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木の下闇  作者: 皇 凪沙
10/22

⒐苦悩


 人斬りの噂が立っていた。

 斬られているのが非人ばかりという事もあり、市中には真面目に取り合う者は今のところ殆どないが、集落内で仲間を斬られた非人等の間には、不穏な気配が流れ始めている。既に非人頭には、集落内の不安を収めることに努めるよう通達が為されていた。

 また、息子が人を斬った───

 その事実に、男は苦渋を滲ませた顔で溜め息を吐く。

 斬ったのが息子だということは疑いようが無い。非人が斬られたという日の前後に、男は息子からあの気配を嗅ぎ取っていた。わざわざ非人溜まりまで出掛けているからには、無礼打ちでは無い。恐らく息子は、斬ることを楽しんでいるのだ───

 深い溜め息が男の口からもれた。

 もはや父の言葉が届いていない事は明白だった。

 このままでは、いずれ非人を斬るのに飽いて、市中で辻斬りでもやり兼ねないが、禁足を命じたところで大人しく従う筈もない。無理に家裡に留めて置くには、家内の者達に次男がしている事を知らせねばならないだろう。

 一度複数が知った秘密は、何処から漏れるか知れない───

 家内の者達を信用していないわけではないが、些細な事ではない。この後の事を思うなら、明かすことは出来なかった。

 これ迄か───

 綺麗に晴れた外へちらりと目を遣って、男は深く息を吐きながら己の胸元へ手を置く。息子を持ったのは、早くは無かった。男は、もう若くはない。だが今ならばまだ始末をつけることができる自信があった。

 次男をこのままにして置けば、この家が危うくなる。

 そう思うと、ようやく道を歩み出したばかりの長男の顔が浮かんだ。

───あれを巻き込む事は出来ない。

 そう、男は思う。

 幼い頃には弟に比べて愚鈍とも思えた長男は、しかしけして諦めるという事が無かった。何を修得するにしても人一倍の時を掛けながら、倦まず、諦めず、そうして身に付けた事はけして手離さずに大人になった。

 弟とは違い、兄は己の得たものの得難さ、脆さを知っている。それを守る事の難しさと重さを知っている。今となって見れば、結局兄の方が家督を継ぐに相応しかったのだと、父である男はそう思う。


 開け放った障子を震わせ、乾いた夏の風が吹く。

 男は小さく息を吐いた。

 既に長男は一人前とは言えないながらも、この家を背負って道を歩み出している。愚直な長男の行く道は、できる限り平坦なものにして置いてやりたい。そう思えば、この家の先行きにとって危難となる事は、除いて置かねばならなかった。

 男は静かに目を閉じる。

───やるならば、今だ。

 半年後、一年後、三年後、事態はより深刻になり、この身体は老いて行く───

 晴れた空に、野鶲の高い声が響いた。

 男は顔を上げ、目を開ける。

 取り返しが付かなくなる前に───この手で始末をつけねばならない。

 そう思って刀の柄に指を触れると、ぞくりと冷たいものが身の内に走った。そんな結末を望んではいないのが、自分でもはっきりと分かる。

 それでも───と、男は思う。

 それでもその時が来れば、己は躊躇わないだろう───

 外へ目を遣ると、夏の日の強い光が青々と繁る庭木を照らし、その下に濃い影を落としている。

 何故───。

 呟いて、男は唇を噛む。

 どちらも同じ、息子であった筈だった。

 幼い日、どちらもその顔には目映いばかりの希望を映していた。

 それがなぜ、片方は期待を背に立ち、片方は家を危うくする厄介者と成り果てたか───

 ふわりと風が吹き過ぎる。吹く風に勢いを得たか、蝉の声が高くなった。

 親としての迷いを押し殺し、男は静かに立ち上がり庭に立つ。

 三度、このような事をさせるわけには行かない───

 夏の光に満ちた庭で木下闇の暗さに目を遣ると、堅く握った手にぽつりと熱い雫が落ちた。

 その時が来たなら、せめてこの手で───

 苦渋の思いを胸に、男は蒼く広がる夏空に静かに背を向けた。

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