10.死者
快活な若者だったのだろう───
須弥壇下に座る青年に目を遣って、えんはそう思う。
昼間の暑さが少し和らいで、涼を含んだ風が何処からとも無く吹き込んでくる。そっと閉めた扉の外では、糸のように細い月の下を、蛍が幾つか仄かに光って飛んでいた。
そんな夜の閻魔堂で、えんはその青年に会った。
己が死んだ事さえ碌に分からぬままに死んだ彼は、遺して来る事になってしまった母親の事を頻りに心配していた。
具合が、あまり良くなかったから───
本来ならば、職人は住込みで働く事になっていたが、母親の具合が良くなかったので、しばらく通いにして貰っていたのだとそう言って、彼は心配そうに顔を顰める。
あの日───
作業場で、ちょっとしたしくじりがあった。
彼の所為ではなかったから事情を知っている仲間達は彼に、先に帰れとそう言った。しかし、普段から事情を汲んで貰っている彼は、それが出来なかった。母親も落ち着いて来ているからと、彼は仕事が終わるまで付き合って、ようやく作業場を出た。
随分と遅い時間になっていた。
母親が心配で、早く帰ろうと急ぎ足で通りへ出た。
月のない真っ暗な夜だったのを覚えている。
その後は───分からない。
幾らも行かないうちに、何の覚悟をする問も無く、何が起きたかも判らぬままに彼は死んで、気がつけばここに居た。
閻魔王がその顔に憂いを刻んで、彼に何が起きたのかを告げる。
己が殺されたのだと知って、彼はようやく少し悔しげな顔をした。
「───まだ、生きていられるもんだと思っていたのにな。」
せめて、お母より長生きしたかった───と、彼はそう言って項垂れた。
えんは唇を噛む。
大きな罪があったわけでもない。
生まれながらの非人だったが、その境遇を不満に思うこともなく、与えられた場所で、穏やかに当たり前に生きていた───
「お母は、泣いてたかい───」
えんを見上げて、申し訳なさげに彼がそう言う。
寸の間言葉が見つからなかったえんは、足元を見つめて、ああ───と小さく頷いた。
「皆んなが付いててくれてる───大丈夫さ。」
慌てて言い添えると、彼は少し悲しげな顔で頷いた。
あの子はどうしたろう───
僅かな沈黙の後、彼が小さな声で呟く。
「泣いてたよ。」
えんがそう言うと、彼は少し赤くなった後、寂しげな顔をした。
「仕方がない、な───」
思い切るように、彼が呟く。
その顔には諦めたようにさばさばとした、けれど悲しい表情が浮かんでいた。
「さて───」
閻魔王の声が響いた。須弥壇の上に目を向けた彼を、閻魔王の憂顔が見下ろしている。
倶生神が小さく息を吐き、目の前の鉄札を取った───
「これで、止むと思うかい───」
問うてはならないとわかっている問いが、えんの口を突いて出た。
閻魔王が渋い顔でえんを見下ろす。
倶生神が、悲しげに手にした鉄札を伏せた。
おそらく人斬りが死ぬまで、凶行が止む事はないだろうとえんにもわかっている。
このままでは、また、同じような事が起きてしまう。悔しさを堪え、様々なものを思い切って、次の世へと消えていった若者の背を思い出し、えんは小さく首を振る。
「このままじゃ、いけない。」
呟くえんを、閻魔王が咎めるように見下ろす。
「ひとの世の事は、儘にはならぬと云った筈だ。」
そう釘を刺し、閻魔王は少し声を落として言い添える。
「───おそらくは、片が着くだろう。そう、長くは掛からずにな。」
しかし───
と、倶生神が傍らの鉄札を取り上げて呟く。
「これが最後とは、行かぬかもしれません。この後どうなるか、今はまだ───」
うむ、と閻魔王が頷いた。
「気をつける事だ───無闇に関われば、生命を落とす者が増えぬとも限らぬ。」
えんにそう言って、閻魔王はため息をつく。
「我等はひとの世の事には関われぬ。」
えんに向けられた閻魔王の眼差しは、本来ならばえんをも関わらせるべき事では無いのだと、そう語っていた。
「───分かっているよ。」
えんは頷く。
それでも、ただ放って置くわけにはいかなかった。
「精々、気をつけるように言うだけさ。」
仕方がないと言うように、閻魔王が小さくひとつ息を吐く。
倶生神が思わしげな顔でえんを見下ろした。
「呉々もお気をつけ下さい。」
背後に聞いた倶生神の声に肯いて、えんは閻魔堂を後にした。




