(3)
その日以降、この空き地で先輩に会うことが恒例となりつつあった。
私は部活に入っていないしアルバイトもしていないので、放課後は暇になる。
だけど、有名人の先輩は、私と違って忙しいはずだ。
部活は入っていないとのことだが、周囲から絶大な人気を得ている人だから、なにかと声をかけられるだろう。
映画に行こう、カラオケに行こう、ゲームセンターに行こうと誘う男子がいるのではないか。
買い物に付き合ってほしい、評判のカフェへ一緒に行こう、景色のいい場所があるからと誘う女子がいるのではないか。
兄から聞いた話によると、先輩への誘いはひっきりなしだ。
同じクラスの人たちだけではなく、後輩たちやクラスが違う人たちからも、声をかけられているとのこと。
それもそうだろう。
たいていの人は、先輩のような素敵な人とお近付きになりたいに決まっている。
優しい声を、穏やかな視線を、爽やかな笑みを、間近で感じたいと思う人は数え切れないはず。
だから、『毎日、ここに来なくても大丈夫ですよ。マルの面倒は、私がちゃんと見ますから』と言ったことがある。
ところが、先輩はそういった誘いにはいっさい応じていないとのこと。
なんでも、大勢の人がいるところ、あまりにも賑やかなところは苦手らしい。
たまに兄が『気晴らしに、バッティングセンターへ行こうぜ』や、『ボーリング対決するぞ』と、先輩のことを引っ張り回す以外は、静かな場所で本を読んで過ごしていたとか。
それなら、これまでのように本を読んだらいいのにとその時に言ったのだが、先輩は静かに微笑んで首を横に振った。
『ここで春香ちゃんと一緒にマルと遊ぶほうが、いい気分転換になるから』
笑顔なのに、なんとなくこちらに否を言わせない空気があった。
先輩がどんなに断り続けても誘ってくる人たちがいるのを知っている私は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
とはいえ、先輩が自分から進んでマルに会いに来るのを止める権利はないので、結局、放課後になると――雨が降った日以外は――先輩と顔を合わせるようになっていた。
それだけでも恐れ多いことなのだが、なんと、今日は先輩と連絡先を交換することに。
その提案をされた時、思わず「どうしてですか?」と訊き返してしまった。
すると、先輩は真面目な顔でこう言ってくる。
「マルのことで報告しあったり、放課後に空き地にいく都合を聞く必要があるからね」
その説明に、私は首を傾げた。
私はマルの飼い主ではなく、報告をするなら用務員の田沼さんにしたほうがいいと思う。
それに、わざわざお互いの都合を合わせるまでもないと思う。
マルの遊び相手になることは、委員会の仕事といったものではないからだ。
報告し合うことも、二人でマルに会いに行くことも、決まりではない。
いったいなんのためにと内心首を傾げたものの、先輩が笑顔でスマートフォンを差し出してきたため、私はなんだか断りにくかったのである。
無事に連絡先の交換を終えたところで、登録名をどうしたらいいのかという悩みが浮上した。
兄の口から毎日のように先輩の話を聞くので、先輩のフルネームは本人に聞くまでもなく知っている。
とはいえ、なんだか妙に恥ずかしくて、スマートフォンには「先輩」という名義で登録することにした。
苗字プラス先輩でも、名前プラス先輩でもない。漢字二文字で「先輩」とだけ。
「できた?」
先輩が優しく声をかけてきたので、私は登録を終えたばかりの画面を見せた。
「はい、できました」
その画面を見た先輩は、なぜか残念そうに眉尻を下げる。
「どうして、『先輩』なのかな? 俺の名前は、夏輝から聞いているよね?」
夏輝とは、私の兄の名前だ。
そして、私が先輩と仲がいい小橋夏輝の妹ということは、初めてここで会った時に気付かれていた。
兄から私が映っている画像を見せてもらって、私の顔も知っていたそうだ。
それなら、どうしてあの時、初対面でもない私を見てあんなに驚いていたのだろう。
疑問が残るものの、あえて訊くほどのことでもないかと、ほったらかしにしてある。
「ねぇ、どうして?」
改めて聞かれた私は、フルフルと首を横に振った。
「だ、だ、だって、名前を登録するなんて、恐れ多くて!」
こうして話をするだけでも、本当は卒倒しそうなほど緊張している。
先輩を取り巻く人たちのように可愛くもないし、綺麗でもないし、かっこよくもない。
私は単なる猫好きな凡人なのだ。
スマートフォンを握り締めてブルブル震える私を見て、先輩が軽く噴き出す。
「可愛いなぁ、春香ちゃんは」
その表情に、先輩が呼んでくれた私の名前に、心臓が勝手にドキドキしてしまう。
「べ、別に、可愛くなんかないですよ! ただの小心者です!」
友達の妹ということで、先輩は私に親しく接してくれているだけ。本来なら、私が近付くのも恐れ多いくらい、キラキラと眩しい人だから。
ブンブンと首を振ると、先輩はまた噴き出した。
「この謙虚さが夏輝にもあればいいのになぁ。アイツは、遠慮がないから」
それを聞いて、私は慌てて頭を下げる。
「す、すみません。兄が迷惑をかけて、本当にすみません」
ペコペコと頭を下げていたら、先輩がまたしても噴き出した。
「冗談だよ。夏輝のまっすぐな態度に、俺は救われているんだ」
「そうなんですか? 先輩、気を遣わなくていいんですよ。あの兄は、本当に面倒な人ですから」
大らかで世話焼きな人だが、たまにおせっかいが過ぎる時があるのだ。
基本的には頼りになる兄だけど、呆れることもしばしば。
そういえば、兄は先輩を家に連れてきたことはない。
兄としては先輩のことを親友と思っていても、実は先輩がそう思っていないのかも。だから、家に来ることを遠慮しているとか。
――その可能性は、ないとは言えないよね。
どう考えても、あの騒がしい兄と穏やかな先輩が親友同士であるようには見えない。
そんなことを心の中で呟いたら、先輩が少しだけ苦く笑う。
「まぁ、ちょっと強引だと思う時はあるかな」
――やっぱり、そうだ! お兄ちゃんが勝手に先輩のことを親友って言ってるだけなんだ!
私はさらに深々と頭を下げる。
「ですよね! 本当に、本当にすみません!」
すると、先輩の大きな手が私の肩にポンと乗った。
「だけどさ、夏輝のおかげで、俺は今まで知らなかった感情に気付くことができたから、すごく感謝しているんだ」
そう言って、先輩がジッと私を見つめてくる。
その視線は、すごく優しかった。
――な、なに? どういうこと?
パチクリと瞬きを繰り返す私の頭を、先輩がソッと撫でる。
「早く成長して、気付いてね」
それはいったいどういうことだろうか。
――成長って、身長?
百八十四センチの先輩からしたら、百五十二センチの私はかなり小さい。
けれど、そういう意味で言ったのだろうか。
忙しなく瞬きを繰り返す私の頭を、先輩はいつまでも撫でていた。