(19)
しばらく見つめ合った後、ふいに気恥ずかしさがこみ上げてくる。
空いている片手でスカートを握ったり放したりしていたら、「春香ちゃん」と名前を呼ばれた。
無視をしている訳ではないけれど、恥ずかしくて顔を上げられない。
私は俯いたまま、「……なんでしょうか?」と返した。
「このあと、ゆっくり話がしたいんだ。いいかな?」
「……話、ですか?」
「うん、そう。だって、ようやく春香ちゃんが俺の恋人になってくれたんだから、二人の時間を過ごしたいしね」
それを聞いて、ますます恥ずかしさが膨らむ。
――私、先輩の、恋人……。
先輩が私のことを好きだと言って。
私も先輩が好きだと言って。
結果として両想いと判明したので、確かに恋人同士である。
だけど、それを先輩から改めて告げられると、かなり恥かしい。
さらに深く俯いて、自分の靴のつま先を見つめていた。
「どうして、顔を上げてくれないの?」
向かい合わせて立っている先輩は、私の右のつま先を左のつま先でチョンと突っつく。
「は、る、か、ちゃん」
言葉の区切りに合わせて、先輩がチョンチョンと私のつま先を突っついた。
その仕草が、遊んでほしいとねだるマルのようで、思わずクスっと笑ってしまう。
「春香ちゃん、今、笑った?」
どこか不機嫌そうな声で問いかけられ、私は小さく息を呑む。
「ご、ごめんなさい」
先輩のことを馬鹿にして笑った訳ではないけれど、顔も合わせずいきなり笑ったら、気分が悪くなるのも当然かもしれない。
とっさに謝り、もともと下げていた頭をさらに下げた。
すると、先輩が「ああ、そうじゃなくて……」と困ったような声音で告げる。
「せっかくなら、顔を上げて笑ってほしかったな。春香ちゃんの笑顔は、本当に可愛いから見たかったと思って」
それを聞いた私の顔が、ブワッと熱を持った。
「か、か、可愛いなんて、そんな……。わ、わた、私を可愛いっていうのは、家族くらいで……」
両親はもちろん、特に兄はなにかにつけ、『春香は可愛いなぁ、ほんといい子だ』と言ってくれる。
たまに会う親戚のおじさんやおばさんも、そんな感じで言ってくれる。
友達も、私の言動によっては『今の、可愛い! 萌える!』と騒いでいる。
だけど、身内や友達以外から、特に異性からは言われたことがなかった。
「……あ、井上さんには言われたっけ」
放課後、なぜか井上さんからデートに誘われた時、そう言われた。
ちゃんと冗談だと分かっているので、もちろん本気にはしていなかったけれど。
思わず呟いてしまった小さな独り言を、先輩はしっかり聞き取っていた。
「春香ちゃん、それ、どういうこと? そういえば、井上からデートにも誘われたんだよね?」
先輩は焦ったような口調で告げ、繋いでいる手にギュウッと力を込めてくる。
「えっと、それは……」
先輩の周りの空気がなんとなく重苦しいものに変わった気がして、私は妙に落ち着かなくなった
その時、先輩の左手に抱っこされているマルが『ふひゃぁ』とあくびをする。
ぐっすり寝ていて静かだったせいで、マルの存在を忘れかけていた。
気づいたら、用務員室に届ける時間をだいぶ過ぎていた。
「急がないと、田沼さんが心配してるかな」
先輩は仕方がないといった感じで、ボソリと呟く。
「そうですね、すぐに行かないと……。ええっ!?」
相変わらず恥ずかしくて顔が上げられなかった私は、俯いたまま先輩に話しかけていた。
すると、先輩は私と手を繋いだまま歩き出したのだ。
「せ、せ、せ、先輩! 手っ! 手っ!」
焦った私は自分の手を引き抜こうとしたけれど、すっぽりと大きな手に包み込まれていてビクともしなかった。
「春香ちゃんは顔を上げてくれないからね。ちゃんと前を見ていないと、危ないでしょ。だから、俺が手を引いているんだよ」
「いえ、あの、でも……」
それでも往生際悪く手を取り戻そうとするけれど、先輩の手は緩まないし、足も止まらない。
もうすぐ茂みを抜け、校舎が見えてくる。
そうなったら、たくさんの人に目撃されてしまう。
――先輩の隣を歩くだけでも恐れ多いのに、手を繋いでいるなんて許されることじゃないよ!
「どうして? 手を繋ぐぐらい、誰からも怒られないよ。それと、恐れ多いっておかしいんじゃないかな。俺たちは恋人同士だから、どっちが上とか下とか、そういうのはないでしょ。同列だよ」
「……へ?」
返ってきた言葉に驚いて顔を上げたら、にっこり笑う先輩と目が合った。
「春香ちゃんは、心の声が口に出やすいんだね。そういうところも、すごく可愛い」
綺麗な微笑みを向けられ、私はふたたび顔を伏せる。
頭の上から、クスクスと楽しそうな笑い声が降ってきた。
「そんなに俯くなら、やっぱり俺が手を繋いであげないと。彼女を守るのは、彼氏の役目だから」
なんのためらいもなく歩き続ける先輩だけど、私の耳にはグラウンドで部活動に励む人たちの声が聞えてくる。
このまま進んだら、確実に誰かの目に留まる。先輩は、なにもしていなくても、そこにいるだけで人の目を惹く存在だから。
「ちゃんと前を向いて歩きますから、手を放してください!」
バッと顔を上げ、前を向いているアピールをした。
ところが、先輩はいっこうに手を放そうとしてくれない。
「転ぶ心配がなくても、手を繋いだらいけないって訳じゃないよね」
「えっ!? でも、それは……」
私が戸惑っているうちに、先輩はドンドン進んでしまう。
何人かがこちらを見て驚いた顔をしているのが、私の目に映った。
「ほ、ほら、先輩! 見られていますよ! だから……」
『今すぐ、手を放してください』
そう言いかけたのだが、先輩は嬉しそうな笑みを私に向ける。
「俺たちの仲のよさを知ってもらうには、ちょうどいい」
「……は?」
――ちょうどいいって、なに?
ポカンとしているうちに、私たちは昇降口へと到着した。
案の定、私たちは注目されまくっていた。
時間を追うごとに向けられる視線が増えていくのを、ヒシヒシと肌で感じている。
有名人の先輩は見られていることに慣れているだろうが、こんなにたくさんの視線に晒されたことがない私は、恥かしさと戸惑いでオドオドしてしまう。
「……こ、このまま手を繋いでいたら、靴を履き替える時に不便ですよ。いったん、手を放しましょう」
コソッと話しかけたら、先輩が「それもそうか」と呟く。
「靴を履き替える間だけ、手を放してあげる。言っておくけど、逃げても無駄だよ。さっきみたいに、全力で追いかけるからね。いい、分かった?」
私は素直に頷き返した。
校舎内で追いかけっこをしたら、確実に注目の的だ。
そんなことを聞かされたら、逃げることができないではないか。
チラッと視線を上に向けると、先輩が空いている手で私の髪を撫でる。
「じゃ、履き替えておいで」
そう言って、ようやく先輩は私の手首を解放した。