(14)
「も、もしもし?」
恐る恐る話しかけると、電話の向こうで大きく息を吐く音が聞こえる。
『よかった、電話に出てくれて。三十分待っても来ないから、春香ちゃんになにかあったのかと思ったよ』
安堵のため息を零す先輩に、申し訳なさがこみ上げる。
「……ごめんなさい。友達とおしゃべりしていたら、こんな時間になってて。心配かけて、本当にごめんなさい」
それは嘘だけど、他に言い訳が見つからない。
さらに申し訳なさが膨れ上がった。
先輩はそんな見え透いた嘘を追究してくることなく、明るい声を出す。
『謝らないでよ、春香ちゃんが元気ならそれでいいんだ』
思った通り、先輩は優しい人だ。単なる『友達の妹』にも、こうして気を配ってくれる。
嬉しいけれど、先輩と距離を置きたいと思っている時に見せるその優しさが今はつらい。
「あの……、それで、今日は裏庭に行くのはやめようかと……。えっと、遅くなっちゃったので……」
心臓がチクチクと痛むのを感じながら話しかけたら、先輩がすぐに言葉を返してきた。
『でも、そんなに遅くなってないと思うよ。マルも会いたがっているから、こっちにおいで』
先輩がそう言うと、タイミングよくマルが『みゃぁ!』と元気よく鳴いた。
『ほらね、マルも春香ちゃんを待ってるよ』
私は迷った末に、今から行くと伝える。
行かなくて済む言い訳が思いつかないし、やっぱり、可愛いマルには会いたい。
スマートフォンをポケットにしまい、私は教室を出た。
裏庭に顔を覗かせると、私に気付いた先輩がマルを抱っこして走ってきた。
なにがそんなに嬉しいのか、先輩の表情が明るい。よほど、マルとの遊びが楽しかったのかもしれない。
「……こんにちは」
ちょっと気まずい思いをしながらも、私はペコッと頭を下げた。
そんな私の頭の頭を、先輩がソッと撫でる。
「顔色は悪くないね」
本気で私の体調を心配してくれていたようだ。
微笑む先輩を見て、また私の心臓がチクチクと痛くなる。
苦笑いを浮かべたら、先輩の左腕に抱っこされていたマルが、私に向ってピョンと飛び掛かってきた。
「きゃっ!」
ビックリしながらも、なんとかマルをキャッチする。
マルは私の顔を見て、「にゃっ、にゃっ」と鳴いた。
「やっぱり、俺より春香ちゃんのほうがいいんだなぁ」
「そうでしょうか?」
先輩の言葉に首を傾げると、クスッと小さな笑い声が返ってくる。
「そうだよ。今も、春香ちゃんに抱っこしてほしくて、俺の手から飛び出したし。それに、今日のマルは、チラチラよそ見してばかりだった。きっと、春香ちゃんを探していたんだね」
「マル、そうなの?」
腕の中のマルに視線を向けると、「うにゃ!」と甲高い声で鳴いた。
その様子に、先輩がフッと口角を上げた。
「マルも男だからなぁ。俺なんかより、可愛い春香ちゃんのほうがいいよなぁ」
先輩が話しかけると、マルは「ふにゃぁん」と甘えた声を出し、私の手をペロペロと舐める。
「ほらね。俺といる時は、こんな甘えた声で鳴かないよ」
先輩よりも私に懐いてくれて、ちょっとだけ優越感を抱く。
「私はしょっちゅうおやつをあげていますから、それで先輩よりも懐いてくれているだけです」
小さく笑いながら、私はマルの頭を撫でた。
「なんにせよ、マルは俺のライバルだ。よし、負けないぞ」
先輩はマルの右前足を軽く掴み、握手のようにソッと上下に揺する。
すると、マルが「ふしゃぁ!」と、子猫らしからぬ迫力で鳴いた。
「ははっ、やる気だなぁ」
そんなマルを見て、先輩は声を上げて笑っている。
先輩とマルがなにを競っているのかピンとこないけれど、先輩が楽しそうにしているから、「まぁ、いいか」と私は思った。
それから少しの間、私はいつものようにマルを追いかけたり、マルに追いかけられたりして遊んだ。
しばらくすると、マルは遊びに飽きたらしく、私に抱っこを求めてきた。
「うなぁん」
私の靴を爪でカリカリしながら、早く抱っこしろと催促している。
その姿は本当に可愛くて、胸の痛みが少し和らいだ。
「もう、マルは甘えん坊だね」
私はマルを抱っこして、フワフワの毛に頬擦りをした。
子猫特有の毛はやわらかくて、すごく気持ちがいい。
マルは私にされるがままになっていたけれど、そのうちぷすぅ、ぷすぅと微かに鼻を鳴らして寝てしまった。
こうなってしまうと、田沼さんに預けに行くしかない。
そして、先輩と一緒に用務員室へ行くことになる。
マルと遊んでいる間はよかったけれど、先輩と並んで歩くのはなんとなく気まずい。
「私がマルをつれて行きますから、先輩は先に帰って大丈夫ですよ。今日は、私のせいで遅くなりましたし」
ところが、私の提案を先輩は笑顔で断ってくる。
「遅くなったといっても、それほどじゃない。俺はこの後に予定がある訳じゃないから、急いで帰る必要もないしね。さ、行こうか」
大きな手で軽く背中を押され、反論できない私は大人しく歩き始めた。
足を進めるうち、さりげなく先輩と距離を取っていく。
一歩分、二歩分と離れるものの、先輩はふとした瞬間に距離を詰め、いつの間にか私のすぐ横を歩いていた。
困ったなと思っていると、先輩が静かな声で話しかけてくる。
「今朝、三年の教室にいたよね。また、夏輝が忘れ物をしたのかな?」
「はい、数学の教科書を」
「まったく、しょうがない奴だな。春香ちゃんは、わざわざ届けに行って優しいね」
先輩がポンと私の頭を軽く叩いた。
もうすぐ校舎が見えてくる場所に差し掛かっていて、私たちの姿が誰かの目に留まるかもしれない。
その状況で、こうして頭を撫でられるのはちょっと困る。
私はマルの様子を窺う振りをして大きく俯き、先輩の手をソッと避けた。
「よく寝ていますね、マル。寝顔が可愛い」
すると、なぜか先輩の足が止まった。
自分の足音しかしないことに気付いて振り返ると、自分の右手に視線を落としている先輩の姿が目に入った。
――右手がどうかしたのかな?
「先輩?」
怪訝に思って声をかけると、先輩はゆっくりと顔を上げて私を見た。
「教室で、井上としゃべっていたよね?」
今朝のことを言っているのだと思い、私はコクンと頷く。
「はい。兄がいなかったので、渡してあげると井上さんが言ってくれたんです。おかげで助かりました」
「……それだけ?」
ジッと私を見つめながら、先輩が問いかけてくる。
「それだけって?」
なにが言いたいのか分からなくて首を傾げたら、先輩が大股で歩いてきて私のすぐ目の前に立った。
「他に、なにか言われた? たとえば、どこかに行こうって誘われたとか?」
どうして、先輩はそんなことを訊いてくるのだろう。
それを知って、どうするのだろう。
私はさらに首を傾げた。




