(21)
兄はゆったりとした足取りで私たちのところにやってくると、先輩の肩にポンと手を乗せる。
「龍也、校内ではあまり目立つことはしないほうがいいぞ」
それを聞いて、先輩が静かに私の手を放した。
「そうだな。浮かれていて、つい……」
先輩が照れ隠しのように前髪をかき上げると、兄がまた先輩の肩をポンと叩く。
「まぁ、嬉しいのは分かるけどな。ただ、春香は目立つことが苦手だから、こんなことを人前でしょっちゅうしていたら、そのうち逃げられるぞ」
先輩はハッと息を呑み、私を見る。
「春香ちゃん、本当にごめん。俺、考えなしだった」
「い、いえ、大丈夫……ではないんですけど、でも、逃げたりはしませんので」
しょんぼりする先輩に、私は慌てて言い返す。
そんな私を見て、兄が驚いた表情を浮かべた。
「なんか、春香が強くなってる……」
兄は私と先輩の顔を交互に見遣り、やがてうんうんと深く頷く。
「そっか、それだけ春香は龍也のことが好きだってことか。そっか、そっか……」
一人で納得している兄の様子に、私は火照る顔に苦笑を浮かべた。
「それで、お兄ちゃんはどうしてここにいるの? また、お母さんに買い物を頼まれた?」
「いや、今日は違う。龍也のことが、気になってな。だが、うまくいったようで安心したよ」
またしても、兄が先輩の肩をポンと叩く。
「とにかく、仲良くやってくれよ。春香のこと、絶対に泣かすんじゃねぇぞ」
いつもはおどけてばかりの兄だけど、この時ばかりは声も表情も真剣だった。
そして、先輩の表情も真剣なものに変わる。
「当たり前だ」
少しの間、二人は視線を合わせ、ふいに表情を緩めた。
「龍也のことは信用しているけどな。だから、春香を任せる気になったんだし」
そして、兄が私を見る。
「春香、バッグを取りに行くんじゃないのか」
私は教室に向かう途中だったことを思い出し、「あっ」と小さく声を上げて口元を手で覆う。
そんな私の様子を見て、先輩が「可愛い」と呟いた。
先輩の目は、いったいどうなっているのだろう。
私がなにをしても、なにを言っても、「可愛い」と言ってくる。
『そんなことは、ありません』
そう言い返そうとする前に、兄が先に口を開く。
「春香が可愛いのは当然だろ」
腕を組んでフンと鼻を鳴らす兄に対し、先輩が「分かってる」とサラリと返す。
そのやり取りにいたたまれなさがこみ上げ、私はバッグを取りに行くため、教室に向って走り出した。
教室の中には、普段はあまり話さない女子が三人いた。
かといって、仲が悪いということではない。
私の性格と、彼女たちの性格が違うというだけ。あいさつはするし、何気ない話をたまにすることもあった。
彼女たちは私に気付くと、そそくさと近寄ってくる。
「ねぇ、小橋さん。さっき、安堂先輩と手を繋いでいたよね?」
三人とも単なる好奇心で声をかけてきたらしく、悪意は感じなかった。
だけど堂々と振舞う度胸は私にはないから、コクンと頷き返すだけ。
できたら、すぐにでも教室を出ていきたいけれど、それではすごく感じが悪いだろう。
かといって、三人の好奇心を満たすまで、おしゃべりに付き合うのは遠慮したい。
――どうしよう……。
オドオドとバッグの持ち手を握り締めていたら、教室の入り口に誰かが立った。
「おい、春香。さっさと行くぞ」
なんと、現れたのは兄だった。
「え?」
兄は自分の教室でもないのに遠慮なく入ってきて、私の左手首を掴んで歩き出す。
私はとっさに振り返し、三人に「じゃ、じゃあね」となんとか声をかけた。
「どうして、お兄ちゃんがここに?」
てっきり、先輩と一緒にいると思っていた。
廊下に出たところで私の手首を話した兄は、くしゃりと私の前髪を掻き混ぜる。
「龍也が浮かれたせいで、悪目立ちしたみたいだからな。そうなると、否応なくお前も注目されるだろ。アイツは面倒くさい人間のあしらい方がうまいが、春香はそういうことはまるで苦手だし。そこで、心優しいお兄様の登場って訳だ」
おどけたようにニカッと笑う兄だけど、昔から私のことを一番に気に掛けてくれていた優しい人だ。
私が心細く思っているのをちゃんと分かっていて、こうしてそばにいてくれる。
「……ありがと」
照れくさいから小さな声でお礼を言ったら、また前髪をくしゃりと撫でられる。
「これからは龍也に守ってもらうことが多くなるだろうが、いつだって俺を頼っていいんだぞ。俺は、いつまでのお前の兄貴なんだからな」
髪の毛を掻き混ぜられているうちに、昇降口へとやってきた。
すると、先輩は既にバッグを持っていて、私の靴箱のところに立っている。見たところ、靴も外履きに履き替えている。
「お、お待たせしました」
私は慌てて靴を履き替えるけれど、慌てすぎて自分で自分の靴を踏んづけてよろけてしまった。
グラリと傾いた体に、兄がパッと手を伸ばす。
ところが、それよりも先に先輩が私を後ろから抱きかかえた。
「大丈夫?」
斜め後ろから覗き込まれ、驚きと恥ずかしさで私の心臓が大暴れ。
「だ、だ、大丈夫、です……」
先輩が支えてくれたおかげで、どこもぶつけずに済んだし、足首も挫かなかった。
「あ、ありが、と……、ござい、ま、した……」
ドキドキしすぎてしどろもどろになりつつお礼を言ったら、先輩がクスッと笑う。
「慌てふためく春香ちゃんも可愛かったよ」
そのセリフに、私の心臓がさらに激しく暴れた。
「あ、う、う……」
やや斜めになった体勢のまま先輩を見上げ、意味不明な言葉を呟く。
そんな私をニコニコと楽しそうに眺めていた先輩だが、ふいに綺麗な顔を歪めた。
「ぐっ……、夏輝……」
なんとか視線を巡らせて様子を窺ったら、兄が先輩の左わき腹に肘鉄を入れていた。
「龍也、春香を放せ」
兄の表情は穏やかだけど、目が割と真剣だ。
先輩は私の体勢を整えてくれると、ソッと腕を引いた。
そんな先輩に、兄が苦笑を向ける。
「春香が可愛いのは分かるし、お前が浮かれたくなるのも分かる。だけどな、あまり目立つことをするなって言ってるだろ。今は周りに人がいないからいいものの、騒がれたら面倒だぞ」
そう言って、兄は軽く握った拳を先輩の左腕に突き出す。
「ま、それだけお前が春香を好きだってことなんだろうけど」
二ッと笑う兄に対し、先輩が目を細めた。
「そうだよ」
サラリと告げられた言葉に、私の心臓はついに爆発したのだった。
靴を履き終え、三人で校門へと向かう。
歩道に出たところで、「そんな……」という呟きを耳にした。
後ろを振り返ると、進行方向とは反対の校門のところに井上さんが立っていて、信じられないといった様子で私たちを見ていたからだ。
私たちというか、繋がれている私と先輩の手を見て。
学校の敷地内では目立つことを避けるようにと兄から言われたため、校門を出た瞬間、先輩は『もういいよね』と言って、私の手を繋いだのである。
やたらといたたまれない気分で俯いたら、井上さんの視線から私を隠すように先輩が移動した。
おまけに兄が「そういうことだ、応援してやれなくて悪いな」と言う。
よく分からない状況に私は首を捻るものの、歩き出した先輩に手を引かれ、兄に背中を軽く押され、足を動かすしかなかった。




