第二章11 『束の間の休憩』
203号室――浪江戸絵皆の部屋を出た俺たち。
しかも、俺がさっき呼びかけた「みんな」に含まれていないコバヤシさんとレガーナさんもついてきてしまった。
「部屋でゆっくりするほどの時間はないよね」
俺は逸美ちゃんに言ったのだが、これに答えたのは凪だった。
「そうだね、開。まあ、ちょっと話すくらいの時間はあるさ」
「どんな話をするんだ? 開さん」
「わたしたちのことよ、コバヤシ」
それはない。いや、ちょっとくらい言いたいこともあるけどさ。
「コバさん、開は相棒のぼくの話をするんだよ」
それもない。いやホント、こいつについても言いたいことは山ほどあるけどな。ていうか、凪のやついつのまにコバヤシさんのことをコバさん呼びするようになった。
「そうなのか。開さんと凪さんのような相棒の絆には憧れるものがあるな」
「そうね。わたしとコバヤシは相棒とはまた違った深い絆だものね」
「レガーナ」
「コバヤシ」
そう言って、コバヤシさんとレガーナさんは見つめ合う。
俺は振り返って言った。
「なんであなたたちもいるんですか!」
勝手に俺たちの「たち」に入るな。
「なんだ? どうかしたのか?」
「ねえコバヤシ。開さんが大きな声を出したわ」
怒ってるんだよ。声色と表情でわかるだろ! なんでいつまでも俺にくっついてくるんだ。凪ばかりかコバヤシさんとレガーナさんの相手までしなければならないと考えると、頭が痛くなる。
すると、そんな俺の肩にぽんと手を置いて逸美ちゃんが微笑む。
「いいじゃない。せっかくみんな三階なんだから」
鈴ちゃんは苦笑いしてコバヤシさんとレガーナさんを見ている。
凪はやれやれと手を広げて、
「まったく、困ったもんだね。あの二人の相手は疲れるぜ」
おまえも大概だけどな。
この凪にまで言われる迷惑人コンビはまた俺に話しかける。
「開さん。右近さんには会ったかい?」
「凪さん。杏さんには会ったかしら?」
「201号室が右近さんの部屋だ」
「202号室が杏さんの部屋なの」
「紹介するぞ」
「友達なのよ」
コバヤシさんとレガーナさんは交互に言って、さっそく目の前にある202号室のドアを開けようとしている。俺は引きつらないよう笑顔を作って、
「いまはいいです。時間ないですから行きましょう。一部屋につき三分以上はかかるとして計算すると、いまドアを開けて挨拶していたら約束の時間に間に合わなくなってしまいますよ」
すると、コバヤシさんはドアにかけた手を離した。
「聞いたか? レガーナ」
「もちろんよ。コバヤシ」
「時間を計算して推理するなんて、開さんはやっぱり頭が切れてるぞ」
「さすがは名探偵ね! わたしたちにはできない計算をやってのける」
「そこにシビれる! あこがれるゥ! まあ、平然と、が抜けてたけどね」
と、凪がコバヤシさんとレガーナさんに続けて言った。なにフォローしたよ、みたいな顔してんだこのくるくるパーマは。得意そうなのが腹立つ。そもそも俺は別に時間を逆算しただけで推理なんてしてないぞ。
「急いで部屋に戻りましょ! コバヤシ」
「そうだな、レガーナ! 計算するのだ」
……まったく。困ったやつらだ。でもまあ、言ったことは素直に聞いてくれる素直さはあるんだけどな……。そこが凪と違っていいところだ。
駆け足で俺たちの先を行ってしまったコバヤシさんとレガーナさんの姿はもう見えなくなり、階段を上る足音が聞こえてくる。
よし、やっと厄介な二人がいなくなった。
コバヤシさんとレガーナさんに遅れて俺たち四人は一旦それぞれの部屋に戻った。
俺は303号室――逸美ちゃんの部屋に行って、さっきの話をしてみることにした。
「ねえ。逸美ちゃんは理嘉有加里っていうバイオリニスト知ってる?」
逸美ちゃんは打てば響く返答をしてくれる。
「いま期待されている、新人の天才バイオリニストよ。まだ世間的にはそれほど知られていないけど、人気に火がつき始めているわ」
じゃあ、俺が知らなくても無理ないか。
「年は開くんといっしょで、今年で高校二年生。まだ現役の女子高生、それもこれがなかなか可愛いってことで、注目も集まってるのよ。今後はどんどん露出も増えていくんじゃないかな」
要は、アイドル路線みたいなものだろうか。あれだけの演奏をする人にアイドルなんて言葉は失礼なのかもわからないけど。
「でも、演奏もすごいんでしょ?」
少なくとも、俺が聴いたバイオリンの音色は色鮮やかな絵画を見るような不思議な魅力があった。
「それはね。なんていうんだろう、わたしもちょっとしか聞いたことはないんだけど、聴かせる演奏っていうより、見せる演奏って感じなの。まあ、いまの言葉も、そのまま音楽評論家の人が言っていたことなんだけど」
「見せる? 魅せる、じゃなくて?」
ニュアンスの違い――俺の言いたいことにもすぐに気づいた逸美ちゃんは、より仔細に教えてくれる。
「魅了するっていうのもそうなんだけど、音楽を見せるのよ。それが理嘉有加里がただのバイオリニストではないところだって、その評論家は言ってたわ」
見せる、ねえ……。音楽に明るいわけでもない俺には、その微妙な感覚の違いとでもいうか、その精細さがわからない。けれど、さっき少しではあるがその演奏に触れた俺には、その言葉の意味が感覚的に理解できた。
音が見えるバイオリニスト。
理嘉有加里は、確かに見せる音楽を奏でていた。
さっきの演奏の記憶は、俺にとっても音としてではなく映像として残っている。
いまになって、逸美ちゃんは疑問を呈した。
「急にそんなこと聞いて、彼女がどうかしたの?」
「実はさっき会ったんだよ。偶然」
「あら~。それはよかったわね。お友達になれた?」
「うん。きっとこのあと、演奏してくれる場があるんじゃないかな」
「わぁ。楽しみね~」
ふぁ~。俺は表情までゆるんでくる。本当に逸美ちゃんと二人だけというのがこんなに落ち着くなんて。もう食堂での食事会とかいいからずっとこの部屋にいたい。
コンコン、とドアをノックする音がする。
「誰かな?」
また凪かコバヤシさんだろうか。だったら嫌だなぁ。
逸美ちゃんはベッドから立ち上がって、「はーい」とドアを開ける。俺はベッドに腰を下ろしたままドアのほうを見る。
「すみません」
なんだ、鈴ちゃんか。
「あら? どうしたの?」
「いまからあたしと先輩はお先に食堂に行ってますね。先輩、早く行きたくて仕方ないみたいなので」
子供かよ。まあ、先に行っててくれるのは助かる。
「わかったわ。わたしと開くんもこのあと行くわね」
「はい。では」
ペコリと頭を下げると、鈴ちゃんは「先輩、待ってくださーい」と走り出した。
ドアが閉まって、俺は逸美ちゃんに聞く。
「ところでさ。逸美ちゃん」
「なあに? 開くん」
「そろそろ行く時間だよ」
「いや~ん。ズコー」と口に出して逸美ちゃんがわざとらしくこける。
この天然お姉さんは、俺がボケたと思っているらしい。
「逸美ちゃん、無理してリアクションしなくて大丈夫だから」
「もう、開くんったら。それじゃあ、凪くんと鈴ちゃんといっしょに行けたじゃない。たまーに冗談言ってお茶目なんだから~。うふふ」
まあ、凪といっしょだと面倒だと思っただけなんだけど。
しかして、俺と逸美ちゃんは303号室を出て、食堂へと向かった。