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(6)

 謎の頭ナデナデからしばらくして、先輩が「そろそろ、マルを用務員室につれていかないと」と言った。

 田沼さんが飼っている猫は学校の許可を得ているので、校内に連れて入ることができるのである。

 いくらか頬の熱が収まった私は、大きく息を吸ってから顔を上げた。

「そうですね。じゃあ、私がつれて行きますね。先輩は、先に帰ってください」

 両手を差し出してマルを受け取ろうとしたら、なぜか先輩がマルを胸に抱き込む。

「どうして、そんなことを言うの?」

「どうしてって……。先輩が用務員室に寄ったら、遠回りになるじゃないですか」

 私の教室は一階で、用務員室も一階。

 先輩は三年生なので、教室は三階だ。明らかに、遠回りである。

 お互い通学バッグを取りに教室に戻らなくてはならないので、私がマルを連れていくほうがいいはずだ。

 相手は先輩で、しかも兄がお世話になっている人だから、気を遣ってのことだったのだが。

 どうして、先輩は不機嫌な顔をしているのだろう。


――そんなに、マルと一緒にいたいのかな?


 こんなに可愛い寝顔を見せられたら、放しがたいのもよく分かる。

 私は大人しく差し出した手を引っ込めた。

「申し訳ないですが、先輩がマルをつれて行ってくれますか?」

「だから、どうして? 一緒に行こうよ」

「えっと……」

 ますます不機嫌になる先輩に、私は言葉を詰まらせる。

 人気者の先輩と私が一緒にいたら、きっとよくないことだと分かる。

 私が小橋夏輝の妹だと知っている人が見たら、先輩と歩いていても問題視されないかもしれない。

 だけど私のことを知らない人からしたら、先輩に言い寄る生意気な後輩に見える可能性がある。

 私が先輩の隣に並んでも遜色のない容姿だったら、そんなに悪く言われないと思う。

 だけど、残念ながら私は可もなく不可もないといった感じなのだ。

 いつも先輩を取り囲む美人さんたちからしたら、間違いなく冷たい目で見られそうである。

 先輩のことは日を追うごとに好きになっているけれど、それは完全な片想いだ。

 そして、小心者の私は、悪意のある視線に晒されながら先輩と並んで歩くなんてできない。

 私と先輩の間に、沈黙が流れた。


 しばらくして、先輩がフウッと大きく息を吐いた。

 そのことにビクッと肩を震わせる私の右手首を、先輩が左手でギュッと掴む。

「えっ!?」

 驚く私に「行こうか」と短く告げ、先輩がおもむろに歩き始めた。

 私との身長差を考えてゆっくりと歩いてくれているけれど、大きな手はガッチリと手首を掴んでいて外れそうにない。

「あ、あの、先輩?」

 斜め前にある背中に声をかけると、先輩が足を止めて肩越しに振り返った。

「用務員室も春香ちゃんの教室も、同じ一階にあるよね。それなのに、わざわざ別々に行くことはないと思うな」

 声は優しいのに、私の手を放す気配はない。

「それは、そうなんですけど……」

 先輩の言動に戸惑い、私はシュンと眉尻と下げた。


――どうしよう……。


 手を引っ張っても、先輩は放してくれない。

 力の差を考えると、私が全力を出したところで無駄に終わるだろう。

 裏庭に来る人がいないから、これまで先輩と一緒にマルと遊んでいても誰にも知られずに済んでいた。

 だけど、校舎に近付くにつれ、部活をしている人や帰る人に見られる確率はグンと上がる。

 さすがに、手を引かれている状況はよくないだろう。

「……ちゃんとついていきますので、手を放してもらえませんか?」

 オズオズと話しかけたら、先輩がジッと私を見る。

「本当に、用務員室まで俺と一緒に行く?」

 コクンと頷いたら、静かに大きな手が離れていった。

 取り戻した手首を、左手でソッと撫でる。

 その部分だけが、やたらと熱を持っているように感じるのは気のせいではないかもしれない。

 大人しく撫でていたら、先輩がまたしてもフウッと息を吐いた。

「……無理やり春香ちゃんを連れているところを夏輝に見つかったら、それこそ認めてもらえないだろうし。まったく、いまだに家に行くことを許してくれないって酷過ぎないか?」

 ボソッと低い小声で囁かれた声は、私の耳には届かなかった。


 昇降口で外履きから中履きに変え、ふたたび用務員室に向って私をたちは歩き出す。

 私は別に行かなくてもいいけれど、さっき一緒に用務員室へ行くと約束させられたから仕方がない。

 この約束を破ると、次からは先輩と手を繋いで校舎に戻るという新たな約束をさせられてしまったのだ。

 罰ゲームなのかご褒美なのか分からないまま、とりあえず私は先輩について廊下を歩いていた。

 今度は横に並んで歩いているのだが、すぐ隣ではなく、二歩分空けていた。

 これなら、周りの人たちから馴れ馴れしいと言われないで済むかもしれない。

 ところが、その距離感に先輩が疑問を抱いた。

「春香ちゃん、どうしてそんなに離れているの?」

「……そんなにって程ではないと思いますよ」

 右側を歩く先輩をチラッと見上げ、私はボソボソと答える。

 先輩はそれに対してヒョイと肩をすくめ、また前を向いた。

「……無理やりじゃなく距離を縮めるって、かなり難しいな」

 早口で呟かれた言葉は小さく、それに私は周りが気になってそれどころではなかったので聞き取れなかった。


 運がいいことに、ほとんど人とすれ違うことがない。

 たまに先輩へ声をかける人がいたけれど、私のことでなにか言ってくることはなかった。

 やがて用務員室に着き、中で仕事をしていた田沼さんへ先輩がマルを差し出す。

「おや? 小橋さんだけじゃなくて、安堂君もこの子の面倒を見てくれているのかい?」

 現れた先輩に、田沼さんがちょっと驚いた。

 私はおやつをあげる許可をもらうために田沼さんと話をしたので、しっかりと面識がある。

 先輩はマルに食べ物をあげる訳ではないから、田沼さんにはなにも言っていなかったのだろう。

 学校の敷地内を自由に歩き回る猫たちだから、遊ぶくらいならいちいち許可を取る必要はない。

 初対面同士と思われるのに田沼さんが先輩の名前を知っていたのは、それだけ先輩が有名人だからだ。

 それはともかくとして、私は驚いている田沼さんに、マルが先輩に懐いていて、いつも楽しそうに遊んでいると説明した。

 それに続けて、先輩も「とても可愛いので、一緒にいられて楽しいです」と告げる。

 すると、田沼さんはジッと先輩を見上げた後、にっこりと笑った。

「そうか、そうか。可愛いよなぁ、そばにいたいよなぁ」

 そう言って、わははと笑った田沼さんが、先輩の左腕をバンバン叩く。

 田沼さんは、なにがそんなにおかしいのか。

 そして、先輩は腕を叩かれているのに照れくさそうにしているのか。

 私はしきりに首を捻りながら、謎の光景を眺めていた。


 用務員室を後にした私たちは、さっきと同じ距離感で廊下を歩き出す。

「先輩、腕は大丈夫ですか?」

 田沼さんは私たちより三十歳くらい上だけど、毎日のように重たい荷物を持ち運びしているので力は強いはずだ。

 あんなに勢いよく何度も叩かれて、痛くなかっただろうか。

 心配になって声をかけると、苦笑が返ってきた。

「痛くないと言ったら嘘になるけど、大したことはないよ。すぐに痛みは引くだろうし」

「そうですか」

 保健室に行ったほうがいいと言おうとしたものの、いちいち私が指図することではないだろう。

 必要だと判断したら、先輩は自分から保健室に行くはずだ。

 それっきり黙ってしまった私は、先輩とつかず離れずの距離で廊下を進む。

「……初対面の田沼さんは気付いたのに、どうして本人は気付かないのかな」

「はい、なんですか?」

 先輩がなにか言ったような気がして、私は声をかけた。

 すると先輩は「なんでもないよ」と言って、柔らかい微笑みを浮かべる。 

 その笑顔がすごく素敵で、私の心臓がキュンと音を立て、ブワッと顔が熱くなった。

「春香ちゃん、どうかした?」

 なんと言って誤魔化そうかとした時、こちらにやってくる足音が耳に入る。

 現れたのは、私の兄だった。

「なんだ、春香。こんなところにいたのか、あちこち探したぞ。ったく、電話に出ろよ」

「ごめんね」

 先輩と一緒にいると色々と緊張してしまって、マナーモードにしてある着信には気付けなかった。

「それで、なにか用事?」

「ああ、母さんから連絡が来てさ。スーパーで玉子がお一人様一パック五十円のタイムサービスがこれから始まるんだと。それで、帰りに二人で買ってこいってさ」

「うん、分かった。もう、帰るところだから。私、バッグを取ってくるね。先輩、失礼します」

 ペコッと頭を下げ、私は自分の教室へ小走りで向かう。


 そんな私の背中を眺めながら、兄が先輩に対して、「春香に無理やり迫らないって約束、キッチリ守っているんだろうな?」と言っていたなんて、夢にも思わなかった。 




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