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 マルを起こすことなく、校舎に着いた。

 昇降口近くの階段から三年生は教室に向かうので、先輩とはここでお別れだ。

「では、失礼します」

 静かに頭を下げると、先輩は「うん、またね」といって、三年生用の靴箱へと向かった。

 遠ざかる背中を眺めながら、私は長く息を吐く。

 先輩が近くにいると、相変らず緊張してしまう。

 もう一度息を吐いた私は、中履きに履き替えるために一年生用の靴箱に向かった。

 自分の靴箱を前にして、思わぬ問題が発生する。

「どうやって、履き替えよう……」

 外履きをしまうのも、中履きを取り出すのも、手を使わなくてはいけない。

 先輩は身長に見合って手が大きいため、片手でマルを抱っこし、空いたもう一方の手で靴を取り出したり入れたりできた。

 しかし私の手は小さいので、片手でマルを抱っこしたら落としてしまいそうなのだ。

 かといって、床にマルを下ろしたら、起きてしまう可能性がある。

 それだけならまだいいけれど、起きたマルが勢いよく走りだしたら、どこに行くのか見当がつかない。

「どうしよう……」

 再度呟いた時、背後に人が立ったのが分かった。

「春香ちゃんの、俺が靴を出してあげるね」

「……っ!?」

 どうにか大きな声を出さずに、私は後ろを振り返る。

 すると、先輩が当たり前の顔をして私を見ていた。

「……ど、どうして、ここに?」

 小声で話す私に、先輩もさっきと同様に小声で返事をする。

「マルを抱っこしたままだと、靴を履き替えるのに不便だと思って。だから、急いで来たんだよ」

 ニッコリと笑う先輩の目が、すごく優しい。

 先輩は見た目が素敵なだけじゃなくて、こうして気配りもできる素晴らしい人だ。

 私はいつも、自分のことで精いっぱいなのに。

 感心するとともに、自分が先輩に相応しくないと改めて思い知る。

 先輩の優しさに触れるたびに、嬉しくなる自分と悲しくなる自分がいる。

 なんとも言えない表情を浮かべていたら、先輩が『小橋』と書かれている靴箱から中履きを取り出した。

「はい、どうぞ」

「……ありがとうございます」

 お礼を言って靴を履こうとしたけれど、手が使えないとバランスがうまく取れないことに気が付く。

 転んで自分が怪我をするのは嫌だし、マルに怪我をさせるのも嫌だ。

 一瞬悩んだけれど、先輩が近くにいるのだからマルを預けたらいいのだと気が付いた。

「先輩、マルを抱っこしてもらえますか」

「いいよ」

 快く引き受けてくれた先輩にマルを両手で差し出すと、先輩も両手を出してきた。

 その手に乗せようとしたところで、先輩が私の手の甲を包むように触れてくる。


――な、な、な、なに!?


 あまりの驚きに飛び上がりそうになるけれど、大声を出すこともマルを放り出すこともなかった私を褒めてほしい。 

 慌てふためく私とは対照的に、先輩はフワリと目を細める。

「小さいマルを抱っこしている春香ちゃんの手も小さくて、すごく可愛いね」

 先輩がしたことも言ったことも、私の理解を越えている。

 驚きの表情を浮かべたままカチンコチンに固まっている私の手から、先輩が静かにマルを受け取った。

 マルはよほど疲れているのか、この程度では起きない。

 それはよかったのだが、私の顔が尋常ではない熱を持っている。この調子では、解熱剤をもらいに保健室に行くことになりそうなほどだ。

 衝撃から立ち直れないままでいたら、「靴、履き替えないの?」と先輩に声をかけられる。

「あっ……」

 私は慌ててモソモソと足を動かして外履きを脱ぎ、中履きに右足を差し入れる。

 ところが、慌てすぎたせいで、バランスを崩してしまった。

「わぁっ」

 グラリと右に大きく体が傾き、私は支えを求めて手を伸ばす。

「危ないっ」

 声と共に、先輩の右手が私の手をギュッと掴んだ。

 おかげでどこかぶつけたり転んだりしないで済んだけれど、顔の熱さが一気に限界点を突破した。

「あうぅ、あ、う……」

 意味不明な言葉を呟く私に、先輩はクスッと笑いかける。

「春香ちゃんが無事でよかった」

「あ、あり、がと……、ござい、ま、す……」

 色々な意味で心臓がバクバクしている私は、覚束ない口調でお礼を言った。

 先輩は握っていた手を放し、両手でマルを抱え直す。

「どういたしまして。俺がそばにいるのに春香ちゃんが怪我をしたら、夏輝になにを言われるか」

 苦笑いを浮かべている先輩に、私も同じような苦笑いを返した。

 確かに、兄は過保護なところがあるので、怪我を見たら事細かく訊き出して騒ぎそうだ。

「今、靴を履き直しますので、もうちょっとマルを預かっていてくださいね」

 私は今度こそよろけないように注意して、靴を履き替える。

「……やっと少しずつ距離が縮まってきたのに、ここで『妹に近付くな』って言われたくないからなぁ」

 両足とも履きに換えてつま先でトントンと床を突いていた私は、先輩がなにか言った気がして顔を上げた。

「先輩?」

 呼びかけた時には、いつもの優しい笑顔に戻っている。

 今の呟きはただの独り言だったのだろうと、私は判断した。

「マルを預かりますね」

 私が手を差し出すと、先輩は特になにごともなく私の手の中にマルを収める。

 

――さっきのは、なんだったのかな?


 私は小柄だけど、ものすごく小さいということではない。平均よりもちょっと背が低いくらいだろう。

 先輩の周りにも私と同じくらいの身長の人はいるはずで、この手の大きさは、それほど珍しいものでもない。

 よく分からないけれど、いちいち確認したら『面倒な子』だと先輩に思われそうなので黙っていることにした。

 靴を履き替えたことだし、用務員室へ行こうとしたところで「安堂君!」、「やっと見つけた!」と言いながらこっちにやってくる二つの足音が耳に入る。

 音がしたほうに顔を向けると、宮永さんと前沢さんが小走りでやってくるのが目に入った。

「ずっと探していたんだからね!」

「どこに行っていたのよ!」

 二人はマルに気付かないようで、ちょっと大きめの声で先輩に話しかけてくる。

 どう見てもお邪魔虫なのは私だし、マルを田沼さんのところに連れて行かなくてはならないので、この場を離れることにした。

「マルに早く水を飲ませてあげたいので、失礼します」

 宮永さんと前沢さんに面識はないけれど、一応三人に向けて頭を下げる。

「えっ!? 春香ちゃん、ちょっと待って!」

 一歩踏み出した先輩の両腕を、宮永さんと前沢さんがそれぞれ掴んだ。

「安堂君は、私たちと話をしないと」

「そうよ。結局、私か前沢さんのどっちを選ぶのか、答えてもらってないし」

「だから、それは……」

 困ったように眉尻を下げる先輩に、二人がさらにしっかりと先輩の腕を掴む。

「いい加減、はっきり答えて」

「どっちと付き合うの?」

 左右から詰め寄られ、先輩はさらに眉尻を下げる。

 その顔は朝見た時と同じように、寂しそうな笑顔だった。


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