(17)
その後も一応は裏庭に出向いていった。
先輩と距離を取ろうと思った矢先に、やたらと連絡が入るようになり、行かざるを得なかったのだ。
しかも、最近では『春香ちゃんの教室まで迎えに行くから』というメッセージが放課後になった直後に届くようになっていた。
先輩は、自分がどれほどの有名人であるのかをまったく自覚していない。
そんなことをしたら、周りが大騒ぎするに決まっている。
そして、誤解が大量発生するのも確定だ。
諦めようとしているのに、そういった騒ぎに巻き込まれたくないし、それに、その誤解を訂正するのも大変になるだろう。
ううん、誤解なんて、はじめからされる訳がない。
先輩と兄の仲の良さは学校でも広まっているようで、先輩が私に声をかけてくるのは兄が関係しているのだと、誰もが理解するはず。
それでも、下手に騒ぎ立てられることは、人見知りがちな私には厳しい。
なので、今は放課後になると同時に教室を飛び出し、裏庭へと向かうようになっていた。
これなら、先輩から連絡が入った時には既に私は教室にいないので、先輩が迎えに来るという事態は発生しない。
「春香ちゃん、今日もずいぶん早くここに来たんだね」
私が到着してから五分くらい経って、先輩が姿を現した。
「えっと、新発売のおやつを買ってきたので、早くマルに食べさせてあげたくて」
マルにおやつを食べさせながら答えると、そのすぐ隣に先輩が同じようにしゃがみ込む。
「このところは、特に急いで裏庭に来ているみたいだけど、なにか理由でもあるの?」
先輩は穏やかな声でさりげなく、だけど私の心臓がドキッとすることを尋ねてきた。
「……ですから、新しいおやつをマルに食べさせてあげたいので。マルも、この時間を楽しみにしてくれているみたいですし」
夢中になっておやつを食べているマルを見守っていることを装いつつ、私はいっさい視線を先輩に向けずにいる。
「でもさ、ここに来るのが十分くらい遅くなっても、マルは待っていてくれると思うよ。なぁ」
先輩は右手を伸ばし、おやつを食べ終わったマルの頭を優しく撫でた。
するとマルは目を細め、「にゃん」と愛らしい声で鳴く。
「ほらね」
タイミングよく鳴いたマルに、先輩がクスっと笑う。
私は相変らずマルから視線を逸らさず、オズオズと口を開いた。
「……そうかもしれませんけど、私がマルに少しでも早く会いたいので」
「そっか。春香ちゃんは、本当にマルが大好きなんだね」
「はい」
私の返事を聞いて、先輩がマルの頭を指で突っつく。
「やっぱり、マルは俺のライバルだ」
「……え?」
先輩の言葉の意味がうまく理解できなくて、思わず顔を上げて隣を見てしまった。
視線の先にいる先輩は、まっすぐに私を見ている。
「夏輝からようやくお許しが出たことだし、いい加減、本格的に動こうと思ってる」
兄が先輩に対して、どんな許可を出したのだろうか。
先輩はなにを目的として、本格的に動こうとしているのか。
そして、私を真剣に見つめているのはどういうことなのか。
頭の中が混乱して、身じろぎするどころか、言葉一つ発することができなかった。
そんな私に、先輩が優しく微笑みかけてくる。
「春香ちゃん」
微笑み同様、先輩は優しい声で私の名前を口にした。
それからゆっくりと私に手を伸ばしてくる。
大きな手が私の頬に触れそうになった瞬間、「安堂君、見つけた!」という嬉しそうな声が飛び込んできた。
私も先輩も声がしたほうにパッと顔を向けたら、宮永さんと前沢さんが小走りでこちらにやってくる。
「こんなところにいるなんて、ぜんぜん分からなかったよ!」
「ここに来るまでいろんな人に安堂君の行先を聞いて、すごく大変だったんだからね!」
駆け寄ってきた二人はチラッと私を見て、怪訝な表情を浮かべた。
「この子、誰?」
「前にも、安堂君と一緒にいたよね?」
二人が眉を顰めるのを見て、私はパッと立ち上がる。
「わ……、私は、小橋夏輝の妹です」
ペコッと頭を下げて名乗ったら、宮永さんも前沢さんも表情を緩めた。
「ああ、そうなんだ」
「安堂君と小橋君って、ホントに仲いいもんね。その繫がりかぁ」
だけど、二人の目は笑っていない。
ジッと、射貫くように私を見ている。
そんな視線に、小心者の私が耐えられるはずもない。
私は足元にじゃれつくマルをサッと抱きかかえると、複雑な表情を浮かべている先輩に差し出した。
「用事を思い出したので、私、帰ります! マルのこと、お願いしますね」
改めて頭を下げた私は、勢いよく走り出す。
「春香ちゃん!?」
慌てた声で先輩が私を呼んだけれど、もちろん立ち止まったりしない。
草で足を滑らせないように注意しながら、必死になって足を動かす。
体力がない私が息を切らせるのは、それからすぐのこと。
それでも走り続けていたら、こちらに向かってものすごい勢いで近付いてくる足音が耳に入った。
――ま、まさか……。
肩越しに振り返ると、マルを左手に抱えた先輩が走ってくる姿が目に入る。
「春香ちゃん! お願い、止まって!」
私はこんなにも頑張って走っているのに、今にも先輩に追いつかれそうだ。
――なんで、追いかけて来るの!?
驚きのあまり、私は足を取られてしまう。
「きゃぁっ!」
バランスを崩し、勢いのまま転倒しそうになった。
このままいったら、手や膝を擦り向いてしまいそうだ。
とはいえ、運動神経があまりよくない私は、とっさに体勢を整えることなんてできなかった。
地面との衝突を覚悟してギュッと目を閉じたら、後ろからお腹に腕が回ってきて私を支えてくれた。
「よかった、間に合った……」
私を助けてくれたのは、もちろん先輩だ。
怪我をしないで済んだのだからお礼を言うべきなのだろうが、混乱している私はお腹に回されている腕から逃れようとしてジタバタともがく。
「は、放してください!」
先輩の腕を掴んで引き剥がそうとした瞬間、ものすごい力で引き寄せられた。
私の背中が、先輩の上半身にピタリとくっつく。
おまけに、先輩は私の髪に頬を押し当ててきた。
「嫌だ、放さない」
静かな口調なのに、有無を言わせない強さがある。
私はビクッと肩を跳ね上げ、息を呑んだ。
ジッとしていたら、ゆっくり息を吐いた先輩は私の腹から腕を離す。
そして右手で私の左手を掴み、おもむろに歩き出した。
「あ、あの、どこに……」
オドオドと問いかけたら、「この先にある、温室の裏」と答える。
「春香ちゃんに大事な話があるから、誰にも邪魔されない場所に移動するんだよ」
さっきと同じように先輩の口調は静かだけど、やっぱり断ることを許さない雰囲気があった。
それに繋がれている手はすっぽりと私の左手を覆っていて、逃げ出すことなど不可能だと分かる。
――話って、なに? 宮永さんと前沢はどうなったの?
頭の中がはてなマークでいっぱいになっている私は、手を引かれるままに足を動かすしかなかった。




