恋する怪物
悲恋物語のスタンダードナンバーに、「オペラ座の怪人」と言う作品がある。1909年ガストン・ルルーの小説で、映画やオペラ、ミュージカルなどいまだに人気の作品だ。
読んだことは無くても、この題名を聞いたことがある人は、意外に多いに違いない。
有名どころでは、「金田一少年の事件簿」なんかでもモチーフとして使われたことがあるからだ。
怪人と言われるほどの才能と、残忍さを兼ね備えた男が、人生でただ一人愛した女性のために人生を崩して行く…鉄板のラブロマンスだ。
そんなものは、私のような冴えない一般人には縁が無いと思っていた。
大体、怪人も天才も私のキャパから大きく外れている。
手を出してはいけないキャラだ。
普通のオッサン、オバサンすら、もて余しているのに、よりにもよって怪物なんて…はぁ。
でも、魅力的なんだよね。
怪人は。
90年代の空気を含んで現れた私の怪物は、私に語りかける。
蘭子との出会いはじめは…気に入らないから、ほんの少し悪戯をするつもりだったと。
蘭子は、初対面のこの怪物にこう言ったのだ。
「あなたと付き合うくらいなら、誰とも付き合わない方がいい。」
ナンパでもされたと勘違いしたのか。
はたまた、怪物の気まぐれか…
断られたこの男は、その言葉通り蘭子が誰とも付き合えないように画策する。
90年代は、そんな怪しげなサイコムービーが流行ってたな。
映画「羊たちの沈黙」みたいな。あの映画のヒロインも、レクターに好かれて大変そうだったが、まあ、蘭子はあっけらかんと生きていた。まあ、投げ掛けた言葉が、「死んだ方がまし。」だったら、この物語は終わっていたが。
なんでホステスなんかをしているのかは知らないが、90年代は水商売の経験がある芸能人もわりといたし、蘭子にもそんなに悲壮感はない。
蘭子は、男性を知ることなく短い…(と、言っても30年以上は生きたが。)人生を終わらせた。
確かに、怪物と呼ばれたこの男は、一人の女性の人生を狂わせた訳だが、あれから年月が流れても、囚われているのは、蘭子ではなく、自分だと気がついてしまっている。
あれから、20年の年月が流れても、たまに思い出して苦い思いを味わうのだから。
逆に、蘭子は自分のことなどすっかり忘れて天国で楽しくやってるのだろう。
彼が逝く事の出来ない光の世界に。
実際、この男は、蘭子に直接関わることは、殆どしなかった。
遠くから観察していただけだ。
ただ一度、小さな悪戯をしたことはある。
蘭子が亡くなる半年前。バブル崩壊の煽りを受けた企業の合併、整理をしたときのことだ。
投資目的で買われた絵画の中に古いスケッチ画を見つけたのだ。
目録には、ダ・ヴィンチの作品とされていたが、それは贋作だ。
いや、確かに、古いものではあるし、ダ・ヴィンチにゆかりのある人間の作品かも知れないが、ダ・ヴィンチではない。
その、資産価値のほとんど無い絵を見たときに、そのアイデアを思い付いたのだ。
と、ここまで考えて、いままで調べてきた色々な知識が、眼鏡をかけた詐欺師の姿で、ダ・ヴィンチの贋作のスケッチについて説明を始めた。
90年代。バブルの浮かれた雰囲気に流されながら、日本は色んなものを世界から買い漁っていた。
絵画もそんな品物のひとつだ。
「お客様は、アヴィニョンと言う町が、ローマ教皇が居所に定め、教皇庁の所在地であった事があるのはご存じでしょうか?1377年、再び教皇はローマに戻られますが、69年の月日に蓄積された文化や書物は、そのまま残り、それはフランス革命期まで続きます。が、残念なことに、革命の動乱に乗じて、数々の美術品や書物が略奪されるという憂き目にあいます。今、ここにある作品は、そんな略奪され、行方がわからなかった作品の一部なのです。」
と、まあ、詐欺師の軽快なセールストークを聞いていた。
実際は分からないが、伝奇の素材なら、無理はない設定だ。
1517年のローマ教皇は、クレメンス7世。メディチ家の出身の人物で…あながちダ・ヴィンチとも縁がないとは言えない。
この頃、ダ・ヴィンチが何を考えていたかは知らないが、死期の近づくそんななかで、何かを残したなんて話の筋立ては、わりと自然だ。
で、ある起業家は騙されて偽物を掴まされるが、そのスケッチには、本当に謎が隠されていたとしたら?
なかなか、いい感じの話の流れに、私もつい、色々調べたくなる。
そして、世紀末の怪物は、とても魅力的だ。
奴は、あの派手で陰鬱で、なんでもありの90年代をまといながら、私が描ききれずに棄てた、あのはじめの奈美の台詞を拾い上げて命を吹き込んだ。
「20世紀末、ビル・ゲイツは画期的なシステムを世に送り出した。Windowsである。新しい文章筆記の登場は、新しい文化を生む。それは、16世紀に活版印刷が登場する、あの時代と似ているとは思わないか?」
怪物は、挑戦的に私に微笑みながら、私の物語を侵食し出す。
私の失敗談のはずの「ダ・ヴィンチの偽コード」を甘い恋の暗号に変え、500年前のルネサンスと、現代を繋げるように、強い存在感で立ちはだかるのだ。
が、私はこいつに名前を与える気はないし、コイツの口車にノル気もなかった。だって、そんな面倒な設定を消化できるスキルは持ち合わせてないのだ。
が、存在感のあるキャラクターは、固く意識の牢獄に押し込めても、その気配だけで人を翻弄する。
実際、これからどうすべきか…私ももて余し始めた。




