5 花嫁の匂いに包まれて
――その頃、バルジオーザは城の廊下を早足で歩いていた。
城に満ちた彼の力を調整し、廊下を繋げる。目指しているのは、城の厨房だ。
イドラーバの城で暮らしているのは、彼とその配下およそ五十数名である。配下は基本、王であるバルジオーザの力を吸収して生きているので、人間のような食事をとる必要はない。
しかし、必要のためではなく純粋に楽しみのために食べることはあり、また角の小さな者は力の吸収が少ないため、食べ物からも力を得なくてはならない。角のない者はもちろんのことである。
そのため、角の小さな者やない者たちはそれなりに農業を営み、狩猟・採集も行って一部を城に納めている。それらを調理する料理番もいた。
「花嫁様、さかな、食べられた? よかったですぅ」
しわくちゃの顔で笑い、片言で話すのは、料理番の老女エドラ。
彼女は、珍しい「混血」――つまり、イドラーバの民とフォッティニアの民の混血である。フォッティニアではそのような存在は忌み嫌われるため、彼女にはイドラーバで暮らす以外の選択肢はなかったのだが、料理番としての毎日を楽しんでいた。
「急に、フォッティニア人の食事を用意しなさい、言うから、国境の川で魚を釣って、あとパンしか作れなかったよぅ。倉庫の食べ物、傷んでる。いっぱい捨てました」
エドラは困り顔を見せた。フォッティニア人のオリーヴに、突然イドラーバの食べ物を食べさせるわけには行かないので、バルジオーザがそう命じたのだ。
「そうか。フォッティニアの食材は、皆それほど好まないからな」
バルジオーザは鼻を鳴らし、そしてニヤリと笑ってみせる。
「待っていろ、すぐにオリーヴの分を奪ってくる」
わざと軍用の食料の馬車を襲い、戦いに持ち込むのは、彼がたまにやる遊びのひとつだった。そのついでに食料の一部を奪っては来るのだが、イドラーバの民は自国の食材の方を好むので、消費されないまま腐らせることも多かった。
エドラはにっこり笑う。
「王様、最近、あまり戦いに行ってなかったですもんネー」
そしてふと、瞳孔が縦になった目を見張った。
「あ、今日、王様ここ来るの珍しい!」
確かに今までは、用があればバルジオーザの方から呼びつけていた。わざわざこの厨房──エドラの住処にもなっている──に彼が足を運ぶことなど、普段はない。
「他に用があった。ついでだ」
彼は身を翻すと、厨房から外廊下を通って裏庭に降りた。
イドラーバは元々は他国の領地で、城にも人間の領主が住んでいたが、打ち捨てられて久しい。イドラーバの民が住み着き、徐々に代々の王の力が籠もって、イドラーバの民にとって心地のいい空間になった。
そんなわけで裏庭には、人間が住んでいた頃の名残で洗濯小屋がある。イドラーバの民は、使用する布類のほとんどは汚れ朽ち果てるに任せ、新しいものに換えてしまうだけなので、この場所はたまに使用人が使う程度だった。
しかし、オリーヴが、このような場所が欲しいという。
(花嫁の望みだ、応えてやらねばならないな)
バルジオーザは石造りの小屋の入り口に立つと、両手を扉の枠にかけた。目を閉じ、力を込める。
小屋の空間がたわむ。裏庭の空気が遠くなり、逆にオリーヴのいる部屋の空気が近づく。
やがて、オリーヴの部屋と小屋が、扉でつながった。
「そうだ、井戸もいる」
バルジオーザは外にある井戸も、オリーヴの部屋のすぐ外に繋げた。
「これで良い。いや、待てよ」
彼は天井に細工をして、フォッティニアの青空が見えるようにした。空気もフォッティニアのものに調整する。
「青空の元、壁に囲まれた洗濯場。オリーヴの家の裏庭……我とオリーヴの、出会いの場所のようだ。ふっ……」
バルジオーザは前髪をかきあげると、振り向いた。
エドラがじーっと彼を見ており、首を傾げた。
「王様、ご機嫌?」
「うるさい」
言いながらも、バルジオーザは機嫌良くその場を後にして城に入った。後は、オリーヴのために食材を調達せねばならない。
「ここに必要な細かいものは配下に用意させて、我が戻ったら最終確認だな。そして、そう……我の服も洗うと言っていた。出発する前に置いておくことにしよう」
ふふ……と彼が低く笑っていると、城の天井にいたコウモリたちが、なぜかあわてたように飛び立ち逃げていった。
一方、うたたねをしていたオリーヴは目を覚まし、寝返りを打った。
「あーもう……こんなにダラダラしてたら人間ダメになりそ」
言いかけて、ハッとして起き上がる。
彼女の部屋には元々、廊下に通じる扉があるのだが、寝台の横にもう一つの扉が出現していたのだ。
「いつの間に……?」
寝台から降りたオリーヴは、しばらくその木の扉の前に立って逡巡していたが、やがて恐る恐る手を伸ばし、扉を開けた。
そこは、石壁に囲まれた中庭のような空間だった。彼女の立っている戸口の上には屋根があり、その屋根は石壁に沿って横に伸びていて、屋根の下にかまどや薪置き場がある。
屋根をくぐって庭に出ると、真ん中には石づくりの井戸があり、他にも物干し竿にタライ、木製の作業台などが置かれていた。これだけあれば、洗濯も染み抜きもできそうだ。
見上げると、天井は部屋の中と同様に青空である。やはり偽物の空のようで、そこは本当の中庭ではないらしかったが、空気は澄んでいた。
「これって、あたしの希望通り……」
中庭の中央でぐるりと見回し、様子を確かめたオリーヴが振り向くと──
彼女が出てきた扉が半開きになっていて、バルジオーザの顔がのぞいていた。低い声が響く。
「どうだ、お前の望み通りにしてやったぞ。自分がどれだけ恵まれているかわかったら、これ以上の欲をかかずにおとなしくしていることだな!」
彼はビシッと指をオリーヴに突きつけると、すーっ、と頭を引っ込めた。扉が閉まる。
心の中で三つ数えてから、オリーヴは扉に近寄って、静かに開いた。
左手、廊下に通じる扉が、ちょうど閉まるのが見えた。魔王は出て行ったらしい。
オリーヴはしばらくの間、そこで立ち尽くしていたが、事態が変わるたびに考え込んでいたところでどうしようもない。
「……うん……まあ……深くは考えないようにしよう」
彼女は寝台の横から布カバンを取り、中庭に戻った。染み抜きに使う材料を出しておこうと、作業台に近づく。
作業台には、白い布が置いてあった。何気なく手に取り、広げて、オリーヴは「えっ」と顔をしかめた。
「……やっぱりこれ、あたしが洗うんですか……」
それは、バルジオーザの血のついた白いシャツだった。
フォッティニアでの「用事」を済ませ、城に戻ってきたバルジオーザは、自室に戻って眠っていた。彼ももちろん、多少は疲れることもあるのだ。
目覚めてみると、夕方になっていた。
「何たることだ、オリーヴを遠くから愛でる時間を、ずいぶん無駄にしてしまった。食事はしっかり取っただろうか」
バルジオーザは急いでオリーヴの部屋に向かう。扉を細く開け、中を覗き込むと、寝台に彼女が横になっているのが目に入った。枕に頭を載せるのではなく、寝台に対して横方向に身体を横たえ、足は膝から下が降りている。疲れてしまい、ちょっと横になって……といった風情だ。
バルジオーザは静かに、オリーヴに近づいた。
洗濯をしていたのか、美しい黒髪は結い上げてある。横顔、後れ毛のかかる白いうなじ。まくり上げた袖から、すらりとした腕。眠っている間に落ちたのか、片方の靴が脱げて、小さな指が見えていた。
(美しい……まるで、絵画のようだ……)
彼が見とれていると、ぴくり、とオリーヴの瞼が動いた。
バルジオーザはサッと身を翻し、扉の向こうへ退避した。そして改めて、部屋の中に顔だけ突き出す。
「ん、おっと、寝ちゃった……あ」
オリーヴが身を起こしながら、彼に気づいた。やや表情が硬くなる。
「何か、御用……?」
「どうしようと、我の勝手だ。ここは我の城なのだからな」
バルジオーザは凄んでみせる。
(お前のことも、どうにでもできるのだぞ……寝顔を見つめることも、遠くから愛でることもな!)
オリーヴはそれには答えず、急に立ち上がると、
「そうだ、アレ」
とつぶやくなり小屋の方の扉を開けて出て行った。
(何だ。どうしたのだ)
彼も小屋の方の扉に行くべきか迷っていると、オリーヴはすぐに戻ってきた。
手に、白いものを持っている。バルジオーザのシャツである。
「血の汚れ、落ちました」
寝台の上で手早くたたむと、オリーヴは彼に向き直って少しためらう様子を見せてから、ゆっくり近づいてきた。バルジオーザはサッと、頭を引っ込める。
「ち、近づくなっ」
「人間風情が近寄ってすみません、これ渡すだけだから。はい」
すっ、と、扉の隙間からシャツを持ったオリーヴの手が出てくる。
「アイロンがないから、ちょっと皺はあるけど」
「…………」
バルジオーザはサッとシャツを奪い、そのまま無言で廊下を走り去った。
窓にとっては幸いなことに、窓は開け放たれたままだった。バルジオーザは窓を割ることなく外へ飛び出し、同時に翼を広げる。
玉座に舞い戻ると、彼は腰を下ろした。そして、手にしたシャツに視線を落とす。
(オリーヴが洗った、我のシャツ。オリーヴがあのすらりとした腕で洗った、シャツ)
血の染みは、消えている。彼はシャツを見つめていて、ハッと気づいた。顔を近づけてみる。
(──あの匂いだ。いつもオリーヴから香る、あの不思議な)
染み抜きや洗濯に使うハーブの匂いだったのだ、ということを、彼はようやく知った。そしてその瞬間、ぱあっ、と顔を明るくしながら悟る。
「つまり……オリーヴに我の衣類を洗濯させれば、我はいつもオリーヴの匂いに包まれることに! 何という至福!」
がばっ、とシャツを顔に押し付け、すーはー、と匂いを嗅いでオリーヴを想像する。
「王様ー、たまにはお食事はいかが……」
玉座の間に入ってきたエドラが、彼の様子を見るなり、ささっと回れ右をして出て行った。