(15)
無言の私たちの間に、フワリと風が吹いた。
どう答えようかと思っていたら、先輩の手が私の左右の肩にそれぞれ乗っかる。
私は寝ているマルを抱っこしているので、身動きが取れない。
なんでこんなことになったのか状況が呑み込めず、私はただただ先輩を見上げていた。
先に口を開いたのは、先輩だった。
「ねぇ、井上に誘われたの?」
どこか焦ったような物言いに、驚いた私は半歩後ろに下がる。
すると、肩に乗っている先輩の手に力がこもった。
「春香ちゃん、教えて」
そこまでしつこく聞いてくる理由が見当つかない。
たとえば井上さんが遊び人で、これまでに何人もの女子を泣かせている酷い人だったら、先輩が心配してくれるのも分かる。
だけど、井上さんはそんな人ではないし、女子に酷いことをしたという噂は一度だって聞いたことがなかった。
だとしたら、先輩のこの態度はどういうことだろうか。
話さないことには状況が変わらないと理解できたので、私は口を開くことにした。
「兄が忘れ物をして、その時に兄が教室にいなかったら声をかけてねといったことを井上さんから言われたので、よろしくお願いしますと答えましたよ」
それを聞いて、先輩がホッと息を吐いた。
「そうだったんだ。デートにでも誘われたのかと思った」
「それは昨日の放課後です」
「えっ!?」
「……あっ」
余計なことを言ってしまったことに気付いたけれど、口から出た言葉は引っ込めることはできない。
「い、いえ、その、えっと……」
しどろもどろになりながら視線を彷徨わせていたら、先輩の顔がグッと近付いてきた。
「井上が、春香ちゃんをデートに誘ったの!? 本当に!?」
その驚きぶりは、どういうことだろうか。
先輩と並ぶ人気者の井上さんに、平凡な私がデートに誘われたという驚きだろうか。
「春香ちゃん、どうなの?」
「どうって……、まぁ、本当、ですけど……。でも、きっと井上さんは冗談で言ったんですよ」
「それで、春香ちゃんはなんて答えた? 了承した?」
私が冗談だろうと言ったのに、先輩はやたらと真剣に尋ねてくる。
ますます首を傾げつつ、私は答えた。
「まぁ、あの……、断りました。ほぼ初対面の人に誘われても、からかわれているとしか思えませんし。それに、私は人見知りのところがちょっとあるので、ほとんど話したことがない人とは、出掛けるのは気まずいといいますか……」
それを聞いた先輩は、深く長く息を吐いた。
「そうか……」
しみじみした口調で呟いた先輩は、ようやく私の肩から手を外す。
「ごめんね、少し取り乱した」
私は返す言葉が浮かばなくて、曖昧な微笑みを浮かべた。
それからまた私たちは歩き出した。
先輩はさっきの慌てぶりが嘘のように、穏やかな足取りである。
――なんだったのかな?
さりげなく先輩と距離を取りつつ歩いていたら、またしてもスッと隣に並んだ先輩が話かけてきた。
「春香ちゃんは、顔見知りの人だったら、一緒に出掛けてもいいんだよね? じゃあ、俺とだったら、出掛けてもいいよね?」
「……は?」
井上さんの話の裏を返したら、そういうことにもなる。
とはいえ、それがどうして私と先輩が出掛ける話になるのだろうか。
思わず足を止めたら、先輩も足を止めて私と向き合う。
「来週から猫の写真展がショッピングモールで開かれるんだって。そこに、俺と一緒に行かない?」
なるほど、猫好き仲間としてのお誘いのようだ。
こうしてマルと一緒に遊んでいる私となら、うってつけの展覧会だろう。
猫にあまり興味がない人を誘っても、相手に悪いし、自分も楽しめないから。
それでも、素直には頷けない。
いくらその展覧会に興味があったとしても、『先輩と一緒』というのは無理だ。
うまい断り文句が浮かばず、「都合が合ったら……」と、ぼやかしておいた。
田沼さんにマルを引き渡し終え、私と先輩はそれぞれの教室に向って歩き出す。
すると、昨日も見たような光景が訪れる。
「安堂君、見つけた!」
「探していたんだよ!」
宮永さんと前沢さんが、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「安堂君って、猫が好きなんでしょ。私、いいもの持ってるの」
そう言って、宮永さんがチケットを差し出す。
「私も、持ってるわ」
同じように、前沢さんもチケットを差し出した。
「隣の市にあるショッピングモールで、猫の写真展があるんだって。私と一緒に行かない?」
「私も、すごく猫が好きなの。私と一緒に行こうよ」
二人が持っているのは、さっき先輩が話した展覧会のチケットらしい。
――これで、丸く収まるのかな?
先輩は二人の内どちらかと、もしくは三人で展覧会に行く。
私は先輩と展覧会に行かずに済む。
これで、万事解決ではないだろうか。
胸の奥がチクチクと痛み始めたけれど、それは時間が経ったら、きっと感じなくなるものだ。
しばらく我慢したら、きっと、きっと、消えてなくなる痛みだ。
――痛みを感じるのは、一時的。だから、大丈夫。
心の中で繰り返し呟き、私は静かに息を吐く。
「それじゃ、失礼します」
昨日のように頭を下げた私は、三人の横をすり抜けた。
「春香ちゃん!」
名前を呼ばれて足を止めた私は、先輩に微笑みかける。
「先輩、その展覧会に行きたかったんですよね? ちょうどよかったじゃないですか、楽しんできてくださいね」
「……え?」
唖然とした表情の先輩に改めて頭を下げ、私はその場から立ち去った。




