第二章7 『起こってもない事件の依頼』
ラウンジへの道はさすがの俺も覚えていて、道に迷うことはなかった。
誰もいない静謐のラウンジ。
この広いラウンジを貸し切っているような凛然とした藤堂高菜の立ち姿を見ると、これから聞かされる話がシリアスでなにかとても重要なことのように思える。
俺を背にして見晴らしのよさそうな窓を見ていた高菜さんは、俺の到着と共に振り返った。長い髪がサラリと揺れる。
「開くん。やっときたか」
いまから来てほしいと言われたら、すぐに行くさ。
「ぼくたち、ずっと待ってたんだぜ?」
「まあ、そう言ってやるな。時間にしてせいぜい三分ってところだ」
「そう言われると早い方か」
「だな」と高菜さんがうなずく。
ここまで高菜さんが話していた相手は凪である。
俺は二人を見て、苦笑いを浮かべる。
「あの。それで、なんで二人がいっしょにいるの?」
「二人? なにを言ってるんだ」
そう言って、高菜さんは横を見回す。ぐるりと一周するまでもなく、高菜さんの右隣にはちゃっかり凪がいた。俺は呼んでもないしバレずにここに来たのに。
「い、い、いつの間に!?」
高菜さんが遅れてたじろぐ。いや、この人気付いてなかったのかよ。目が「なんで柳屋凪がここにいるんだ」と訴えている。しかも俺のことを睨んでるし。俺も、別に連れてきたわけじゃないって、と目線で返す。
凪はひょいと手を挙げた。
「やあ。また二人だけで密会だなんて怪しいぞ~。ぼくも混ぜてよ」
「おまえの情報網はどうなってんだよ」
ゴホン、と高菜さんは咳払いして落ち着いた素振りを見せ、
「凪さん。わたしは開くんに大事なお話があります。席を外してくれませんか」
「お構いなく~」
「構いますっ。わたしは、その、探偵である開さんにだけ、ちょっと聞いて欲しいお話があるんです。プライバシーの問題もあるので他の方には聞かれたくないんですよ」
「ぼくと開は一心同体。気にすることないさ」
「いえ。そうはいきません」
「なんでさ?」
「ええとですね……。そう。申し上げにくいんですが、わたしと開さんはみっともなくて恥ずかしくてとてもじゃないけど人には見せられないような特殊なジェスチャーを使って会話をするので、開さんは大親友である凪さんにかっこ悪いところは見せたくないんです。彼の気持ちを察してあげてください」
「ぼくは引いたりしないよ」
「そういう問題ではありません。開さんの見栄っ張りな性格を知ってる凪さんなら、一番醜いところは見せたくないという開さんの心がわかるでしょう?」
「うーむ。それなら仕方ないか。じゃあ開、ぼくは先に絵皆ちゃんの部屋に戻ってるよ」
「ご理解いただき感謝します」
高菜さんは、手を振る凪を見送る。
凪はいなくなった。
俺は高菜さんに向き直って、
「なんで変なこと言ってんですか! どんなジェスチャーだよっ! 言い訳下手か」
「気にするな」
「気にするよ! だって絶対おかしいもん」
はあ。俺はため息をつく。高菜さんって意外に天然かもしれないし、これ以上言うのはよそう。
閑話休題。
「で。高菜さん。質問させてもらっていいですか?」
高菜さんはクールに腕を組んだままうなずく。
「構わない。言ってみろ」
「質問は三つ。まず、どうして俺の連絡先を知ってるんですか?」
「教えてもらったからだ。誰から教えられたのかは、言えない」
なるほど。
いまの一言だけでもわかることがある――たとえば、教えられた、という言い回しから、俺に接触することを誰かに命じられている可能性が高い、ということ。また、そいつは俺ないしここにはいない《名探偵》鳴沢千秋を知っている、ということだ。
俺はポケットに手を入れたまま続ける。
「二つ目。ここに呼び出した理由は?」
「情報提供だ。言える範囲で、キミが今後、この飛行船で出会うことになる人間の情報を教えよう。だからわざわざ呼んだわけだ」
言える範囲、か。つまりまだ言うべきじゃない情報や秘匿されるべき情報はあるが、俺が知るべき情報がある――それは、今後俺が謎解きする状況に陥ったとき、必要になる、ってところか。
「わかりました。でもその前に。三つ目の質問」
これが結構大事。
「なんだ?」
「どうしてコバヤシさんとレガーナさんが来たとき逃げたんですかっ! おかげで精神的に疲れてくったくたですよ! こっちには凪までいるんですよ? ちょっとは気を遣ってくれないと」
高菜さんは嘆息した。
「わたしはああいうタイプは苦手でな。気持ちのよい連中には思うんだが、どうもついていけない」
わかる。俺もだ。いや、特に高菜さんはそうだろうな。まあそれはいいとして、言いたかったことも言えたし、その情報提供とやらを聞かせてもらおうじゃないか。
「それで、高菜さん。その情報って?」
高菜さんは窓の外を見ながら言う。
「別にたいしたことではない。キミが出会ったあの二人組は少々特殊だ。振り回されることになるだろう。キミは彼らをどう思う?」
「おもしろい人たちですよ。俺が見てきた中でも、一番おかしな人たちです」
「そうか。わたしも同意見だ。まあ、柳屋凪はそれと同等だが」
「まあ、それは俺も同意です。凪もおかしいし」
「そうだ。柳屋凪、あいつはやはり相当のジョーカーのようだ。彼は一体何者なのだ。開くんがここに来ることを知っていたのか、もしくはわたしがいることを知っていたのか。底知れない恐ろしさを持ったテロリストだ」
「いや、だからテロリストじゃ……」
ダメだ、やっぱり聞いてない。
「おっと、そうだった。柳屋凪の話はいい。わたしはやつの話をしに来たのではない。この飛行船の中で、他にキミが会った人間はいるか?」
そうなると、やはりさっきの彼女、マジシャン浪江戸絵皆だろう。
「浪江戸絵皆。マジシャンです」
「彼女か。そうだな。浪江戸は品森が呼んだ余興の一人だ。ニューヨークで披露宴があることは知っているな?」
「ええ。なにか重大なお知らせがあるとか」
「そうだ。だが、ただお知らせだけするわけじゃない。形式的にはパーティーだからな。余興が必要なんだ」
俺は軽い調子で相槌を打つ。
「コバヤシさんとレガーナさんが呼ばれた理由よりは察しがつきますね」
「あれはなぜか品森と親しい人間でな」
誰とでも親しくなれそうだからな、あの二人は。
あと、他に聞いておきたい人っていうと。
「ちなみに、品森社長について、俺に言うことはありますか?」
品森社長については予想外だったのか、一瞬考えてから、
「そうだな。いい質問だ」
いい質問?
「品森はおそらく、今度の披露宴で引退することになるだろう。年も年だしな。詳しくは品森本人からは聞いていないが」
「そうなんですか」
「わかってると思うが、口外はするな」
「わかってますよ」
あと他に聞いておくことは、あったかな。
「そういえば高菜さん。この飛行船には、他にどんな人が乗ってるんですか?」
「会えばわかる」
そうか。わざわざ呼び出して情報提供する割に、こういうところは適当というかなんというか。一度会った人間じゃないと、共通認識がなくて話しにくいほどの人たちってことなのかな。
いやはや。
コバヤシさんやレガーナさんみたいに変な連中が他にはいないことを願うばかりだ。そんなことを深く息を吐きながら考えていると、高菜さんがくるりと背を向けた。
「わたしからは以上だ。なにかあったら、さっきメールを送った先に返信しろ」
「わかりました」
「くれぐれも、柳屋凪にだけはバレることなく隠密に行動してくれ」
やっぱりそこは注意点として挙げるんだな。あはは、と内心で苦笑する。
「え、ええ。了解です」
「じゃあな」
高菜さんは颯爽と長い髪をなびかせて歩き去った。やっぱり背が高くて髪が長くてキレイで、カッコイイ人だ。逸美ちゃんや絵皆さんとはまた違ったお姉さんだ。謎は多いし凪に振り回されているところが可愛くもあり滑稽でもあるけれど。
さて。
俺は俺でこうなったらすることもないし、逸美ちゃんの待つ絵皆さんの部屋に戻るとするか。いや、その前にトイレにでも寄っていこう。さっきはコバヤシさんに案内されてトイレまで連れて行かれたけれど、実際はコバヤシさんとレガーナさんから離れるための口実にトイレって言い出しただけで本当に行きたかったわけじゃないから、トイレでは鏡を見て身だしなみをチェックしただけだった。
「この近くにもトイレぐらいあるだろ」
203号室の絵皆さんの個室からラウンジまでは、来る最中にトイレは見なかった。だから俺は、少し遠回りして帰ることにした。
するとすぐにトイレは見つかった。
また出るときに身だしなみをチェック。髪は乱れてないし、シャツの襟もめくれてない、ネクタイも曲がってない。
問題ない――通路に出る。