第二章8 『同い年のバイオリニスト』
音楽が聴こえた。
俺も聴いたことのある曲で、でも曲名はわからないクラシック。
それを奏でているのは、ひとつの楽器――バイオリンだった。
通路を道なりに歩いていると、その音楽を演奏する場所へ近づいていっているのがわかった。そう遠くはなさそうだけれど、防音室になっているのか、音楽はかすかにしか聴こえてこない。
ここら辺じゃないか、と思ったとき、俺はガラス張りになっているスタジオを発見した。本格的な録音スタジオみたいで、ミキサーなんかが置いてあるコントロール・ルームもちゃんと隣にあった。けれど、コントロール・ルームには誰もいない。
いるのは、ブースにひとりだけだ。
そこには――
バイオリンを奏でている少女がいた。
彼女は誰だろう。
年は俺と同じくらいだと思う。品森社長が言っていた俺と同い年の女の子って、彼女のことだろうか。小学生の女の子がピアノの発表会に着るような正装をしていて、赤いリボンがオレンジ色の衣装に合っている。髪は毛先が肩にかかるくらいのショートヘアで、左側だけ髪をまとめてワンサイドアップになっている。
普段なら面倒事は避けたい性分だから何事もなく通り過ぎるところだけれど、そうできなかった。
足が釘付けになる。
目も釘付けになる。
彼女の音楽には、なにかを見せる力があるように思った。
つい、もっとその演奏をじかに聴きたくなって、気づいたら俺は、ブースのドアを開けていた。
演奏が止む。
彼女は振り返った。
「あ、ごめん。邪魔しちゃったね」
ひとまず軽く笑顔を作って、彼女の反応を見る。
彼女は二コリと微笑んで、首を横に振った。
「ううん。邪魔じゃないんじゃないかな」
「俺、ちょうどここ通りかかってさ、音楽が聴こえるから、気になって」
「そうなんだ。で。どうだったかな? かな? あたしの音楽は。あたしの世界は」
世界だなんて、大袈裟な言い方をする子だな。
「すごくよかったよ。いままでに聴いたことない感覚だった。見たことない音楽って感じなのかな」
聴くだけじゃなく、見るような特殊さを音が持っているように思った。
「それはよかったよぉ。同年代の子に言われると照れちゃうかなっ」
バイオリニストの少女はおどけたように言った。
俺はここで、改めて挨拶をする。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。俺は明智開。よろしく」
少女はニコリと微笑みを携えたまま俺の元まで歩み寄り、まっすぐに俺の目を見て、
「開くんっ。よろしくね」
と、人懐っこいと思わせるほど明るい笑顔でそう言った。それから、少女はまばたきで大きなヘーゼルブラウンの瞳をぱちくりさせ、思い出したように言った。
「あ、まだ名乗ってなかったかな。あたしは、理嘉有加里だよ。有加里ちゃんって呼べばいいんじゃないかな? かな? ちなみに、いま高二だよ」
理嘉有加里。
同い年の少女。髪はワンサイドアップで、明るい笑顔が似合い、子犬のような愛嬌たっぷりの大きな瞳は、まばたきするたびにパチパチ音がしそうなほど。華があるというほどでもないけれど、十分可愛いに分類できるだろう。
「実は俺も高二なんだ」
そう言うと、有加里ちゃんはうれしそうに目をパチパチさせて、またまたおどけたように大仰に驚いて見せた。
「そうだったんだぁ。一つ下くらいかと思っちゃったかな」
「……」
ま、まあ、若干だけど実年齢より下に見られるのは慣れている。気にするな、俺。
「有加里ちゃんは、バイオリニストなんだ?」
気を取り直して確認も込めて聞いてみると、有加里ちゃんは子供っぽく自分を指さして、
「あたしかな? うん、そうだよっ。あたしはバイオリニストなの。まだあんまり有名じゃないから、開くんは知らないかな?」
正直ちょっとわからないな。
「ごめん。名前くらいは聞いたことあったかもしれないけど、俺そんなに記憶力ないからよく覚えてないな」
「ううんっ。開くんは気にしないでいいんじゃないかな? あたしがまだまだなだけだし。でねでね、あたしは、余興として演奏するために、この船に呼ばれたの」
「じゃあ、また有加里ちゃんの演奏見られるんだ」
「じゃないかなっ」
「楽しみだな」
「ふふっ」
といたずらっぽい笑みを浮かべて、
「でもでも、そう言われたらがんばらなきゃって感じかな。この船の中でも演奏する予定になってるから、楽しみにしてるといいんじゃないかな?」
「期待してる」
「うんっ」
この子は、期待を寄せても気負わないタイプらしい。その笑顔には余裕さえ感じられた。今度はあたしの番だと言わんばかりに有加里ちゃんは俺の瞳を覗き込む。
「ところでところで。開くんはどうしてこの船にいるのかな?」
ああ。そういやまだ言ってなかったな。
「俺は、《名探偵》の代理として呼ばれたんだよ。ただのゲスト。だから、有加里ちゃんみたいになにかできることなんてないけどね」
有加里ちゃんは大きな瞳をさらに見開き、
「うわうわ。あの《名探偵》の弟子とかなのかな?」
「ええっと、そうなるかな」
「すっごいね! あたし《名探偵》のことは噂でちょっと聞いただけだからあんまり知らないんだけど、代理ってことはその《名探偵》って今日来てないのかな?」
「今日は来てないんだよ。先にニューヨークに行ってるからさ」
「そっかぁ。ちょっと残念かな。スーパーモデルみたいな完璧なルックスって聞いたことあったから、見てみたかったんだけどなぁ」
「まあ、向こうで会えるよ。ニューヨークで待ってるんだし」
「それもそうかな」
有加里ちゃんはキラリと瞳を光らせて、無邪気な笑みを浮かべて訊いてきた。
「開くんも探偵なんでしょ? ねえねえ、普段はどんなことしてるのかな? 推理とかしちゃうのかな? 犯人はお前だ! とか言っちゃうのかな? かな?」
「言わないよ。実際さ、そんな状況ってあんまりないんだよ。そういうことするなら、所長だね」
「所長ってその《名探偵》だ?」
「そ。俺は所長の手伝いとか、今日みたいに代理とか」
「ふぅん。そっかそっかぁ」
おもしろい話があれば聞かせてやってもいいんだけれど、あいにく俺にはそんなミステリ小説的な体験はほとんどない。
「もしなにかおもしろい話思い出したら、そのときは教えるよ」
「約束ね」
わざとらしいウインクを作る有加里ちゃんである。
「でも、ここってモノがあんまりないんだね」
「うん。ブースに付属の楽器はないって、藤堂さんが言ってたんじゃないかな。まあ、あたしは自分のバイオリンを使うし、そうじゃなくても、楽器って自分のモノじゃないとって思うかな」
「合う合わないとか、馴染んでるとか、そういうの?」
「まあ、そんな感じかな。だから、このブースには椅子しかないんだよ」
そう言われて視線を椅子へ向ける。足が三本の黒い椅子だ。
「アント・チェア、だっけ」
「え? あの椅子、そういう名前なのかな?」
「前に、人に聞いたことがあってさ。形が蟻に似ているから、アントって言うんだよ」
「へえ。蟻かぁ。言われてみれば似てるねっ。開くんは探偵だけあって、物知りなんじゃないかな」
「そんなことないよ」
本当は、前に逸美ちゃんが言っていたのをたまたま覚えていただけだ。
さて。
なんとなくここは会話の切りもいい空気があるし、そろそろお暇させてもらおうかな。逸美ちゃんも待っていることだろうし。
俺はほんの少し身体の向きを変え、切り上げる雰囲気を出す。
「有加里ちゃん。演奏楽しみにしてるね」
「うんっ」
「それじゃ。俺は部屋に戻るよ」
「はーい。それじゃあまたね」
またね、と俺はきびすを返す。その背中に声がかかる。
「あ。ねえ開くん。あたしたち、ハウルにいる人間の中では、唯一の同い年なんじゃないかな?」
「ああ、そうだね」
「だから。仲良くしようね?」
「うん。見かけたら声かけてよ。じゃあまたね」
ドアを開けて俺はブースを出て行った。
あ、違った。有加里ちゃんは聞いてないかもだけど、このハウルには凪がいた。同い年なのは凪もだったか。まあ、どうでもいいや。
「しかしバイオリニストか」
クラシックなんかもあんまり聞かないし、音楽自体に疎い俺だけれど、プロの生の演奏っていうのはすごく楽しみだ。
俺は通路を進みながら、そんなことを考えていた。