12.川面
夕暮れの風が吹き、日中の暑さを散らして行く。
久方ぶりの爽やかな夕暮れ時。川面を吹き過ぎる風は、どこか青くさい匂いがした。
川岸に座り赤く染まる空を眺めて、おとこはゆっくりと息をする。
久々に本当に息をした気がした。
若い非人を斬ってから、数日。手にはまだ、快い感触が残っている。腰の物にさりげなく手をかけてそれを確かめると、生きている心地がした。
既に幾人かを斬ったこの刀は、業物でも名刀でもない。
おとこが十五で元服した時に父から渡されたそれは、造りが頑丈なだけが取柄の銘さえ無い質素な刀だった。
刀に手を掛けたまま、おとこは口元に皮肉げな笑みを浮かべる。
元は武功で名を成した家らしく、当主と嫡男の差料は先祖伝来の刀と定められている。兄が元服した時に渡されたのは、先祖伝来の名刀だった───。
どうせ───抜く事さえもあるまいに。
どれほど立派な刀を差したところで、兄は生涯ひとを斬ることは疎か、人前で刀を抜くことさえ無いかも知れない。
そう思えば、立派な差料はいっそ滑稽だった。
涼を含んだ風が頬を撫で、ひぐらしの少し哀しげな声が響く。
赤から紫に変わっていく空を眺めながら、おとこはふと、幼い日を思い出す。父の笑顔を見上げて、ただ真っ直ぐな夢を見ていた幼く愚かな自分を思い出すと、苦い笑みが浮かんだ。
既に父は己を見限っているのかもしれない───。
あの日非人溜まりで若い非人を斬り、夜半にそっと屋敷へ帰ってから今日まで、父とまともに顔を合わせてはいなかった。
見限られているのならば、それでいい───
家の体面を考えるなら、父は息子のしていることを、公にはできない。ならば放って置くしかないだろう。放って置かれる間は、こうして憂さを晴らせばいい───
いずれ終わりは、来る。
それは分かっていた。
それでいい。むしろ、それが待ち遠しい───。
辺りが薄暮に包まれてゆく。
おとこはそっと刀に手を遣る。
武骨なばかりの刀だが、そこには力があった。
刃を振るうその時は、武士でいられる。
柄を手の中に握り込みゆっくりと息を吸うと、不安や苛立ちが消えていく気がした。
ふっと息を吐いて、おとこは立ち上がる。
今はまだ、大丈夫だ。けれど───
次第に濃紺に変わってゆく空を見上げ、おとこはふと湧いた心細いような気持ちを笑い飛ばす。
大丈夫でなくなったなら、また斬ればいい。
江戸のようにはいかなくとも、斬っても構わぬような者たちは幾らもいる。
さて、次はいつがいいか───この昂りがなくならぬうち、苛立ちが募らぬうちに。
「また、斬ってやる───。」
心細さを振り払うように呟いて、おとこは次第に濃くなる闇の中へと歩き出した。




