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木の下闇  作者: 皇 凪沙
11/22

10.死者


 快活な若者だったのだろう───

 須弥壇下(しゅみだんした)に座る青年に目を遣って、えんはそう思う。

 昼間の暑さが少し和らいで、涼を含んだ風が何処からとも無く吹き込んでくる。そっと閉めた扉の外では、糸のように細い月の下を、蛍が幾つか仄かに光って飛んでいた。

 そんな夜の閻魔堂で、えんはその青年に会った。

 己が死んだ事さえ碌に分からぬままに死んだ彼は、遺して来る事になってしまった母親の事を(しき)りに心配していた。

 具合が、あまり良くなかったから───

 本来ならば、職人は住込みで働く事になっていたが、母親の具合が良くなかったので、しばらく通いにして貰っていたのだとそう言って、彼は心配そうに顔を顰める。

 あの日───

 作業場で、ちょっとしたしくじりがあった。

 彼の所為(せい)ではなかったから事情を知っている仲間達は彼に、先に帰れとそう言った。しかし、普段から事情を汲んで貰っている彼は、それが出来なかった。母親も落ち着いて来ているからと、彼は仕事が終わるまで付き合って、ようやく作業場を出た。

 随分と遅い時間になっていた。

 母親が心配で、早く帰ろうと急ぎ足で通りへ出た。

 月のない真っ暗な夜だったのを覚えている。

 その後は───分からない。

 幾らも行かないうちに、何の覚悟をする問も無く、何が起きたかも判らぬままに彼は死んで、気がつけばここに居た。

 閻魔王がその顔に憂いを刻んで、彼に何が起きたのかを告げる。

 己が殺されたのだと知って、彼はようやく少し悔しげな顔をした。

「───まだ、生きていられるもんだと思っていたのにな。」

 せめて、お(かあ)より長生きしたかった───と、彼はそう言って項垂れた。

 えんは唇を噛む。

 大きな罪があったわけでもない。

 生まれながらの非人だったが、その境遇を不満に思うこともなく、与えられた場所で、穏やかに当たり前に生きていた───

「お母は、泣いてたかい───」

 えんを見上げて、申し訳なさげに彼がそう言う。

 寸の間言葉が見つからなかったえんは、足元を見つめて、ああ───と小さく頷いた。

「皆んなが付いててくれてる───大丈夫さ。」

 慌てて言い添えると、彼は少し悲しげな顔で頷いた。

 あの子はどうしたろう───

 僅かな沈黙の後、彼が小さな声で呟く。

「泣いてたよ。」

 えんがそう言うと、彼は少し赤くなった後、寂しげな顔をした。

「仕方がない、な───」

 思い切るように、彼が呟く。

 その顔には諦めたようにさばさばとした、けれど悲しい表情が浮かんでいた。

「さて───」

 閻魔王の声が響いた。須弥壇の上に目を向けた彼を、閻魔王の憂顔が見下ろしている。

 倶生神が小さく息を吐き、目の前の鉄札を取った───



「これで、止むと思うかい───」

 問うてはならないとわかっている問いが、えんの口を突いて出た。

 閻魔王が渋い顔でえんを見下ろす。

 倶生神が、悲しげに手にした鉄札を伏せた。

 おそらく人斬りが死ぬまで、凶行が止む事はないだろうとえんにもわかっている。

 このままでは、また、同じような事が起きてしまう。悔しさを堪え、様々なものを思い切って、次の世へと消えていった若者の背を思い出し、えんは小さく首を振る。

「このままじゃ、いけない。」

 呟くえんを、閻魔王が咎めるように見下ろす。

「ひとの世の事は、(まま)にはならぬと云った筈だ。」

 そう釘を刺し、閻魔王は少し声を落として言い添える。

「───おそらくは、片が着くだろう。そう、長くは掛からずにな。」

 しかし───

 と、倶生神が傍らの鉄札を取り上げて呟く。

「これが最後とは、行かぬかもしれません。この後どうなるか、今はまだ───」

 うむ、と閻魔王が頷いた。

「気をつける事だ───無闇に関われば、生命を落とす者が増えぬとも限らぬ。」

 えんにそう言って、閻魔王はため息をつく。

「我等はひとの世の事には関われぬ。」

 えんに向けられた閻魔王の眼差しは、本来ならばえんをも関わらせるべき事では無いのだと、そう語っていた。

「───分かっているよ。」

 えんは頷く。

 それでも、ただ放って置くわけにはいかなかった。

「精々、気をつけるように言うだけさ。」

 仕方がないと言うように、閻魔王が小さくひとつ息を吐く。

 倶生神が思わしげな顔でえんを見下ろした。

「呉々もお気をつけ下さい。」

 背後に聞いた倶生神の声に肯いて、えんは閻魔堂を後にした。


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