(20)
一年生用の靴箱に向かう私に、いくつもの視線が向けられる。
それと、なにを言っているのか分からないくらい小さなヒソヒソ声も。
悪いことをしていないのに、責められている気分になってしまう。
――そうだよね。私みたいな変凡な子が先輩と手を繋いでいたら、誰だって変に思うだろうし。
先輩と両想いになれて嬉しいはずなのに、周囲の反応が私の心をチクチクと刺激する。
トボトボと歩いて自分の靴箱の前に来た時、隣にスッと誰かが立った。
誰だろうと思って顔を向けたら、笑顔を浮かべる先輩がそこにいた。
――履き替えるの、ずいぶん早くない?
私はたった今、靴箱に来たところなのに、先輩はすっかり中履きに履き替えていた。
そのことに驚いてパチクリと瞬きをしたら、また大きな手が私の髪を撫でる。
「春香ちゃんとは一秒でも長く一緒にいたいから、大急ぎで履き替えてきたんだ」
優しい声で告げられた言葉に、向けられる甘い視線に、チクチクと小さな痛みを訴えていた心臓が温かいもので満たされた。
先輩はこんなにも真っ直ぐ好意を示してくれているのに、後ろ向きに考えてばかりいたら申し訳ない。
先輩の気持ちに少しでも応えるために、もっとしっかりしなくては。
……と思うものの、やっぱり恥ずかしい。
私はモジモジしながら、靴を履き替える。
先輩は私の邪魔にならない程度に、静かな手つきで私の髪を撫でていた。
「夢みたいだな」
その呟きに、私は軽く首を傾げた。
「なにが、夢みたいなんですか?」
靴を履き替え、ソッと先輩に視線を向ける。
すると先輩はふたたび私と手を繋ぎ、廊下を歩き始めた。
どうしても恥ずかしさがあるから顔を上げることはできないけれど、さっきみたいに手を振りほどこうとするのはやめた。
そんな私の小さな頑張りを、先輩はちゃんと気付いてくれた。改めてしっかり指を重ねて、「ありがとう」と囁きかけてくる。
それが嬉しくて、私もちょっとだけ指先に力を込めた。
「もう、本当に可愛いなぁ」
ボソッと呟かれた言葉に、耳まで熱くなる。
「……それで、夢みたいってどういうことなんですか?」
まだ答えてもらっていないことを改めて尋ねたら、先輩はクスッと笑った。
「こうして春香ちゃんの傍にいられることが、まるで夢みたいだなって」
「でも、今までだってマルと遊んでいる時は、一緒にいましたよね?」
裏庭にいた時だけではなく、マルを用務員室に連れて行く時も、私と先輩の距離はかなり近かった。
二歩くらい空けて歩いていたのに、いつの間にかすぐ隣にいたこともあったのに。
おかしなことを言っているなと思っていたら、これまで普通に繋がれていた手が指同士を重ね合うものに変わった。
いわゆる、恋人繋ぎだ。
ピクッと肩を跳ね上げて隣を歩く先輩を見上げたら、形のいい目が柔らかく弧を描く。
「先輩と後輩という関係じゃなくて、恋人として春香ちゃんのそばにいられることが夢みたいだっていう意味だよ。諦めるつもりなんて一切なかったけど、俺の気持ちを受け入れるかどうか、決めるのは春香ちゃんだからね。どんなに俺が頑張っても、断られたらどうしようもない」
ヒョイと肩を竦めて苦笑を浮かべる先輩が、なんだかちょっと可愛い。
誰もが先輩のことをかっこいいというけれど、可愛いという人は誰もいなかった。
こういう先輩の姿が見られるのは私だけかもしれないと思ったら、なんだか嬉しくなってしまう。
「どうかした?」
尋ねられ、私は思ったままに答えた。
「え、えっと、肩を竦めた先輩が、なんか可愛いなって」
そう言ってから、失礼だったかもしれないと気付く。
自分より年上の人に向って、ましてや男の人に向って、可愛いというのはよくなかったかもしれない。
ところが、先輩はすごく嬉しそうに笑っていた。
「春香ちゃんの前だと、俺は自然に振舞えるんだ。笑ったり、焦ったり、そんな姿を見せるのは、相手が春香ちゃんだからだよ」
「そうなんですか?」
「うん、そうなんだよ。春香ちゃんが素直な子だから、俺も素直になれる。本心を隠さなくてもいいし、愛想笑いを浮かべる必要もないんだ」
そんな話をしているうちに、用務員室に到着した。
中から出てきた田沼さんは、私と先輩が手を繋いでいることにちょっとだけ驚いたけれど、なにも言わなかった。
ただ、先輩の肩をバシバシと遠慮なく叩いていた。
田沼さんがやたらといい笑顔を浮かべているのはなぜだろうか。
よく分からないまま先輩はマルを田沼さんに差し出すと、私の手を引いて用務員室を後にする。
「それじゃ、バッグを取りに行かないとね」
先輩の言葉にコクンと頷き返し、私たちは廊下を歩き出す。
十六時半近くになると、部活に入っていない人たちはたいてい帰っている。
そのため廊下ですれ違う人がだいぶ少なくなっていて、さっきのように好奇の目で見られることはほとんどない。
それでも、まったく人がいない訳ではないので、緊張はしてしまう。
――教室に、誰もいないといいんだけど。
こうして先輩と歩いている分には、話しかけてくる人はいない。
だけど、私が一人になったら、興味津々で見ていた人たちが話しかけてくるかもしれない。
自分でもいまだにこの状況が信じられないので、説明を求められても困ってしまう。
声をかけてくる人がただの好奇心であったのなら、まだ大丈夫だろう。
困るのは、先輩に好意がある人たちが近付いてきた時。
あなたでは釣り合わない、自分のほうがお似合いだと言ってきたら、どうやって対処したらいいのだろうか。
――ああ、ダメダメ。こんな後ろ向きなことばっかり考えていたら、ダメ!
先輩が選んでくれたのは、この私だ。
数え切れないくらい先輩に言い寄ってきた人はいるだろうけれど、先輩が好きになってくれたのは私なのだ。
だから、そこは胸を張って堂々としていなくちゃ。
ブルンと首を横に振った時、「大丈夫?」と声をかけられた。
ハッと我に返ると、心配そうに私を見ている先輩に気付く。
「なんだか難しい顔をしていたけど、悩みごと?」
「い、いえ、ただの考え事です。でも、ぜんぜん大したことではないので」
安心させようと思ってそう言うと、なぜか先輩は寂しそうな表情を浮かべる。
「俺は、頼りにならない?」
「……え?」
戸惑う私の前に、先輩が立つ。
自然と足が止まり、私は先輩を見上げた。
先輩の右手に繋がれている私の左手を、大きな右手が包み込む。
「春香ちゃんの彼氏になったばかりだけど、遠慮なく俺になんでも打ち明けてほしい。どんな話でも、ちゃんと聞くから」
先輩にこんな顔をさせてしなったことが申し訳なくて、私は即座に「違うんです」と答えた。
「先輩が頼りないなんて、これっぽっちも思っていません。本当に下らないことだから、言うまでもないかなって」
すると、先輩はホッと息を吐く。
「それなら、よかった。春香ちゃんが初めての恋人だから、すごく不安だったんだ」
安心したように笑う先輩を見て、申し訳ないことをしてしまったと思った。
「ごめんなさい」
ペコッと謝ったら、先輩も「ごめんね」と言ってくる。
「春香ちゃんに対して、必死になっているからさ。俺って、ちょっと鬱陶しいよね」
「そんなことないです。それだけ、私のことを好きになってくれて、大事にしてくれて、すごくすごく嬉しいです」
苦笑いを浮かべている先輩に言い返したところで、「おいおい、見せつけんなよ、お前ら」と声をかけられた。
先輩と私が同時に声のしたほうに顔を向けると、そこにはニヤニヤと笑う兄が立っていた。




