりとひとつ息をつき、その場にいる者たちを見回して言った。
「───病死、の届けを出す。」
長男が、口惜しげにちらりと足下に目を落とす。
辻斬りを疑われる事が無くとも、武士の斬死は不名誉な事だ。しかも背後から斬られたとなれば、本人の名誉は元より家の名誉にも傷がつき兼ねない───。
こうした時には、病死として届けを出すのが武家の常だった。
押し殺した声で再び泣き始めた妻の肩を抱き、男は息子の死顔を見下ろす。
それでも───と、男は静かに目を閉じた息子の顔を見つめる。
───お前には、十分な名誉であろう。
胸の内でそう呟いて、男は息子の亡骸にそっと手を合わせた。




