第一章1 『空飛ぶクジラ』
空飛ぶ船とはこのことだ。
世界最大級の飛行船「ハウル=フォレスィング号」がドンと目の前にあった。
「大きいね! まさかこんなに大きいなんて~」
俺の隣で黄色い声を上げるこのお姉さんは、密逸美。ゆるくウェーブのかかったふわふわの栗色の髪を風に揺らせて、ウキウキとした瞳で「ハウル=フォレスィング号」を見つめている。
幼稚園児の男の子が大きな乗り物を見て興奮するみたいに目の前の飛行船に目を奪われている逸美ちゃんだけれど、彼女は現在大学一年生だ。高校二年生の俺より二つ年上で、普段はもっと落ち着いて穏やかな性格をしている。また、俺とは姉弟ではないのだけれど昔から知っている仲なので、逸美ちゃんは度々お姉ちゃんぶって世話を焼きたがるのだ。困った姉代わりなのである。
「ほら、開くん。見てよ」
俺を振り返る逸美ちゃんの視線は、俺とも変わらない。女としては背が高いほうだ。おまけに胸も大きく、淡いピンク色をしたワンピースドレスもそのシルエットがハッキリしている。見た目も穏やかな物腰も、一言で言うと近所の綺麗なお姉さんって感じだ。
俺もパーティーではあるから、高校生としてフォーマルな恰好ということで普通に制服を着てきた。
いや、それにしても。
逸美ちゃんはこんなに乗り物が好きだったかな? まあ、物知りで知的好奇心が強い逸美ちゃんのことだ、初めて見る飛行船に胸を弾ませているんだろう。
「行こう! 開くんっ」
おっとっと。
俺は逸美ちゃんに引っ張られて「ハウル=フォレスィング号」に近寄って行った。
いまはゴールデンウィーク。
五月が始まったまさにその日――つまり、五月一日だ。
青空が広がり、ふかふかの真っ白な雲が気持ちよさそうに漂っている。
この大空を飛行船で観覧するっていうのはさぞかし心地いいだろうな。これがただのレジャーであればどれだけ楽しいかと思う。
そもそも、なぜ一介の男子高校生であるところの俺と女子大生である逸美ちゃんが「ハウル=フォレスィング号」なんていう飛行船に乗るのかと言うと、俺たちが探偵と助手だからだ――招待されて赴いたのである。
俺が探偵役で、逸美ちゃんがその助手である。
しかし、我が探偵事務所には、世間から《名探偵》と呼ばれている所長がいた。
《名探偵》鳴沢千秋。
所長は《名探偵》の代名詞にあるように、他の探偵をして名探偵と言わないほどの名探偵なのだ。どんな事件も瞬く間に解決する手腕は推理小説の名探偵そのもの。その《名探偵》も別の仕事があるためこっちには来られないから、俺と逸美ちゃんがその代役として赴いたのだった。
「でも、千秋さんが来られなかったのは残念だったね」
ひとしきり「ハウル=フォレスィング号」の外観を見たあと、逸美ちゃんは言った。
「仕方ないよ。別件があるんだから」
「そうね」
逸美ちゃんは所長と親戚なので、所長のことを千秋さんと呼んでいる。しかし逸美ちゃん本人も所長とはどういう親戚関係なのは定かではないらしい。付き合いの長い俺から見ても謎の多い人だ。
「それでも、招待されたのは所長なのに、来るのが俺たちでよかったのかなって思うよ」
「ふふっ。それはしょうがないわよ。招待してくれた品森社長も、千秋さんの代わりがわたしたちでもいいって言ってくれたわけだし、ここはわたしたちが大いに楽しまないと。ね?」
「ま、それもそうだね」
「うんうん。ぼくたちで最高の思い出を作ろうぜ」
「そうだな! でも、はしゃぎすぎるなよ、凪」
「やめてよ~。あはは」
この「ハウル=フォレスィング号」に所長を招待したのは、品森グループという国内でも十本の指に入る企業グループの社長――品森轟である。なんでそんな人と所長が知り合いなのかは俺が知るところじゃないけれど。
「でさ、逸美ちゃん」
「ん?」
「招待してくれた品森社長って、どんな人?」
「ぼくのほうから説明するよ。品森社長っていうのはね、明るくて人当たりのいい人なんだよ。この飛行船だって、品森社長のプライベートジェットで、たまにこうやって何人かのゲストを招いて催し物をしたりするみたいだしね」
「へえ。よく知ってるな」
「まあ、情報屋だからね。またなにか気になることがあったら聞いてくれよ」
「うん。サンキュー」
……。
俺は足を止めて振り返った。
そしてビシッと凪を指差す。
「凪っ! なんでおまえがいるんだよ!? 招待した覚えはないぞ!」
凪は飄々と右手を挙げて、
「やっほー」
「なんだよその軽い挨拶は! ホントになんでいるんだ?」
うわぁーと俺が頭を抱えている横で、逸美ちゃんは嬉しそうに微笑む。
「凪くんもいっしょなんて嬉しいわ。開くんと仲良くしてあげてね。開くん、大親友の相棒の凪くんがいっしょでよかったわね」
「ちっともよかねーよ! こんなやつがいたら旅行もめちゃくちゃだよー」
と、俺はうなだれる。
それから俺は、ジト目で凪を見て、
「で、なんでここにいるの?」
凪のやつ、恰好もラフでとてもパーティーに招待されているとは思えない。白のパーカーは普段こいつが愛用しているものだ。幸いズボンは黒いから、ジャケットを着ればそれらしくはなるかもしれない。
金色のツインテールを揺らせて、幼さの残る顔の少女が凪の後ろからひょこっと顔を出して言った。
「すみません。《名探偵》の鳴沢さんから凪先輩の元へ直々に連絡が来たようで、あたしもいっしょにということでここに参った次第です」
「そういうこと。説明ありがとう」
「先輩がちゃんと説明しないからです」
凪のことを先輩と呼ぶこの金髪ツインテールの少女は、御涼鈴。
お嬢様学校に通う中学三年生だ。つまり俺や凪より年は二つ下になる。背は一五〇センチほどと低めで細身。青を基調にしたドレスを着て、いかにも育ちのよい清楚なお嬢様という雰囲気である。
実は、凪とこの鈴ちゃんの二人、それに俺と逸美ちゃんも少年探偵団のメンバーなのだ。他にもメンバーは二人いるが、忙しい二人だから来られなかったのだろう。
なにしろ少年探偵団のメンバーは、所長が勝手に命名して組織したチームで、必要なときだけ協力し合う、ちょっと特別なチームなのである。凪を呼んだのにも、所長の狙いがあるのかもしれない。
「そっか、鈴ちゃんもいっしょか。ならよかったよ。しかしそうならそうと、早く言ってくれたらよかったのに」
俺が言うと、凪は頭の後ろで手を組んで、
「いや~。連絡が来たのが昨日の夜十一時でさ。遅くなっちゃったし、所長さんには明日いきなり行ってサプライズで驚かせてやれって言われたんだ」
あのアホ所長が! 余計なやつを誘うばかりか余計な演出まで考えやがって。
「まあ、なったことは仕方ない。いっしょに楽しもうぜ」
「それは俺のセリフだ! もういいよ、本当に仕方ないからいっしょに行くとして、この飛行船にはいろんな人が乗るんだから人様に迷惑をかけるマネだけはするなよ?」
「わかったか?」
と、凪が鈴ちゃんに言う。
「はい。気をつけます」
鈴ちゃんが頭を下げる。
「て、おまえだよ!」
「て、先輩ですよ!」
と、俺と鈴ちゃんの声が重なった。
さて、気持ちを切り替えて、旅行を楽しもう。
「逸美ちゃん。時間は?」
「もう。開くんはすぐなんでもお姉ちゃんに聞く」
と、逸美ちゃんはふふっと嬉しそうに微笑む。
「自分でできることはしないとだよ」
お姉ちゃんぶってそう言いながらも、逸美ちゃんは腕時計で時間を確認する。
「えっと、いまは十一時の十分前。約束の時間が十一時だったから、ちょうどいい頃ね」
「外には誰もいないけど、勝手に中に入っちゃっていいのかな?」
「ダメでしょ? そんなことしたら。お姉ちゃん許しません」
「別に本気で言ってるわけじゃないよ。ていうか、誰がお姉ちゃんだよ」
「だって、わたしは開くんのお姉ちゃんだから。うふふ」
また始まった。またお姉ちゃんぶって注意してくる逸美ちゃんである。目下「わたしは開くんのお姉ちゃんだから」を自称する逸美ちゃんとは、それこそ姉弟というのが関係性として一番近いかもしれない。まったく、弟扱いもほどほどにしてもらいたいけどね。
俺と逸美ちゃんの後ろで、凪が鈴ちゃんにちょっかいを出してわちゃわちゃやってるが、気にせず入口へ歩いていく。
で。
えっと……入口はどこだろう?
俺は改めて、「ハウル=フォレスィング号」を見上げる。
まるで空飛ぶクジラだ。
イルカやクジラみたいなしなやかなフォルムだけれど、大きさや設備は、まるで動く街だと聞いている。
「これから『ハウル=フォレスィング号』は太平洋を渡って、アメリカのニューヨークまで大空を飛ぶのよ」
「楽しみだよね」
「開がどんなノリツッコミするのかぼく楽しみ~」
「ね~」
「なにを楽しみにしてんだよ」
ったく。逸美ちゃんも凪とおんなじ調子だから困る。
この三人の中で、一番若い鈴ちゃんが唯一まともな神経をしている。そんな鈴ちゃんは凪と逸美ちゃんの会話に苦笑いだ。
「逸美ちゃん。それでさ、アメリカで披露宴があるんだっけ?」
「そうよ。披露宴って言っても結婚式とかじゃなくて、なにか重大な発表があるから、そこに国内外から人を呼ぶみたい」
呼ばれるゲストも著名人や大企業の社長とかが多いから、それぞれ別々に合流するらしい――中でも予定が合った十数名がこの空の旅を共にする、と聞いている。
「それにしても遠いね~」
凪がやる気なさそうにぼやく。
「仕方ないよ」
「そうですよ。これだけ広いんですし、ちょっとは歩かないと」
逸美ちゃんがにこにこと提案する。
「みんなで歌でも歌う?」
「逸美ちゃん、それはいいよ。子供じゃないんだから」
専用の滑走路まであるし、俺たちがいまいる場所は、実はまだ機体まで五十メートルもの距離がある。
それで入口だけれど、よくよく見てみたら、入口は反対側にあるように見えた。そこで品森社長たちが待ってくれているのかもしれないな。
「逸美ちゃん、反対側に行ってみよう」
「そうね」
俺と逸美ちゃんは反対側に向かって歩き出した。
「鈴ちゃん、そしたらぼくたちはさらに反対側だ」
「それじゃここでしょ! あたしたちも行きますよ」
鈴ちゃんに腕を組まれて引きずられる凪。
俺の半歩前を歩く逸美ちゃんが、人差し指を伸ばす。
「あ、開くん。見て」
逸美ちゃんの指差す先を見る。
「ホントだ! 人がいる」
「爪伸びちゃったわ~」
ズコッと俺はこける。
「そっちかよ。ほら、逸美ちゃん。見てよ」
今度は俺が指差すと、自分の指を見ていた逸美ちゃんが顔を上げる。
「ほんとっ! あ~ん、開くんも爪伸ばしちゃって。お姉ちゃんがこのあと切ってあげるね」
「だからちがーう! 人がいるんだよ」
「え? どこどこ?」
遠くを見るように額の辺りに手をやって見みる逸美ちゃん。
「いた~」
やっと見つかったか。
「開、ぼくにも見せて」
俺の肩に手をかけて顔を出す凪を煙たい目で見る。
「やめろよ。だから普通に前を見れば目に入るから……て、俺の指の爪はいいのっ!」
俺の手を握る凪の手を振り払う。
鈴ちゃんは普通に前を見て、
「あれは男性のようですね」
搭乗口の横に、男の人が一人立っている。彼を観察する。スーツで身を固めていて、ただのサラリーマンというより、大きな企業の中でなかなかに優秀な働き盛りな三十代役員、という印象だ。手には名簿らしきモノもあるし、あの人が乗客のチェックをして、案内してくれるのかな?
俺と逸美ちゃんがスーツの人の元まで歩いて行くと――
ちょうど、階段になった搭乗口から別の人が降りてきた。