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私は小橋春香。この春に高校一年生になったばかりだ。
通っている学校は普通科の他に農業科があるため、一般的な高校に比べると敷地がかなり広い。
牛や馬、ヤギなどが飼われている畜舎、その奥には畑や田んぼ、本格的なビニールハウスまである。
私は普通科の生徒なので、農業のことはさっぱり分からない。
だけど、緑と花が溢れるこの学校のことは大好きだ。
入学してから一週間が経った日のこと。
放課後を迎え、私はある場所に向かった。
果物が栽培されているビニールハウスの横を通り抜けて小道を進むと、芝生が生えていてポカッと開けた場所に出る。ここが私のお気に入りの場所だ。
私は手にしていたちいさなポリ袋を振り、ガサガサと音を立てた。
すると、奥にある茂みから全身真っ黒な子猫が勢いよく飛び出してくる。
「マル、遅くなってごめんね。今日は担任のお手伝いをしていたから」
私の事情など聞く耳を持たないマルは、「にゃん、にゃん」と忙しなく催促の鳴き声を上げていた。
雨が降っていない限り、放課後になるとこの子猫のお世話をすることが私の日課になっている。
お世話といっても、おやつをあげたり、一緒に遊んだりする程度だけど。
この子は野良猫ではなく、住み込みで働いている用務員さんが飼っている猫が生んだ子猫。きちんと首輪が付いていて、予防接種も受けている。
他の兄弟たちよりも格段に好奇心旺盛なこの子猫は、時折、校舎の裏手にある空き地に現れる。
首輪には迷子札よろしく用務員さんの名前である「田沼」と書き込まれているが、猫自身の名前はないらしい。
私の父より少し年上な田沼さんに尋ねたところ、猫に愛着がないのではなく、名前を決めることがとにかく苦手であること、自分に名づけのセンスがないことが理由だと言っていた。
ちなみに、この子のお母さんは全身綺麗な毛並みの黒猫なのだが、名前は「やきのり」だそうだ。うん、田沼さんは名付け親になったら駄目だと思う。
まぁ、私のセンスも人のことは言えないかもしれないけれど。
入学式の翌日、学校の敷地内を散歩をしていて初めてここで出会った時、子猫が目を真ん丸にして驚いていた様子が可愛らしくて、それで『マル』と呼ぶようになった。
子猫は自分がマルと認識しているのか定かではなく、呼んでも来ない時もある。
もしかしたら、私以外にも可愛がられていて、その人が別の名前で呼んでいるのかもしれない。
人懐っこい子猫は可愛いから、誰もが遊んであげたくなるのだろう。
「今日はマルが大好きなマグロ味だよ」
その場にしゃがみ込んだ私は手の平の上にソフトタイプのドライフードを乗せ、今にもよだれを垂らしそうなマルに差し出した。
すると、マルは目を細めて美味しそうに夢中で食べ始める。
「はぁ、癒されるなぁ」
マルが食べ終えるまで、その愛らしい姿をじっくり堪能する。
その後はマルを追いかけたり、マルに追いかけられたりして、ほのぼのとした時を過ごしたのだった。
それから数日経った放課後のこと。
一年生の当番が、敷地内の清掃に当たることになっていた。
ジャージに着替え、それぞれがほうきや軍手、ゴミ袋を手にして、割り振られた区域へと向かう。
私は運良く、お気に入りの空き地周辺の清掃担当だった。
風で飛ばされてきたゴミをせっせと拾ったり、雑草を引き抜いたりと忙しく動き回る。
ニ十分ほど経ってからザッと見回すと、八割がた綺麗になっていた。
「あともう少しだ。よーし、頑張るぞ!」
大きな声を出して、自分に気合いを入れる。
すると、「にゃぁ」という聞き慣れた鳴き声が耳に入った。
パッと振り返ったら、マルが猛烈なスピードでこちらにやってくる姿が目に入る。
一直線に私のところにやってきたマルは、「にゃ、にゃ」と甘えた声を出し、私の周りをグルグルと走る。
「ごめんね。今は掃除の時間だから、おやつは持ってないんだよ」
マルに向かって謝ったその時、奥の小道から背の高い男の人が現れた。
「ハル、どこに行った? ……あれ?」
その人は学校の制服を着ていて、ネクタイの色は深緑。この学校に通う兄と同じ色のネクタイを締めているので、すぐに三年生だと分かる。
私が驚いたのは、彼の背の高さと整った顔立ちだ。
もしかしたら、私より頭二つ分くらいは背が高いかもしれない。高校生の男子の中で、かなりの高身長だろう。
赤みの強いミルクティーのような色をした髪はサラサラで、風に吹かれて柔らかく揺れている。
眉は髪よりも茶色がかっていて、キリリと形がいい。
くっきりとした二重は目尻が切れ上がり、一見すると迫力満点だ。
それでも、不思議な色合いの瞳が印象を和らげていた。日本人よりは若干色味の薄い黒の瞳は、光に当たると僅かに緑の輝きを放っている。
スッと高い鼻や厚みがやや薄い唇は、絶妙な位置で顔に収まっていた。
彼は、この学校では知らない人がいないという有名な先輩だ。
父方のおじいさんがドイツ人だという話なので、その影響が色濃く出たのだろう。
見るからに品の良い王子様のようなこの人の家族のことまで知っているのは、彼が兄の友達だからである。
お祭り騒ぎが大好きな兄と穏やかそうな先輩に接点が見出せないが、兄はたびたびこの先輩のことを話題にする。
今の今まで実際に先輩と会ったことはなかったが、普段から兄が自慢げに話をするので、入学したばかりの私でも、先輩についてはある程度は知っていた。
『こいつは頭もいいし、性格もいいし、見た目もいいという、向かうところ敵なしのイケメンだ。だが、イケメン過ぎるがゆえに、女子たちはやたらと色目を使って取り入ろうとするし。男は妬むか反対に恐れをなして、コイツと距離を取る。でもな、俺は純粋にコイツのことを尊敬しているから、友達になりたいと思った。こんないい奴は、そうそう出会えるものじゃないからな』
兄が高校に入って間もなく、スマートフォンに収められている画像を私に見せながら、興奮気味に説明をしたものだ。
そして『ま、俺のような度量がある男じゃないと、コイツの友達は務まらないだろうよ』と、最後に自分を褒める言葉を忘れないのは兄らしい。
そんな訳で、私はまだ会ったこともない兄の親友だという人のことを、高校入学前から、あらかた知っているのだった。
以降も何度となく写メを見せられたのでバッチリ顔は知っているし、なにより、これほどの人物なのだ。入学と同時に、一年生の間でも噂に上っていた。
――本当にかっこいい人だなぁ。
写メでもそのかっこよさは十分に伝わってきたが、実物はさらにかっこいい。
それにしても、こういう時はどんな反応をするべきなのだろうか。
私が一方的に知っているだけで、先輩が私のことを知っているかどうかはまったく分からない。
兄がどこまで私のことを話しているのか、それについては聞いたことがなかった。
あまり親しくすると不審がられるかもしれないが、『兄がお世話になっています』くらいは言ったほうがいいだろうか。
どうしようかと迷いながら、先輩の様子を窺う。
ところが、その先輩は足もとに子猫をまとわりつかせている私を見て、なぜか唖然としている。
――かっこいい人は、どんな顔をしてもかっこいいなぁ。
私はゴミ袋を手に、そんなことを考えていた。