(13)
翌日、兄がまた忘れ物をしたせいで、私は登校直後に三年の教室へ行くことになった。
「教科書を忘れるなんて、気持ちがたるんでるよ」
ブツブツと呟きながら廊下を進み、兄がいるはずの教室に到着。
私には大きな声で呼びかけるという勇気はないため、教室を覗き込んでキョロキョロと見回す。
そこで、「小橋を探してるのかな?」と声をかけられた。
こちらに歩いてきたのは、井上さんだ。
昨日、ちょっと話をしたので、とりあえずは顔見知りの部類に入る。
私はそれほど緊張することなく、頭を下げた。
「おはようございます」
挨拶をしたら、井上さんの目がフッと細くなる。
「おはよ。やっぱり、可愛いなぁ。このサイズ感が、またいい」
井上さんを前にしたら大抵の女子は小柄に分類されるため、私だけ特別にそう見えているのではない。
その発言に対して気にしないでいたら、井上さんの視線が下がった。
「それ、小橋に届け物?」
私が手にしているのは三年生が使う数学の教科書なので、兄の物だとすぐに分かったらしい。
コクンと頷いたら、手がスッと差し出された。
「小橋は今、飲み物を買いに行っているんだよね。俺から渡しておくよ」
「ありがとうございます、助かります」
一年の私がここにいるのは場違いで、妙にソワソワして落ち着かない。早く立ち去りたいと思っていた私には、願ってもない申し出だ。
それに井上さんだったら、きちんと兄に渡してくれるだろう。
差し出した教科書を、大きな手が受け取ってくれた。
「このくらい、お安い御用だ。これからもなにかあったら、遠慮なく俺に言って」
ニカッと笑うと怖さがだいぶ薄れるし、昨日話をしていい人だと分かっているから、私は割と普通に話すことができる。
「兄のことで迷惑をかけて、本当にごめんなさい。また兄が忘れ物をするかもしれませんので、その時はお願いします」
どもることなく言い終えたところで、先輩が向こうから歩いてくるのが目に入った。
先輩は背が高いし、なによりオーラのようなものがあるので、割とすぐに気付く。
周囲からひっきりなしに掛けられるあいさつに答えながらやってくる先輩が、フッとこちらを見て目を大きくした。
私に気付いたようなので、軽く頭を下げておく。
ここから声をかけるには距離がありすぎるし、一年生の私が有名人の先輩に馴れ馴れしく声をかけるのは、たぶんよくないことだと思うから。
いったん外した視線を井上さんに戻し、「自分の教室に戻ります」と告げてから、先輩がいる方向とは逆に歩き出した。
この先にある階段を使うと遠回りになってしまうけれど、たくさん人がいるところで目立つ先輩と顔を合わせるのは、とにかく気まずい。
曲がり角に差し掛かったところで「春香ちゃん」と呼ぶ声が聞えた。
けれど、「はるか」なんて、そう珍しい名前ではない。春香ではなく、遥さんや晴佳さんかもしれない。
先輩が呼んだのは私である確証がないので、そのまま階段を下りていった。
放課後になり、いつもならすぐ裏庭に向かうけれど、今日はなかなかその気分になれずにいる。
これまでにいろいろと心が揺れていて、マルに会いたい気持ちよりも先輩に会いたくない気持ちに傾きつつあった。
昨日は少しずつ先輩と会う時間を短くして、徐々に離れていこうと思っていたけれど、それではなんだかんだと踏ん切りがつかない気がする。
だとしたら、スパッと先輩に会わないようにしたほうがいいのではないだろうか。
これ以上、先輩のことを好きにならないうちに。
これ以上、失恋の傷が深くならないうちに。
先輩と毎日のように顔を会わせるようになったけれど、それはマルがいるからこそ。
裏庭でマルと一緒に遊ぶことがなかったら、どこかで会っても、お互いに『兄の友達』、『友達の妹』という認識しか生まれないはず。
今だって、先輩とは猫好き仲間という繋がりが主だ。
だったら、付き合いがそれほど深くならないうちに、距離を取ったほうが正解ではないだろうか。
裏庭で会って以来ずっと優しくしてくれた先輩と顔を会わせなくなったら、心配をさせてしまう可能性があるけれど、校内ですれ違った時には挨拶をするつもりはあるし、まったく無視をするつもりはない。
ただ、あの裏庭で、マル以外は私たちしかいない状況で先輩と会うのは、もうやめたほうがいいと思ったのだ。
――今日は、焼きのりに会いに行こうかな。
マルの母親である焼きのりは、あまり用務員室から出ない猫だ。
田沼さんが保護した時、足に大怪我をしていて、今も歩くのが上手ではない。お気に入りのクッションの上で、のんびり過ごしていることが多かった。
――最近はずっとマルばかりと遊んでいたから、他の兄弟とも遊んであげたいし。
私は誰に聞かせるでもない言い訳を心の中で呟き、用務員室に行こうと決めた。
マルばかり可愛がるのは不公平だと理由をつけて、ようやく席を立つ気になった。
その時、スカートのポケットに入れていたスマートフォンが小刻みに震える。
「お母さんかな?」
母はたまに兄か私に連絡を入れ、買い物を頼んでくる。
今回もそうだろうと、何気なく画面を見た。
ところが、電話の着信を告げる表示に、『先輩』とある。
「……え?」
私は思わず声を上げる。
幸いにも教室には私の他に誰もいないので、変に思われることはなかった。
それはいいとして、どうして先輩が電話をかけてきたのだろう。
「……まさか、私がなかなか裏庭に来ないから?」
自分で言っておきながら、それはないだろうと苦笑いを浮かべる。
マルと毎日遊んでいるけれど、それは先輩との約束事ではないし、裏庭に行く時間を決めてもいない。
先輩はすごく優しいから、私が体調を崩しているから裏庭に現れないのかもしれないと考えたのだろう。
電話に出るべきかどうか迷ってしまい、なかなか通話のアイコンをタップできない。
「どうしよう……」
それとも、スマートフォンを家に忘れたことにして、先輩からの電話に気付かなかったというのはどうだろうか。
我ながら名案だと思い、呼び出しが切れるまでそのままにしておいた。
程なくして、スマートフォンの振動が止まる。
ホッと胸を撫で下ろした私は、トークアプリにメッセージが届いていることに気付いた。
「お母さんか、お兄ちゃんかな?」
アプリを開いてみようと指で画面に触れようとした瞬間、また先輩から電話がかかってきた。
驚いた拍子に、指が通話のアイコンをタップしてしまう。
「あっ……」
気付いた時にはもう遅く、先輩との通話が始まっていた。
『もしもし、春香ちゃん!』
スマートフォンを耳に当てていなくても聞こえるくらい、先輩の声は大きかった。
それに、なにか焦ったような感じだ。
――実は先輩に用事があって、電話をかけてきたのかもしれないよね。
この前のように、今日は裏庭に行くのが遅れる、もしくは行けないという連絡をしてきた可能性も捨てきれない。
現れない先輩を私が心配すると思って、電話をかけてきたことも十分に考えられる。
とりあえず、電話に出てみることにした。




