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「ひゃっ!」

 間抜けな悲鳴を上げてつんのめる私の背中に、先輩の左腕が回される。

 その腕にさらにグイッと引き寄せられ、私の体が先輩にぶつかった。

「ご、ごめんなさい」

 自分が悪い訳ではないけれど、とっさに謝る。小心者は、反射的に謝罪を口にする人種なのだ。

 慌てて先輩から離れようとしたのだが、背中にある左腕に力がこもった。

「春香ちゃんの目にゴミが入っていないか確認してからじゃないと、放してあげないよ」

 間近で見下ろしてくる視線は真剣そのもので、本気で私を心配してくれているのがよく分かる。

 それがなおさら申し訳なくて、私はなんとか先輩から離れようと身を捩った。

 だけど、どう見ても私が先輩に敵う訳がない。

「すぐに終わるから、怖くないよ。ちょっと見るだけだから、痛くないだろうしね」

 モゾモゾと身じろぎを続ける私に、先輩が優しい声で言う。まるで、診察室で治療を嫌がる子供を宥めるかのように。

「べ、別に、怖がっている訳じゃ……」

 言い返したところで、私は『しまった』と心の中で呟く。

 眼科医でもない先輩に見てもらうのは怖いということにしておいたら、この状況から抜け出せたかもしれないのに。

 変なところで素直な自分がうらめしい。

 ちょうどいい言い訳が見つからずに視線をウロウロさせていたら、先輩の右手が私の左頬を覆った。

 大きな手が頬へと触れたことに驚いて、私はピタリと動きを止める。


――な、なに……?


 ギョッと目を見開いて先輩を見上げたら、私を安心させるためなのか、ことさら優しい笑みを向けられた。

「怖くないなら、見せてくれてもいいよね。なにもないって分かったら、安心でしょ」

 先輩は微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと顔を近付けてくる。

 片想いしている人の顔がこんな風に近付いてきたら、驚かない人はいないだろう。

 私は我に返り、パッと横に顔を向けた。

「そ、そうですけど……、目に入った小さなゴミは、涙と一緒に自然と出ていくって言いますから……」

 先輩が早く離れてくれますようにと願ったものの、その願いは空振りに終わる。 

 背中にある先輩の腕にはいっそう力がこもり、私と先輩の距離がさらに縮まった。

 おまけに、ふたたび左頬を覆った先輩の手は押さえ込むような感じなので、振り払えそうにない。

 改めて顔を近付けてきた先輩が、静かな声で言う。

「まだ残っているゴミがあるかもしれないよ。だから、俺に見せてごらん」

「えっと、あの……」

 それでも覚悟を決められない私がモゴモゴと口ごもっていたら、足元にいるマルが「にぃ……」と小さな声で鳴いた。

 疲れるほど遊んだので、物足りないということではないだろう。

 おやつもあげたから、お腹が空いて鳴いたとも違う。

 たぶん、喉が渇いているのかもしれない。

「ほら、マルを早く用務員室に連れて行ってあげないといけないから」

 先輩の催促に、私は折れるしかなかった。

 できる限り先輩を意識しないようにして私は大人しく立っている。

 先輩を見ていたら心臓が爆発しそうなので、視線は左に流した。

 これで先輩の姿は視界に入るけれど、顔を直視しないで済む。

「春香ちゃん、そのままでいてね」

「……はい」

 小さな声で返事をしたら、はじめに右目をジッと覗き込まれた。続いて、左目も。

 極々間近に先輩の気配を感じつつ、私は「早く終わって!」と必死に願った。

 先輩が姿勢を戻すのと同時に、私の口からはホッと息が漏れた。

「うん、ゴミは入っていなかったよ」

「そ、そうでしたか……、ありがとうございます」

 これでやっと羞恥地獄から抜け出せると思ったのに、先輩の左腕からは力が抜けていかない。

「……せ、先輩?」

 戸惑い気味に声をかけたら、クスッと小さな笑い声が返ってきた。

「無防備な春香ちゃんは、本当に可愛いね」

 不意打ちでそんなことを言われ、ふたたび羞恥地獄に舞い戻った私である。

「い……、い、い、いえ、わ、わた、私なんて、ち、ちっとも可愛くなくて……」

 ここ最近で一番しどろもどろになっていると、先輩の右手がポンポンと私の頭を撫でた。

「俺は本気で可愛いと思ってるよ」

 その言葉に、羞恥地獄の一番底まで突き落とされる。


――だ、だめ、誤解したら。先輩はマルと同じ基準で、私のことをそう言っているだけなんだから。


 兄のクラスの人が私の行動を見て、『小動物みたい』と言っていた。

 だから、先輩の目にも私がそんな風に見えているのだろう。

 先輩の言葉に甘い期待を寄せるような容姿をしていないことは、毎日鏡を見ている自分がよく知っている。

 うぬぼれるなら、宮永さんや前沢さんのような美人さんでなくてはならないのだ。

 心の中で『私はマルと同列』という謎の言葉を繰り返し、どうにか暴れる心臓を落ち着けた。

「じゃ、じゃあ、マルを送りましょうか」

 私は足元でウトウトまどろんでいるマルを静かに抱き上げる。

 この前は先輩がマルを抱っこしたので、ついて行かざるを得なかった。 

 こうして私が抱っこしたら、先輩はそのまま教室がある三階に向かうだろう。

 私が歩き出したら、当然のように先輩も足を進める。

 校舎に入るまでは行き先が同じだから、それは仕方がない。

 とりあえず、周りの人から変な誤解をされないように、たっぷり二歩分離れて歩いていくことにする。

 腕の中のマルはポヤッとした表情で周りをゆっくり見回したり、半目を閉じてこっくりこっくりと舟をこいだりして、元気に遊び回る姿とはまた違った可愛さがあった。

 私はマルの眠気を妨げないように注意して、慎重に足を進める。

 そんな風に手元にばかり意識が向いていたせいで、先輩がすぐ隣を歩いていることに気付かなかった。

「マル、本格的に寝そうだね」

 耳元で囁かれて、ビクッと肩を震わせる。

 パッと左を見たら、私の手元を覗き込んでいる先輩と目が合った。

 その距離の近さに、改めて驚く。


――えっ!? なんで、こんな近くにいるの!?


「せ、先輩!?」

 声を上げる私に、先輩は立てた人差し指を唇に当てて「静かにしないと、マルが起きちゃうよ」と小声で囁いた。

「……ご、ごめんなさい」

 先輩と同じく、小さな声で謝った。

 でも、先輩がこんな近くにいなかったら、私は声を出さなかったのだ。

 とはいえ、小心者の私は、もちろん言い返すことができない。

 さっきまでちゃんと二歩分の距離を保っていたはずなのに、いつから先輩は私のすぐ隣にいたのだろうか。

 幸いにもマルは目を覚まさなかったので、ホッと息を吐いた私はふたたび歩き出す。

 さりげなく先輩から離れるように斜めに歩いて距離を取るけれど、気付いた時にはまた先輩がすぐ隣を歩いていた。

 おかげで、校舎に着くまで五回もビクッと肩を震わせた。




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