(9)
今日も先輩は羽付きの紐を持って来ていて、それを私に差し出す。
「春香ちゃんも、これでマルと遊んでみたらどうかな」
「ありがとうございます、やってみます」
紐を受け取る時、先輩に指が私の手に触れた。
大したことではないのに、先輩を意識しすぎてビクッと震えてしまう。
受け取り損ねた紐が地面に落ち、すかさずマルが飛びつく。
「こら、落ち着け。春香ちゃんが、これから遊んでくれるから」
マルを左手で制し、先輩が紐を取り戻した。
「さぁ、どうぞ。マルに負けないように、春香ちゃん頑張って」
「は、はい」
私は先輩の手に触らないように、紐の端っこを掴む。
それを見たマルは、さっそくじゃれついてきた。
私は先輩が昨日していたように、マルがギリギリ追いつけないスピードで走りだす。
「ウニャァン!」
大きな鳴き声を上げ、マルが猛スピードで追いかけてきた。
子猫といえど、結構すばしっこい。
それに加え、私はあまり足が速くないし、体力もない。
すぐに息が上がってしまい、何度もマルに追いつかれそうになっていた。
そんな私を見かねたのか、先輩が走り寄ってくる。
「春香ちゃん、バトンタッチ」
私は返事をする余裕もなく、無言で腕を伸ばした。
すると紐を持っている私の右手を、先輩の左手がギュッと包み込む。
――えっ!?
驚いて足を止めてしまったけれど、既に紐は無事に先輩の手の中にあって、一人と一匹は楽しそうに遊んでいた。
私は自分の右手を左手でソッと包む。
――先輩は紐を落としたくなくて、それで私の手ごと掴んだんだよ。だって、紐を落としたら、マルに取られちゃうし。
先輩の行動をそう理由付けて気持ちを落ち着かせようとするけれど、ドキドキと早鐘を打つ心臓はなかなか大人しくなってくれない。
それと、心臓がうるさい理由はもう一つあった。
「ねぇ、春香ちゃん、見てる? 俺とマル、いい勝負だよ。春香ちゃん、ほら。春香ちゃーん」
今日はやたらと先輩から名前を呼ばれている気がする。
おかげで、心臓が休まる暇がない。
「ど……、どっちも頑張って……」
とりあえず声援を投げかける。
楽しそうに遊んでいる様子を眺めながら、私は大きく息を吐いた。
こうして先輩と会っていたら、どんどん好きになってしまいそうだ。
ううん、『なってしまいそう』ではなく、『なっている』というのが正しい。
今ではふとした時に先輩の顔が脳裏に浮かび、そのたびに心臓がキュウッと締め付けられて苦しいのだ。
報われなくても想っているだけでいいなんて、そんなことはできない。
先輩への想いを自覚してから数日しか経っていないのに、その数日間で味わった切なさは言葉にできないくらい深く大きい。
私が先輩以上に好きになれる誰かと出逢うまで、胸が締め付けられる切なさを味わい続けなくてはいけないなんて、それはあまりにも苦しすぎる。
報われることがないと分かっているなら、諦めてしまったほうがいいに決まっている。
友達の妹だからという理由で他の女子より親しくしてもらっているけれど、要はそれ以外の理由はないのだ。
兄の存在がなかったら、きっと先輩が卒業するまで一言だって会話を交わす機会はなかっただろう。
だって、私は先輩に相応しくないから。
勉強だって特別できる訳じゃないし、運動だってそうだ。
歌が上手でもないし、ピアノやバイオリンが弾けることもない。
人よりも特別優れた才能がないのだ。
それは、外見に関しても同じ。
兄は私のことを可愛いと言ってくれるけれど、それは明らかに身内の欲目だろう。
身長だって、低くもなく高くもない。
スタイルの良さで褒められたこともない。
先輩に相応しいのは、先輩の隣が似合うのは、私なんかじゃない。
宮永さんや前沢さんのように一歩も二歩も抜け出した人でなくては、周りの人たちは納得しないだろう。
――少しずつ、先輩と距離を取らないと。
先輩と会っていたら、いつまで経っても諦めがつかない。
先輩と会っていたら、『友達の妹』というポジションでは物足りなくなってしまう。
そのうち、先輩に可愛がってもらっているマルを羨んでしまいそうだ。
たぶんだけど、距離を取るのは、そんなに難しくないはず。
学年が違うから、校舎内で顔を合わせることもない。
今日は兄のお弁当を届けるといった理由があったけれど、なにか理由がなかったら私が兄の教室を訪れることはいままでになかったのだ。
そして、先輩が私の教室にやってくることも絶対にない。私のクラスには、先輩と個人的に親しい人はいないから。
マルに会えなくなるのは嫌なので、裏庭に行かないことは考えていない。
時間をずらすとか、マルにおやつをあげたらすぐに帰るとか、先輩と顔を合わせる時間を短くすることから始めてみよう。
それがうまくいったら、裏庭じゃなくて用務員室でマルと会ったらいいのだ。
マルは放課後になるとここに来るけれど、お昼は用務員室で兄弟猫たちと遊んでいる。
だから、お昼休みに顔を出したら、マルには会える。
――うん、そうしよう。
私は一人で納得し、青空を見上げてゆっくりと息を吐いた。
やっぱり今日も先輩に軍配が上がり、グッタリ疲れたマルは先輩に左手で抱っこされて戻ってきた。
「マル、残念だったね」
「ふにぃ……」
情けない声で鳴く様子に、私はクスッと笑ってしまう。
そんな私を、先輩がジッと見つめていた。
「春香ちゃん、目が赤いよ」
「……え?」
言われて、ドキッとなった。
泣いた訳ではないけれど、少しだけ涙が滲んだから、そのせいだろう。
「あ、あの、さっき、ゴミが入ったので……」
苦笑いを浮かべて言い訳を口にしたら、先輩がズイッと私の前に立つ。
「見せてごらん」
妙に真面目な表情に、私は思わず一歩下がった。
「だ、大丈夫です。もう、平気です」
ゴミなど入っていないので、本当に平気なのだ。
だけど、心配症の先輩は私の言い訳を信じていない。
「でも、まだゴミが入っていたら大変だよ。ほら、見せて」
「い、いえ、あの……」
しどろもどろになって忙しなく視線を彷徨わせていたら、先輩が短く息を吐いた。
「マル、ちょっと下ろすよ」
そう言って、先輩は左手で抱っこしていたマルを地面に下ろす。
なにをするのかと思っていたら、右腕がいきなり引っ張られた。