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4 危険な微笑み、逆らえない上目遣い

「きゃあっ!」

 オリーヴは悲鳴を上げて身体をすくめる。小瓶はオリーヴの膝に落ち、中の液体を彼女のエプロンにぶちまけてから、床に落ちた。


「ししし死のうとしても無駄だっ!」

 バルジオーザは彼女に指を突きつけて怒鳴る。

「毒など飲んでも、我がお前を死の淵から呼び戻すぞ! 生ける屍となりたいか!」


「えっ……あのっ……」

 オリーヴは立ち上がり、怯えて小さく震えながら言う。

「お酢なんだけど……」


「あ?」

 バルジオーザの口から、間抜けな声が出た。

 部屋の中を渦巻いた風が、液体の匂いを彼の近くに運ぶ。彼は鼻をうごめかせた。酸っぱい匂いがする。


 ふと気づくと、涙目で彼を見つめるオリーヴが、彼のすぐ側にいた。

(い、いかん。いつの間にこんなに近づいてしまっていたのか)

 バルジオーザはうろたえ、さりげなく一歩下がりながら聞いた。

「な、なぜ酢など瓶に入れて持っているのだ。食事にかける『自分酢』か?」

「あの……あたしは、染み抜き屋だから」

 驚きから立ち直ってきたのか、オリーヴは足下の瓶を拾うと、大事そうにエプロンで巻き込むようにしながら言った。

「この、籠にかかっていた布に、油染みがあったから気になって……油は、お酢で落ちるから」

「そ、そうか」

 彼はまたさりげなく、一歩下がる。


「待って」

 オリーヴが一歩前に出た。とっさにバルジオーザは鋭く言う。

「近寄るなっ」

「ご、ごめんなさい」

 オリーヴは立ち止まる。

(いや、近寄ってほしいのだが。あああどっちだ)

 内心大混乱のバルジオーザは、それでも口調だけは尊大である。

「何の用だ」


「あの……さっき廊下に出たとき見たんだけど」

 緊張しているのか、オリーヴは胸元を抑えながら言った。

「ここ、廊下のカーテンとか絨毯とか、色々汚れているのね。あたし、ずっとここに閉じこもってても辛いから、そういうのを綺麗にして過ごそうと思うんだけど」

「何だと」

 バルジオーザが眉を上げると、オリーヴは急いで付け加えた。

「あの、それだったら、あまりここから出ないでもいいでしょ? 布類を取りに行って、ここに戻って、作業はここですればいい。……ダメ?」


『ダメ?』と上目遣いに見つめる視線は、バルジオーザにとっては逆らえない凶器である。


「いいぞ」

 あっさりと答えてしまい、オリーヴは「え」と目を丸くした。

 バルジオーザは我に返る。

(しまった、ついほだされて許可してしまった。まあいい……そんなことでオリーヴが満足するなら)


「じゃあ、そうさせてもらうわ」

 オリーヴは言い、頬をほころばせた。


 今度はバルジオーザが目を見開き、固まる。

(微笑んだ。オリーヴが、我に、笑いかけた……)


「あの、水がたくさんいるん……」

 何か言いかけるオリーヴを、バルジオーザは「待て」と早口で遮ると、急いで部屋から飛び出して扉を閉めた。

(いかん! あの微笑みは危険だ! 何でも言うことを聞いてしまうではないか!)

 ガシャーン、と彼は廊下の窓に体当たりしてガラスを割り、一気に外へ飛び出して玉座に逃げ帰った。


 その破壊音は、部屋の中のオリーヴの所まで届いていた。彼女はまたギョッとして、一瞬肩をすくめる。

「こ、今度は何よ……色々と割れる城だなぁ」


 オリーヴはしばらく耳を澄ませたが、あたりは静まりかえっている。

 彼女はエプロンをつまみ上げ、酢の匂いのついてしまったそれを外しながらため息をついた。

「お酢が、自殺用の毒薬に見えたわけね。まあ、突然謎の瓶を取り出したら、怪しいといえば怪しいかな……。でも、これではっきりした」

 オリーヴは、バルジオーザの出て行った扉を見つめる。

(魔王は本当に、これっぽっちも、あたしを殺すつもりはないんだ。理由はわからないけど)


 腰を据えて行こう、と、彼女は考えを巡らせる。

 さきほど彼女が、「この城のカーテンや絨毯を綺麗にしたい」とバルジオーザに申し出たことには意味があった。

 この城のあちこちの布類を、部屋から出て取りに行き、戻って綺麗にして、また部屋を出て元の位置に戻す──それだけで、身体をイドラーバの空気に少しずつ慣らすことができるのではないかと考えたのだ。しかも、そうすることで同時に城の中を偵察でき、逃げる算段も立てやすくなる。


 オリーヴはカバンから手布を取り出すと、ボウルの脇に置いた。そしてその上に油の染みた布を載せると、酢の染みたエプロンでポンポン叩く。下の手布に油を移して落としやすくするためだ。

 後はお湯で洗いたいところだったが、今ここにはボウル一杯分の水しかないため、それで洗う。籠にかけてあった布は綺麗になった。

 酢の匂いのついてしまったエプロンも洗いたかったが、洗うには水が足りない。バルジオーザは、洗濯や染み抜きをしたいという彼女の要望を本当に叶えてくれるつもりなのだろうか、と、オリーヴはしばし考える。


(……魔王って、何だか、あたしよりずいぶん年下──十六、七歳くらいの男の人に見えるから、警戒心が削がれちゃうわ)

 もちろん、彼女にはバルジオーザの実際の年齢はわからない。しかし、もし見た目が年上で背も高かったら、今よりさらに恐ろしく感じただろう。


 キイッ、と、扉がきしむ音がした。

 振り向いたオリーヴは、ギョッとして後ずさった。その拍子に寝台の脇の台に身体が当たり、カタンとボウルが鳴る。


 額から血をダラダラ流したバルジオーザが、また顔だけをのぞかせていた。


「……オリーヴ。お前の望みは何だったか。もう一度言え」

「えっ」

 どうやら先ほどのオリーヴの要望を、バルジオーザはきちんと聞いていなかったらしい……と悟った彼女は、うろたえながらも言いたいことは全部言ってみる。

「あの……染み抜きとか洗濯とかしたいから、たくさん水がいるの。できればお湯も沸かしたいけど、この部屋じゃダメよね……それと、干す場所も……あっ、干すのはこの部屋じゃなくてもいいけど」


「おとなしくしていろっ」

 バルジオーザは怒ったような口調で言うと、静かに扉を閉めようとした。

「あの」

 オリーヴが呼び止めると、ぱっ、と扉が開く。

「何だっ」

「おでこ……」

 彼女がおそるおそる指さすと、バルジオーザは少し目線を上げてから、軽く鼻を鳴らした。とたん、シュッ、と音がして彼のおでこから煙が上がる。オリーヴは目を見張った。

「え、傷が、ふさがった……?」

「このような傷など、何ともない。我はイドラーバの王だからな」

 ぺろり、と舌を出し、口の近くまで垂れていた血をバルジオーザが舐めとる。その仕草はさすがに恐ろしく、不気味だった。


(いやでもそれ以前に、さっき出て行ったばかりなのに、何であんな怪我したのよ……自分の城で)

 オリーヴはつっこみたくなったが、それには触れずにこう言った。

「血の染みも、放っておくと落ちなくなるから……その服」

 バルジオーザはよりによって、白いシャツを着ているのだった。額から垂れた血の一部が襟まで届き、白い生地を赤く染めている。染み抜き屋のオリーヴとしては見過ごせなかった。


「なっ」

 バルジオーザの顔に、サッと赤みが走る。

 また余計なこと言って怒らせたか、とオリーヴはビクリとした。

 バルジオーザは怒鳴った。

「我の服まで洗うというのかっ!」


 オリーヴはまたもや、目を丸くする。

「えっ。あの、そこまで言ってませんけど……気になっただけで……」

 その先は何もいえず、彼女が口をパクパクさせていると、バルジオーザは「ぐおおっ」とうなり声をあげるなり、扉を荒っぽく閉めた。数歩の足音の後、ガシャン! とまた何かが割れる音。

 びくっ、と身体を竦ませながら、オリーヴは耳を澄ませる。


 あたりは静まりかえった。


 オリーヴは寝台に座り込み、深呼吸をした。胸がバクバク言うのを、両手で押さえてなだめる。

(ちょっと、怖かった……怒らせちゃった。あの魔王、怒るとモノに当たり散らすんだ。きっとあのおでこも、何か割った時に破片で切ったんだろうな)

 しかし同時に、彼女は気づいていた。

 バルジオーザは、オリーヴに直接暴力を振るったことは一度もない。彼女の望みも、わざわざ聞き直してまで、叶えてくれるつもりのようだ。

(そんなに恐れなくても、大丈夫なの……?)


 一瞬、気を緩めかけたオリーヴは、ハッとして自分を戒める。

 彼は黒い角のある『魔族』の王、イドラーバの王であり、フォッティニアに攻め込んでは人間を殺しているのだ。オリーヴのことも、現在は色々と身の回りのことを気にしてはいるが、この城にさらってきて閉じこめていることに変わりはない。どういうつもりでそうしているのかさえ、まだわからないのだ。


(気を緩めないようにしないと!)

 まずは自分で自分の身の回りをきちんとしよう、と、オリーヴは寝台の背板に先ほど洗った布を干し、少し酢のついてしまったスカートも着替えた。家を脱出するときに、なけなしの着替えを布カバンにつっこんできていたのだ。

 しかし結局、それ以外は何もすることがない。


 ゴロゴロしているうちに、オリーヴはウトウトし始めた。

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