(2)
ところで、彼はいつまで棒立ちのままなのだろうか。
「あの、先輩?」
オズオズと声をかけると、弾けるように我に返った先輩がこちらにやってきた。
私の前に来た時には、すっかり穏やかな表情に戻っている。
「こんにちは」
顔がいい人は、声もすこぶるいいらしい。
兄と同じ歳とは思えない深みのある声に、私はドキドキしてしまう。
「こ、こんにちは……」
ペコリと頭を下げると、先輩はクスッと笑った。
「こんなところで会えるなんて思っていなかったから、少し驚いちゃって。いきなり黙り込んで、ごめんね」
その物言いからすれば、先輩は私のことを知っているらしい。
私がこの場にいたことに驚いたと言っているようだが、棒立ちになるほど驚くようなことだっただろうか。
「……いくら君に会いたいって頼んでも、アイツが邪魔してばかりだったし。そういう約束だから、仕方ないと言えばそれまでだけど」
早口でモゴモゴと発せられた言葉は、うまく聞き取れなかった。
「ええと、なんでしょうか?」
問いかけると、先輩はフワッと目を細めた。
「ああ、大したことじゃないよ。ただの独り言だから、気にしないで」
そう言われてしまうと、気になっていても訊けなくなってしまう。
まぁ、いいかと思ったところで、先輩がスッと下のほうを指差した。
「その猫、随分と君に慣れているんだね」
足元を見れば、マルがジャージのズボンをよじ登っている所だった。
おやつをあげない上にかまいもしない私にしびれを切らしたらしく、小さな爪を立てて一所懸命にジャージ登りをしている。
その様子は可愛いけれど、たまに爪が当たって地味に痛い。
私は手にしていたほうきとゴミ袋を下に置き、マルを抱っこした。
「ほったらかしにしてごめんね」
喉元を撫でてやると、マルは機嫌よさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「やっぱり、君に慣れているんだ」
先輩の言葉に、私は苦笑いを浮かべた。
「えっと、ここでマルに、よくおやつをあげているので。だから、私に慣れているんだと思います」
はにかみながら説明すると、先輩は軽く首を傾げた。
「マル?」
「あっ、この子の名前です。私はそう呼んでいます」
「そうなんだ。俺は、ハルって呼んでいるんだよ」
先輩が『ハル』と口にした時、すごく優しい微笑みを浮かべた。
その笑顔がすごく素敵で、私の心臓がまたドキドキと音を立てる。
思わずマルをギュッと抱き締めてしまうと、ビックリしたマルが腕の中から飛び降りた。
「ご、ごめんね、マル! わざとじゃないんだよ!」
はじめのうちは「フシャァ」と私を威嚇していたけれど、風に吹かれてゴミ袋が揺れると、そっちに興味が移ったようだ。
「うなぁぁん!」
大きな鳴き声と共に、マルはゴミ袋に飛びかかった。
「こら、マル! 駄目でしょ!」
好奇心旺盛な子猫は私の制止にもめげずに、何度も何度も飛びかかる。
「マル、やめなさい! 袋が破けたらどうするの!」
私が手で止めようとするよりも先に、先輩が素早くマルを抱き上げた。
先輩の慣れた手付きから、日頃から可愛がっていることが窺い知れる。
イメージとしてはふさふさとした毛並みの大型犬を連れていそうな感じの先輩なので、イタズラ子猫を抱っこしているのはちょっとだけ違和感がある。
そのことに思わず笑ってしまうと、先輩がまた首を傾げた。
「ねぇ。なんで、マルって名前なのかな?」
「えっと、それはですね……」
私は自分のセンスのなさに居たたまれなさを感じつつも、名付けた経緯を説明する。
「なるほどね。たしかに、この子は時々目が真ん丸になるな」
そうは言うものの、先輩は抱っこしているマルを見ずに私を見てニコニコと微笑んでいる。
その視線を大人しく受け止めることが恥ずかしくて、私は慌てて口を開いた。
「あ、あの、先輩は、どうして、ハルって呼んでいるんですか?」
すると先輩はクスッと小さく笑う。
「春にこの猫に会ったっていうのもあるんだけど、一番の理由は、『春』が好きだから、かな」
切れ長の目がさらに柔らかく弧を描く様子に、私の心臓がキュンと音を立てる。
「そ、そうですか……。素敵な理由ですね」
笑顔があまりに眩しくて、とても見ていられない。
俯いてモジモジしていると、先輩が片手で私の頭を撫でてきた。
「でも、この子は『マル』という名前を気に入っているみたいだよ。あと、君のこともね」
「え?」
つい、キョトンと見上げたら、先輩がヒョイと肩を竦めてみせる。
「さっきまで俺と遊んでいたのに、君の声が聞こえた途端に走り出したんだよ。な、ハル?」
先輩が呼び掛けるとマルは「ふにぃ」と変な声で鳴き、自分を抱える大きな手にタシタシと猫パンチを繰り出していた。
そんな可愛らしい様子を眺めながら、私はあることに気付く。
「名前が二つあると、この子が混乱しちゃいませんか?」
どちらも似たような響きだが、『マル』と『ハル』はやっぱり違う。
私の言葉に、先輩が困ったように笑った。
「その心配が、ないとは言えないかな」
「ですよね。じゃあ、ハルで統一しましょう」
私の提案に、「いや、マルでいいんじゃないかな?」と、すかさず先輩が返してきた。
私はいつもマルと呼んでいるから構わないけれど、先輩を差し置く訳にはいかない。
「駄目ですよ、ここは先輩に譲ります」
「でも、コイツはハルって呼んでも、返事をしない時があるよ」
「それは、マルも同じです。だから、ハルにしましょう」
「いや、俺よりも君に懐いているみたいだし、マルが妥当じゃないかな」
「そんなことないですよ。この子が私に懐いているのは、おやつをあげているからです。別に、私のことを認めている訳じゃないと思いますけど」
私から何度も「ハルにしましょう」と勧めるけれど、先輩はなかなか頷いてくれない。話し合いは平行線のままだ。
やがて、先輩が「だったら、この子に決めさせようか」と呟いた。
「え? どうやってですか?」
私が尋ねたら、先輩はスタスタと歩いて三メートルほど離れる。そこに子猫を下ろし、「呼ぶまで動くなよ」と言い聞かせていた。
子猫が動かないのを確認したら足早に戻ってきて、「二人でそれぞれに呼んでみようか」と提案してくる。
なるほど。猫に選ばせるというのは、そういうことか。
私と先輩は並んでしゃがみ込み、大きな声で子猫を呼んだ。
「ハル、こっちだぞ。ハルー」
「マル。おいで、おいで。マールー」
二人で同時に呼ぶと、子猫はその場でウロウロと歩き回る。
それからほどなくして、まっしぐらに私の元へと駆け寄ってきた。
嬉しいものの、なんだか複雑である。
――先輩が嫌な思いをしていなければいいけど……。
マルを胸に抱っこした私は、隣の先輩をチラッと視線を向けた。
すると、なぜか先輩はすごく嬉しそうに私を見ている。
「よし、マルに決まりだな」
そう言って、先輩の大きな手はマルじゃなくて私の頭を撫でたのだった。