8 乙女の入浴
――しかしその時、実はオリーヴは眠ってはいなかった。
絨毯洗いは力仕事で、身体はすっかり疲れている。しかし、寝台で仰向けに横たわった彼女は、眠ることができないでいたのだ。
(頭が重い……目の周りが強張ってる感じがする)
彼女は寝返りを打ち、そして今朝の事を思い出す。
クリーチィに連れて行ってもらった厨房で、老女エドラは快く、小麦粉と灰をオリーヴに分けてくれた。
そのとき、彼女は気づいたのだ。
小麦粉の袋に、フォッティニア軍の印がついていることに。
オリーヴは愕然とした。
(これは、フォッティニア軍を襲って奪ってきた小麦粉なの!?)
ということは、昨夜オリーヴが楽しんで食べた豪華な食事も、材料はフォッティニアから奪ってきたものだったと考えられる。保存食のようだと思った塩味の焼き菓子も、本当に軍の保存食だったのかもしれない。そうとは知らないエドラが、見た目でパンかお菓子だと勘違いし、夕食に添えたのだろう。
バルジオーザを始めとするイドラーバの者たちは、おそらくフォッティニアの、物資を運ぶ部隊を襲ったのだ。戦いになり、何人も死んだかもしれない。
そう考えると、彼女はもう、食事ができなくなってしまったのだ。
今も空腹を覚えているが、中庭に置いてある食事を食べようかと考えると、胸がムカムカしてしまう。
少し前にオリーヴは、バルジオーザの服はどこから調達してくるのかと不思議に思った。フォッティニアと同様だと考えていいのだろうか、と。
(でも、そういう布類も、もしかしたら全部フォッティニアから奪って……)
はるか昔、イドラーバのずっと東にある黒枯の森と呼ばれるところから、イドラーバの民はやってきたと伝えられている。森には異形の者たちが暮らしており、その中で争いが起こって森を離れた一部の者たちが、イドラーバに住み着いたのだそうだ。
イドラーバの国土の大部分は荒れた土地で、畑作や酪農がおこなわれているのは一部の場所だけだという話は、オリーヴも聞いていた。しかし、その程度でも国が存続していた理由が、角のある民が食料を必要としないからだったということは、この城に来て初めて知った。彼らは王が生み出す力で生きられるため、角が小さかったり、なかったりする民の分だけ食料が確保できれば良かったのだ。
(でも、魔族はフォッティニアの食料を奪ってる。小麦粉の袋がその証拠。なぜ?)
オリーヴは考えを巡らせる。
フォッティニアの食べ物が豊かで美味しいから、奪うのだろうか。エドラの話では、角のある民にとって食べ物は嗜好品のようなものらしい。どこそこ産の葡萄酒は美味しいから、程度の感覚で、フォッティニアから奪っているのかもしれない。それを、彼女にも与えた。
問題は、食べ物のことだけではない。
角のある民は、王の力を吸収して生きている。その力は、王がフォッティニアに戦いに行くことで満足して、生み出される。
オリーヴの故郷、フォッティニアを犠牲にして、イドラーバの民は暮らしているのだ。そして、同胞の血と涙を吸った食べ物を、彼女は喜んで食べたことになる。
オリーヴは強く目を閉じ、身体を丸めた。
(何てひどい、裏切り……)
彼女は、東部軍の金髪軍人を思い浮かべる。もう顔もおぼろげだったが、心の中で「何やってるのよ、早く助けに来なさいよっ、ばか!」となじった。
しかし、軍人たちもおそらく、イドラーバの空気に慣れなければ城には入って来られないだろう。それとも、フォッティニア軍はイドラーバ遠征の時、そういったことも対策して行動したのだろうか。
考えたところで答えの出ない疑問が、頭の中でぐるぐると渦巻き、オリーヴはその気持ち悪さに耐えていた。
──いつの間にか眠りに引き込まれていたオリーヴは、ノックの音で目を覚ました。朝が来たようだ。
「……はい」
彼女が返事をすると、クリーチィが入ってきて、ちょん、とお辞儀をした。そして中庭に出ていき、手をつけていない夕食の盆を下げていく。
続いてクリーチィは、朝食の盆を持ってきた。寝台に置いて、オリーヴの様子を窺うように見る。
彼女は、首を横に振った。
クリーチィは少しの間、首を傾げていた。
やがて、いったん扉の所まで戻ると、振り向いた。オリーヴにちょいちょい、と手招きをする。
「何?」
厨房に行った時のように、またどこかに連れて行こうというのだろうか。
そう考えてためらうオリーヴを、クリーチィはつぶらな瞳でじっと待っている。
(……何か、魔王に命令されているのかもしれない。あたしに言うことを聞かせられなかったら、罰せられるのかな)
彼女は小さくため息をつくと、寝台を下りてクリーチィに歩み寄った。
「どこだかわからないけど、行くわ」
クリーチィの後に続いてしばらく歩くと、廊下の突き当たりに大きな扉が現れた。前にはここに扉などなかったが、そんなことにはもういちいち驚かなくなっているオリーヴである。
ただ、彼女はその扉を興味深く見つめた。
石の扉は薄紅色で、固そうであるのに色合いは柔らかで、とても美しい。王族や貴族の屋敷に使われている「大理石」かもしれない、と予想しながら、オリーヴはしばし扉に見とれる。
クリーチィは重そうなその扉をグッと押し、両開きのそれをどうにか片方開いて、オリーヴの方を向くと小さく鳴いた。彼女が中を覗くと、作りつけの棚だけがある小部屋があり、ザアア……と水が流れ落ちる音がしている。奥の、もう一枚の扉の向こうから聞こえてくるらしい。
クリーチィが手で促すのを見て、オリーヴは奥に進み、扉を自分で開けた。
中は一面、扉と同じ薄紅色の石でできた、浴場だった。家一軒ほどの広さのある湯の泉は、中央に行くほど階段状に深くなっているのがゆらゆらと見える。奥には岩の壁が作られ、そこから豊かに湯が流れ落ちていた。
「……すごい」
オリーヴは思わず声を上げた。浴場というものを初めて見たのだ。ガーヌの町では、各家で湯を沸かしてタライに入れ、行水するのが普通だった。
身体を包み込んでくる湯気と、なみなみと贅沢に満ちた湯に度肝を抜かれながら、オリーヴは靴を脱いで足を踏み出してみた。床にあふれ出した湯が、素足を温める。
浴場に行ってみたいと、子どもの頃に憧れていたことを思い出す。大人になるにつれて身の程を知り、そんなことは思いもしなくなってしまっていた。
くいっ、と引っ張られる感覚があって振り向くと、クリーチィがオリーヴのエプロンの紐をほどいてスルリと取り去っていた。続いて、彼女の服の背中側のボタンを、背伸びして外そうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ、お湯に入れってこと?」
オリーヴはあわてた。クリーチィは「チィ」と鳴き、作業を再開しようとする。
そのとき、彼女はあることに気づいて、ゾッとして口をつぐんだ。
(もしかして、魔王が、クリーチィに命令したの? あたしを入浴させて、身体を綺麗にしろ、って)
それは、オリーヴを慰みものにする下準備ではないか――来るべき時が来たのだ、と、オリーヴは動けなくなってしまった。
今まで、バルジオーザは人間風情になど近寄りたくないがために、オリーヴに手を出さずに遠巻きにしているのだと思っていた。エドラの話では、五番目に女が好きということだったが、それは彼の同胞であるイドラーバの女のことだろう、と。
しかし、バルジオーザはオリーヴをわざわざさらい、『花嫁』と呼んで好待遇で軟禁している。
(たまに様子も見に来るし……なぜかあたしを気にしてるのよね)
実際はたまにではなく、ほとんどいつも覗いているのだが、幸いにもオリーヴはそれを知らない。
いずれにせよ、オリーヴがバルジオーザの意に沿わない態度をとれば、彼女に飽きて殺し、フォッティニアに戦いに行ってしまうかもしれない。オリーヴとしては、それは避けたかった。
彼の命令を聞き、入浴しろというならしなければならない。
オリーヴは、覚悟を決めた。自分から首の後ろのボタンを外し、屈んでワンピースの裾をつかみ、一気に頭から脱ぐ。
(これからどうなるか、わからないなら)
オリーヴは、白くけむる浴場を眺め渡した。
(せめて、この夢のような場所を、楽しんでおこう……)
いきなり後ろの方から、ブホッ、という低い音がした。
オリーヴが下着姿でパッと振り向くと、クリーチィが彼女の脱いだ服を持ったまま、扉の外をのぞいて「チィチィ!」と鳴いている。
「な、何? 誰かいるの?」
無意識に胸を隠して聞くと、クリーチィはオリーヴを見て「チィ? チィチィ!」と否定するように両手を振った。
「……違うの……?」
オリーヴは首を傾げたものの、下着を脱いで棚の上の濡れない場所に置いた。そして、あふれる湯に近づく。
クリーチィは彼女を見送ると、素早く外に出て扉を閉めた。