雪の結晶の守り人
しゃあん、しゃあん。
雪の結晶が何重にも重なった洞窟で、高く澄んだ音が鳴り響く。
固まった雪の結晶の壁は、光が差すわけでもないのにちらちらと輝いている。
洞窟に銀光が走る。
しゃあん、しゃあん。
またあの音がなる。真っ白な短剣が振りかざされる。短剣が光を反射し、きらりと銀光を放つ。しゃあん。氷の柱から欠片が飛び散る。短剣を引き抜く。また刃を氷の柱に立てる。しゃあん。
やがて剥がれた氷の薄片。雪の結晶が、きれいに形をそのまま残して剥がれていった。
白い手がそれを掴む。そして、目の前にいた若い女に差し出した。
「これとお前さんが持ってきた、ルビーの粒を交換だ。あんたに合うだろう雪の結晶を選んで剥がしたんだ、大事にしな」
そう言って、冬空のような青色の目で、女の目を氷の仮面ごしに見据えた。
「は、い……」
女は膝をつき、怖々とそれを受け取った。
少女はそんな女に、仮面の下で嫌に大人びた笑みを向け、差し出されたルビーの粒を受け取った。
「まいどあり。さ、早く帰んな」
少女は金髪の長い髪をかき上げて、空いている方の手でひらひらと手を振った。
女は手のひらに雪の結晶を乗せて、そのまませかせかと逃げるように帰って行った。
その雪の結晶は、生きた人間の手に握られようが、決して溶けることはなかった。
「へえ。このルビー、かなりの上物だね」
暖かそうな部屋の中。氷の洞窟で、そこだけは色も温度もあった。その両方を、幾重にも重ねられた布の壁がしっかり受け止める。
少女は机の上でルビーの粒をちらちらと光に当て、その輝きを吟味していた。
机に置いてある宝石箱。その中から、赤いビロード張りの宝石箱を手にとって、金色の金具を摘みその蓋を開いた。燭台の灯火に照らされ、ビロード地がきらきらと輝く。
中にはルビー、エメラルド、金、パール。色とりどりの宝石たちが、まるで競うかのように眩く輝いている。
「まあ、これだけあれば補充としては十分だろう」
かあん、かあん。
鉄と氷が打ちあう音。それが洞窟の出口の方から聞こえてきた。
少女は少し眉根を寄せ、ため息をついて立ち上がる。
同時に机に置いていた、あの氷の仮面を手にとる。
仮面は紐もひっかかりも無いのに、少女の顔に触れた途端、吸い付くようにぴたりと着いた。
かあん、かあん。
「はぁっ、はあっ」
つるはしを力一杯、氷の柱に向かって振り下ろす。
かあん、かあん。
氷はこれっぽっちも削れない。それどころか、つるはしを氷に振り下ろし当てた途端、つるはしの先が欠けて顔のすぐ横を飛んでいった。
男は冷たい空気を荒く吸い、吐いた。空気は小さな雪の結晶となり、きらきらと輝いた。
この結晶じゃだめなんだろうか、男はそう思い手を伸ばすものの、結晶はふわりと消えてどこかへ行ってしまった。
おかしい、おかしい。氷を削るためのつるはしで、これっぽっちも削れない氷なんて。それもこの柱は、雪の結晶が無造作につなげられたような、かなり脆そうな造りなのに。
男は片方の手袋をとる。ただでさえ、かじかんでいた指は、冷気に当たってさらに凍りつきそうに痛んだ。
雪の結晶でできた柱に、指を置く。手が氷にくっついてしまうかと思ったものの、触っても冷たいだけで、くっつく様子はない。
そしてかじかんでいるとはいえ、温かいはずの人の手に触れても、その雪の結晶はまるで溶ける様子がなかった。
「なんだ、こりゃあ……。本当に雪の結晶なのか」
思わず言葉をこぼし、その弾みで吐いた息が、雪の結晶となってこぼれていった。
「当たり前だ愚か者、気安くそれに触れるな」
どすが効いてはいるものの、女性の、まるで花のような声が聞こえてきた。
男はびくりと体を強張らせ、とっさにその、声がした方へと体を向けた。
「やれやれ、何も調べずに盗みに来るとは。近頃の盗っ人はお粗末よのう」
暗闇の先から、かつん、かつんと靴を鳴らす音がする。音は徐々に近付き、冷気でできた白いもやに、ぼんやりと人影が見え始める。
きらきらと輝く白いもや。そこからすぅっと白い足が出てきて、やがてその姿をあらわにした。
「なぁ、盗っ人くん?」
氷の仮面をつけた、少女。
仮面もさることながら、男はそれ以上に少女の格好を見て息を飲んだ。
レース地の、薄手の白いワンピース。
着ているのはそれだけだった。
男が自分の服を振り返るも、中にもセーターやらを着込んでおり、その上から動物の皮をなめして作った分厚いコートを着ている。帽子や手袋、雪を進むためのズボンなど、全身に防寒装備をしていても、自分の体は震えている。
もののけの類いではないか、男はそう思って、即座につるはしを構えた。
それを見て、少女はおもむろに腕を組んだ。
「こそ泥かと思えばなんだ、強盗か? まったく、人がせっかく丹精込めて作った雪の結晶を奪おうとしたあげく、見つかって武器を構えるなど……」
「お前のものだと。ただここに住んでるだけして、何を言っている。まるで泉の近くに家を建て、ここの水は全て自分のものだと言い張る業突く張りのような言い分だな」
少女は組んでいた腕を解き、白い腕をひらりと宙に振った。
「わたしが作ったその雪の結晶の柱のことだ。その辺にある氷や雪なんぞ、いくらでももってけ」
男の若干の無精ひげが生えた口は、黙っている間もガチガチと震えている。喋るのも難しかったものの、強張る口を必死に動かす。
「作った、お前がか」
「たわけ。こんな自然物がどこにある。明らかに人の手が加えられているだろう」
人の手が、鉄で叩いてもびくともしない、温めても溶けない雪の結晶の柱を作れるだろうか。そう思いはしたものの、男は素直に頷くことにした。
洞窟に番人が居ると聞いていたが、まさか人とは思わなかったな。この娘は厳密には人ではないかもしれないが、てっきり番人とは怪物か何か、異形の姿をしているものだとばかり思っていた。
よもや、話が通じるとは。
男はつるはしを足元に置き、深々と頭を下げた。
「すみ、ません。まさか誰かが自分で作ったものだとは思ってなくて。ここの雪の結晶を取りに来たのは本当ですが、知ってて盗もうとしたわけではないんです」
嘘と真実の境目。この娘がもののけの類いならば、心などとうに読み漁っているかもしれないが。男はそう思いながら、寒さか緊張か、体を強張らせながら、少女の次の言葉を待った。
やがて少女は はぁ、とため息をつき、あの美しい声で囁いた。氷でベルを作ったら、このような音色がするのだろうか。場違いであろうとも、男はそう思わずにいられなかった。
「して、お前さんはどうしてここに来たんだい。それが欲しいらしいことは分かったが、一体どうして」
この洞窟全体が、雪の結晶でできているようだった。少女に連れられ歩いてきた洞窟を眺めて、男はそう思った。氷とも違う、白くてきらきらした洞窟の質感は、なんとも不思議なものだった。
少女に最終的に連れてこられたのは、何枚もの布が壁代わりにかけられているだけの、部屋というにはお粗末すぎる、少女の部屋だった。
仮拠点のような見た目だが、扉代わりらしい布を少女がめくると、その中には家具やらが置いてあり、どうやらここが少女の本拠地らしいことが分かった。
一つしかない椅子に少女が座り、男にはその辺の絨毯の上に座るようにと少女は言った。
お互いに腰を落ち着けて、そうしてから、男は口を開く。
「……あの雪の結晶には、心が詰まっていると聞いた」
少女が外した仮面の下にあった、雪のように白い肌に笑みを浮かべる。
「そうだよ。純粋な心を持った、先人たちの感情さ。醜い心しか持てない愚鈍な者たちに、その貴き心を教えてくれる」
――ならば自分は愚鈍ではないと言いたいのだろうか。
男は心の中で思ったことは言わず、その言葉に相槌も打たなかった。
「……って言ったって。一つの小さな結晶に、人一人、もしくは何人もの心が丸々詰まってるわけじゃあない。あの柱の結晶全部合わせれば、それに近いものにはなるかもしれないけれどもねえ。愛、いたわり、慈愛。似たようなものだけど、ひとつひとつ細かく分化してる。それがあの雪の結晶ってことさ。ひとつひとつ、雪の結晶は同じ形のものなんてない。人の心でも、その瞬間ごとに移り変わり、同じ姿を持たないように。だが、結晶にしてしまえば、その一瞬の心は劣化することもない、変わることもない。
でも雪の結晶その心を入れてしまうと、本人から心を奪う形になる。心に穴が開いた状態になるんだ。だからわたしはその心の隙間に宝石を入れる。穴が空いたままの心は、悪い感情に転びやすいからね。そうやって穴を塞いでるんだ。だから、お代は宝石で頼むよ。できるだけ上物をね」
男にしてみれば何の話かと思えば、何のことはない、お代の話だった。
「あとは目的が終えれば、雪の結晶は返しておくれよ。同じ心は二つとないからねえ。だからここの雪の結晶は、返さなければ報いが来る。そう言われているのさ」
「……優しかった人が、ある日急に人が変わったように恐ろしくなる、とか……?」
内心の緊張を悟られないように。男はできる限り平静な顔を務めた。少女の瞳が、自分を見据える。
少女はぽかんと開けていた口を閉じ、静かな目でどこか遠くを見だした。
氷の洞窟のような色をした瞳が、そっと伏せられる。
「それは、ないな」
――ない、のか。
わずかな希望にすがってみたが駄目だった。あれは本当の母親の姿じゃない、別のもののせいでおかしくなったんだ。男はそう思いたかった。
でもどこかで、「だろうな」とも思っている。
――そうだ、雪の結晶のせいにするなんて馬鹿げている。
そう思ってもなお、男の口は質問をやめなかった。
「では、憎しみや怒りでできた雪の結晶がその時体に入ったとかは。考えられませんか」
「ない。醜い感情は結晶にできない。それにわたしは元より、そんな醜い感情を閉じ込め、飾る趣味はない。見ていて美しい心だけを氷の中に閉じ込めたのだから」
大体、人の心を雪の結晶に、なんて一体どういう仕組みだよ。男はそう思わざるを得なかった。
しかし口は、まだ質問を続けている。
「では、あなた以外にその方法を知る人は。もしかしたらその雪の結晶が」
「くどい! 無いといったら無い! 良い加減、今を認めてやれ!」
高く響いたその声は、洞窟に残響を残して消えていった。
少女から漏れる荒い息が、霊気に冷やされ凍りつき、きらきらと瞬いている。
「今、って何ですか。だっておれ、まだ何も」
うつむいた少女の顔に金髪がかかっている。その垂れた髪ごしに、少女が男の方を見る。
「わたしはそれほど暇じゃ無い。とっとと要件を言って、帰んな。雪の結晶が欲しいのかい。何のために、どんな心が欲しいんだ」
少女は早口でまくしたてた。先ほどまでの浮世離れした雰囲気と、そこからかもし出されていた余裕が、男の目には薄れて見えた。
少女の目はかすかに桜色になり、潤んでいるように見えた。
男のした質問は、男の抱いた淡い希望の込められた質問は、全て突っ返されてしまった。
少女の質問にすぐには答えず、男は絨毯に座ったまま、静かに目を伏せていた。
――分かっていたことだ。「母の性格が豹変したのは何かのまじないのせい」。そんなわけが、無いことを。
――甘やかしたから味をしめて、あんなに我が儘になってしまった。その言葉の真偽がどうであれ、今の母の姿が、逃れようのない現実だ。
男は膝の上に置いていた拳をぎゅっと握り、決意を声に滲ませて言った。
「母としての思いやりの心が欲しくて、おれはここに来ました」
「ほぅ? どうして。」
「母親らしい心を失った、自分の母の、母としての心を取り戻すためです」
少女は一瞬だけ止まった。凍りついたように。かと思えば急に吹き出し、豪快に笑った。
「はっはははは。そんなことに使うのかい。いやいや、馬鹿な使い方だ」
少女は大げさなほどに笑ってきた。彼女の白い頬に つぅ、と涙が流れる。涙を流し笑う少女に、男は立ち上がり、声をわななかせた。
「おれがどんな気持ちでここにきたのかあんたは知らないだろう。何も知らないくせして、よく人のことが笑えたもんだ」
少女は人の話も聞かず、笑い続けている。
何度も何度も涙を拭い、まるで泣いているみたいに。
――あれ……?
ああおかしい。少女がそう言って体を起こす。笑ってはいるけれど、笑ってはいるのに。
――まるで、泣いているのを誤魔化しているかのようだ。
「ちょっと、何をいつまでも見てるんだい」
赤い目をした少女が、こっちをじとりと睨む。
「お前さんがあまりに馬鹿なこと言うから、涙が出ちまったじゃないかい」
自分の悲願を笑われていたことを思い出し、男の胸に苛立ちが戻ってくる。
「おれの願いのどこが馬鹿げているって言うんだ。あんた、それが仕事じゃないのか。人の心を上書きする仕事。違うのか?」
怒りのあまり、敬語が抜けてしまう。しかし少女はそんなことには構う様子もなく、はぁ、と気怠げにため息をついた。
「勝手に決めつけるな。いるんだよねえ……。わたしが扱う雪の結晶をよく理解せずに来ちまう人間が」
そんなこと、先に自分で調べておいてくれよと少女はぶつくさ言っている。
そんなこと言われても、どう調べればいいんだ、男はその言葉を ぐっとこらえた。
「……それなら、今目の前にいるあなたが教えてくださいよ」
椅子に座って足を組んでいる少女を睨めあげる。
それを見た少女は、きょとんとした顔をした後、にやりと笑った。
「まあいい。坊やの男前に免じて、教えてやるよ。」
男前と言われたことに対して、え、と男は顔を上げた。しかしにやにやする少女の顔を見て、すぐにからかわれただけだと気付き、少し上気してた頰がさらに熱くなるのを感じた。
「お前さん、植物に愛情を注ぐと良いって話、聞いたことあるかい」
足を揃えて座り、少女のことを穴が開くほど見つめてくる男が、こっくりと頷く。
男の目が大きくて目力があるのに、何も考えていなさそうな顔。それがまるでふくろうみたいな顔だね、と、少女は思わずにいられなかった。
「そう。じゃあ話は早いね。あれは付く水にも言えることなんだ。優しい言葉をかけた水を凍らせればきれいな結晶に。逆に口汚く罵った言葉を聞かせた水を冷やしても、その水は結晶にすらなりゃしない」
少女は足を組み直し、ふんぞり返るようにして机にひじをかけた。
「原理的にはあの雪の結晶たちもそれと同じさ。きれいな心はきれいな結晶になる。汚い心は結晶にすらならずに、ぐちゃぐちゃな氷の塊にしかならない」
男が、何か言いたそうにそわそわしだしたので、少女は一度言葉を切った。
思った通り、男は好機と言わんばかりに声を上げる。
「じゃあ、やっぱり醜い心の氷もあるということですか。」
少女は、なるべく露骨に眉根を寄せた。
「くどい。無いと言っているだろう。結晶は魔法陣みたいなものなんだよ。だから、ただの丸や四角に魔法を組み込むことができないように、精巧な作りの結晶じゃないと、心を閉じ込める器にはならないってことだよ。分かったかい坊や」
さっぱり分かってないだろうけれども。
少女は男の顔を見てそう思ったものの、そこに関しては理解させるための労力を使うまでも無い情報だろう、そう思いかまわず先を続けた。
「まあ、小うるさい仕組みのことなんかどうでもいいさ。本筋はわたしの商売の話だからね。
さて、わたしの仕事は、雪の結晶を売り渡すことさ。でもやるわけじゃあない。貸すだけさ。でも、ちゃんと返してくれない奴もいてねぇ。結晶は役目を終えたら自動で帰ってくるようにもしてるけども。まったくちゃんと返しに来なってんだ」
ぶつぶつと、つい文句を垂れ流してしまう。話が逸れていたことに気付き、少女は おっと、と言って話を戻した。
「あとは、わたしの商売は確かに心の上書きかもね。初めて言われた言葉だけど、けっこう的を射た表現だね、うん」
そう言って少女は、うんうんと満足げに一人でうなずいた。
「でも何でもかんでも結晶で上書きはしない。何故なら、それ相応の犠牲が必要だからね」
「……犠牲?」
「そう。」
少女は、男を。男の肩に付く一粒の雪に目をやりながら、つらつらと流れるように何度もたくさんの人に説明した言葉を語る。
「結晶を借りて心を上書きするには、自分の心をどこか一部削らなければならない。例えば、心をコップになみなみ注がれた水に例えるとする。新しく別の水を注ぎたければ、あらかじめ入ってたコップの水を少し捨てなきゃならないだろう? そういうことだ」
男を脅すつもりで言った言葉。しかし男の異様にぎらぎらしだした目を見て、しまったと思う。
――口ぶりからすると恐らく、この男の母親の人格が何らかの原因で急に変わってしまったのだろう。恐らく老いによるものか、事故で頭をやったか。自分の記憶の中にある母親の心が、もう無くなってしまったのかと憂いている。
男が、震えを抑えながら唇を動かす。
「心を……悪い心を、捨てることもできるのですか?」
抑えようとしているのが分かる、男の希望が滲んだ顔。
男の吐息が凍り、人の心は入っていない雪の結晶が、男の顔の周りをちらちらと舞っている。
消え入りそうな輝きをまとった氷の薄片は、暗闇の洞窟に吸い込まれるように、どこかへ行ってしまった。
男が続けて言葉を吐く。
「悪い心を捨てて、他人の母親らしい心を代わりに入れることも、可能なのですか」
「……お前さんはそうまでして、自分の母親に母親らしく振舞って欲しいのかい。」
少女は、声が震えそうになった。
「残念だけど、それはできないよ。そんな都合のいいものじゃないんだ。」
そう言った途端、男の顔が泣きそうに歪んだ。少女の瞳が、まばたきをやめる。
悪い心と言ったり、母親を変えられないことに絶望したり。
――頼むから……やめてやれ!
「どうして、泣いているのですか。」
「え」
男の目が、少女の顔を捉えている。
少女は思わず声が出た。
指で自分の頬をなぞってみる。するり、という水に触れた、滑る感触。
少女の目から、ぼろぼろと雫が流れていく。
男はさっきよりもより情けない顔で、へっぴり腰で少女に歩み寄る。
少女は何も言わず、ただ人形のように表情も無く大人しく座って、大粒の涙を零していた。
どうしたんですか、何か気に障りましたか。
男が慌てながら、早口でまくし立てている。
ずいぶんと長い間、その男と見つめあっていた気がする。
「お前さん……」
少女が口を開く。
「母親をあんまり悲しませてくれるな。」
涙を流した時は驚いた。
ぽろぽろと、静かに珠のような雫を頬から転がす。
どうしたのか、と問うても少女は何も答えない。ただ、「母親をあまり悲しませるな」と不思議な言葉を吐いただけ。
少女からは人を小馬鹿にしたような笑みも、投げ出していた細い手足さえ引っ込み、真っ直ぐな目で自分をひたと見つめていた。
雪の色、銀世界に近い金色の髪が、彼女の真っ白な頬の横を流れている。
涙がきらめく薄い青の目、輝くように白く長いまつげ。
自分は場違いにも、その涙を流す少女に見とれてしまっていたのだ。
少女はしばらく泣いていた。
男は言葉をかけるでもなく、慰めるでもなく立ちすくんでいた。
声もあげず顔も覆わず、ただ虚ろな目で涙を流し続けた。
やがて滑り落ちていた涙が止まった頃、男はか細い声で言った。
「あなたにもきっと、色々あるのですね。今日は失礼しました。……また来ます」
桜色に染まったその目を、男と合わせようとしなかった少女は、それを聞いてちらりと横目で見やった。睨むように、鋭い目。泣いたからか、陶器のように白かった肌にもほんのり桜色がさしていて、人らしい命の息吹がそこに宿されたかのようだった。
「雪山を歩くのは危ない。……来るんだったら、その前の日に言いな。雪を鎮めといてやる」
男の凍ったまつ毛やら髪やらに、男の白い息がかかる。それにほんの少し毛が溶かされた頃、男はようやく理解した。
「あ、ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げ、背負っていたリュックやらつるはしやらががしゃがしゃと鳴った。
結局この日、男はここに来た本来の望みを果たすことはできなかった。
もう雪はやみ、空は薄暗い曇天に包まれている。
あの美しい空間は、静謐な氷の世界は幻だったのだろうか。男は雪山を歩きながら、そんな考えを頭の中で巡らせていた。
家に帰れば、母がまた食べ物を食い散らかしているかもしれない。泣いて怒って、暴れているかもしれない。
もう母は、息子のことすら息子だと分からなかった。
「心」を売っているらしいあの場所に行けば、母の心を元通りまでいかずとも、元の母に近い状態にできるかもしれないと、希望を抱いていた。
しかし自分の望むことはできないと、突っぱねられてしまった。
代わりに少女が言った、母親を悲しませるなという言葉が、いつまでも胸に引っかかった。
――馬鹿な。おれは母親を悲しませたいなんて思ったことはない。ただ……。
「ああなる前の母さんに、もう一度会いたかっただけだ」
目元が熱くなる。泣くもんかとこらえても、感情は涙となって溢れてくる。
"いい加減、今を認めてやれ!"
自分が吐いた本音に、少女の言葉が突き刺さる。
――そうだ、おれは……。
「今の母さんを、無意識のうちにこんなの母さんじゃないって否定してた」
心が言葉となって、涙となって溢れてくる。
だって、しょうがないじゃないか、だって。
そんな言葉が、男の喉からもれる。
その場にうずくまり、次第に言葉は嗚咽となる。
どうやったら今を認められる。そう思いながら。
――君なら一体、なんて言ってくれる?
また笑われるかもしれないけれど、自分で考えろと突き放されるかもしれないけれど。
男は振り返り、自分が今つけたばかりの足跡をなぞるように、元来た道を歩き出した。
「やだねえ」
少女は部屋の中の鏡を見て、独りごちていた。
――自分が人前で泣くなんて。
その時のことを思い浮かべ、少女は顔が熱くなるのを感じた。
「あぁ、わたしったら、全くみっともないったらありゃしないね」
くるりと身を翻し、鏡から離れる。
「坊や」
誰もいない虚空に向かって、少女は呟いた。
「お前さんは、悪い心を捨てて母親らしい心を入れることができるかと私に聞いたね」
ふっと、少女は寂しげに笑った。
「それはできないよ。憎しみに愛の代わりは果たせないように、悲しみに喜びの代わりは果たせないように。愛には愛、勇気には勇気で交換しなきゃならないんだ。母親らしい心を入れたければ、お前さんの母親は母親らしい心を捨てなければならない。それがどんなに残酷なことか、分かるかい? 母親から、昔の心……つまり、お前さんを息子として想う心が無くなっちゃうんだよ」
「あーあ、何で泣いちゃったのかね」
そう言って、自嘲気味にため息をつく。吐いた息が凍り、きらきらと輝く。
「だってあの子……母親の前で悪い心とか心を入れ替えたいとか、残酷なこと言うもんでさ」
少女が視線を落とす。
「それと、坊やがくっつけてきた『心』に感化されちゃったのかね」
少女は男の座っていた場所、そこに残る一粒の雪に向かって、膝をついた。
そして優しく語りかける。
「大丈夫。坊や……じゃなくて、お前さんの息子はお前さんを見捨てたわけじゃないよ。だから……自分を結晶にしてくれなんて言うんじゃない。確かにお前さんの家族を思う心は、結晶にする価値があるほど立派なものだ。だからこそ、まだ結晶にしちゃいけないんだよ。お前さんにはまだその家族がいるんだから。わたしがいる限り、お前さんの心は結晶で上書きさせたりしない。わたしが……お前さんの母としての心を侵されないよう守ってやる。だからほら、泣くんじゃないよ……」
洞窟には、語りかける少女の声が、小さく響いていた。
その遠くから聞こえる響きに、男は佇み、ただ、息を殺して泣いた。