3 城に満ちる力
その頃、バルジオーザはバクバクする胸をなだめて一息ついていた。
(全く、なんという女だ。この我をここまで振り回すとは)
オリーヴが部屋を抜け出そうとするのを見張っていたところ、フォッティニア人の軍人を「かっこいい」などと言うものだから、バルジオーザはカッとなった。その怒りが、ついうっかり角から噴出してしまい、廊下の壺を割ってしまったのだ。
驚いたオリーヴが振り向く前に隠れたため、覗いていることを気づかれずに済んだバルジオーザである。
(うぬぬ……オリーヴはああいう男が好みなのか? 金髪の、筋骨隆々とした……あいつ、今度フォッティニアに行ったら殺す。とにかく、今はオリーヴだ)
もう一度、廊下の角から様子を窺うと、オリーヴは彼のいる場所とは逆の方向へ歩き始めていた。階段を見つけ、上っていく。上への階段を探しては上ろうとしているのだ。
逃げるのなら下ではないのかと思いつつ、彼はしばらくオリーヴの好きにさせた。
イドラーバには、『王』の発する力がまるで神経のように張り巡らされている。そのため、大きな争いや自然災害などは、バルジオーザは城にいながらにして感じ取ることができた。
王が代々暮らすこの城では特にその力が濃く、城にいる者に幻を見せるなどバルジオーザからの働きかけも可能だ。階段を上っているように思わせておいて下らせたり、同じ場所を巡らせたりもできるので、彼女は逃げられない。
(……そろそろ、まずいな。あまりあの部屋から離れないようにさせねば)
バルジオーザはオリーヴに幻を見せ、草原の部屋の方へと誘導した。しかし──
「何だか変……ちょっと、気持ち悪く……?」
オリーヴは部屋にたどり着く前に、バルジオーザの力の影響を受けてしまった。草原部屋だけはその力を遮断し、フォッティニアの空気を満たしてあるので、部屋に戻りさえすれば問題ないのだが――
そうと知らないオリーヴは部屋の手前のソファに座り込み、そのまま倒れ込んでしまった。
バルジオーザは廊下の角から出ると、マントをはためかせて大急ぎで彼女に近づいた。
(あまり近づくと、『あの予言』が……しかし、彼女の意識がない時なら大丈夫だろう)
近づけることが嬉しくてたまらない彼の足は、勝手に小躍りしている。
オリーヴは、目を閉じて眉をひそめ、弱々しく呼吸していた。そんな様子さえバルジオーザの目には美しく映り、彼の方は息を荒らげながら彼女を抱き上げる。
(柔らかい……それに、彼女からはいつも不思議な香りがする。何だろう? あーたまらん……)
バルジオーザが顔を近づけてフンカフンカと匂いを嗅いでいると、オリーヴはうっすらと目を開け、美しい瞳をのぞかせて、また閉じた。
バルジオーザはうっとりしながら彼女を部屋に運び込み、寝台に横たえる。そのまま一緒に寝台にもつれ込もうとして、慌てて自重した。
(何と危険な女だろう!)
彼はいったん廊下に出て扉を閉めると、ソファに腰掛けて彼女が目覚めるのを待つことにした。
「そう、彼女が起きたら、あまりこの部屋を出ないよう脅しつけねばならんからな! ん? 置き手紙を残せば良いのか? いやいや、直接言った方が良いに決まっている。愛らしい彼女に直接な」
独り言の多いバルジオーザである。
そうこうするうちに、窓の外、垂れ込める雲の向こうに霞む太陽が空を移動し――
──ようやくオリーヴが起きる気配がした。
バルジオーザは嬉々として立ち上がり、素早く扉に近づくと顔を出した。
「目が覚めたか!」
(しまった、また喜びの声を上げてしまった。だからいかんと言うのに)
内心反省しながら、彼は固まっている彼女に部屋を出るとどうなるかを教え、改めてきつく脅したのだった。
扉を閉め、玉座に戻ろうと歩き始めると──
廊下の向こうから、小さな影がひょこひょことやってきた。
「命じた通りに用意しただろうな」
バルジオーザが見下ろすと、その影はサッと両手を広げる。イドラーバの使用人の服装、右手に水差し、左手に籠。
「よし。行け」
顎をしゃくると、影は彼の横を通り過ぎてオリーヴの部屋に向かった。
――トントン、という音に、部屋の中にいたオリーヴはびくっと身体を竦ませる。
声を出せないまま扉を見ていると、少しして扉は向こうから開いた。
そこにいたのは、巨大ネズミだった。
二本足で立ったネズミの身長は、オリーヴの胸くらい。お屋敷使用人風のお仕着せ姿だ。深緑色のワンピースは黒のレースで縁取りがしてあり、白い毛並みに映えてよく似合っている。同じ深緑色のエプロンをし、耳にも黒いレースの飾りをつけているが、よく見ると頭には黒く短い角が一本あった。
(ああ、魔族だもんね……って、呆然とするあまりマジマジと観察しちゃったわよっ!)
寝台の上で固まったまま、心の中でオリーヴが自分にツッコミを入れている間に、ネズミは優雅にお辞儀をすると彼女の横をちょこちょこと通り過ぎた。
そして、まず右手――右前足――で持っていた水差しの中身を、台の上に置いてあったボウルに空けた。次に寝台に近づき、腕にかけていた籠をオリーヴの膝にちょこんと載せる。籠には綺麗な布がかかっており、中は見えない。
ネズミはまた扉の所まで戻ると、オリーヴに向き直り、再び優雅にお辞儀をした。そして、部屋を出ていった。
「……」
オリーヴは膝の上の籠が落ちないように支えたまま、そっと寝台から身を乗り出した。脇の台のボウルに入っているのは、ごく普通の水のようだ。手や顔を洗うのに使うのだろう。
次に、籠にかかっていた布の角をつまんで、持ち上げてみる。
中には深皿が一枚入っていて、油で揚げた魚が三匹と丸いパンがひとつ、入っていた。その横に、瓶に入った紫色の飲み物もある。
「いやいやいや……怖くて食べられないでしょ、ここの食べ物なんて」
オリーヴは思わずつぶやいたが、同時にお腹が「ぐぅ」と鳴った。
(……時間の問題のような気もしてきた。どうせ空腹に耐えられなくなって食べるなら……)
そんなことを考えながら、彼女は細長い魚をつついてみる。温かい。
(揚げたて? 頭から食べられそう。一応調理してあるものなら、生よりも安心かも……)
心の中で言い訳をして――
――我に返ると、オリーヴは口をもぐもぐさせながら二匹目の魚に手をのばしていた。 本当に油で揚げただけの魚だったが、美味しい。パンも柔らかかった。
「あー、こんな時にまで食い意地張っちゃった……でも、魔王の城で出る食事なんて、もっと不気味なものかと思ってた。謎の肉とか」
開き直った彼女は瓶の栓を開け、少しだけ口に含む。葡萄酒だった。『魔王』の城に相応しい飲み物のような気もする。
食事を終えると、オリーヴはもう一度、布を籠にかけた。寝台に座り込んだまま、考えの中に沈む。
(……逃げられなかったら、こんな毎日が続くのかな。これから先、ずっと。人ならざる生き物に囲まれて……)
膝の上の籠をしばらくじっと見つめてから、オリーヴはそれを枕元に置いて寝台を降りた。
寝台の脇に、彼女の肩掛けカバンが置いてある。かぶせの部分を開き、中に手を入れた。小さな布包みをひとつ、取り出す。
布を取り去ると、中からガラスの小瓶が現れた。
オリーヴの暮らしていたガーヌの町には、有名なガラス器の工房がある。彼女の楽しみは、毎日せっせと働いた金を少しずつ貯め、その工房で可愛らしい小瓶を買うことだった。
ガラス器は高価なので、ごくごく小さな瓶しか買えなかったが、夜に暖炉の炎にかざすと美しい揺らめきを宿して、まるで妖精がそこにいるようだった。一人暮らしの孤独を、妖精の小瓶は癒してくれたのだ。
彼女が取り出したのは、そのうちのひとつだった。
オリーヴは寝台の枕元に腰掛けると、瓶を一度目の前にかざした。中には薄黄色い液体が入っている。
瓶の栓──栓もガラスでできている──を抜き、彼女は瓶を顔に近づけた……
廊下では、バルジオーザがしつこくそこに居座っていた。
彼女の部屋から出てきた巨大ネズミを呼び止める。
「クリーチィ、彼女はお前を見てどんな反応をした。恐れていたか」
「チィ、チィ」
クリーチィと呼ばれたネズミは、鳴いて答える。
「そうか、それならよい。行け」
彼が命じると、クリーチィは廊下を奥へと去っていった。
ところで、バルジオーザはイドラーバの王である。それなりに公務もある。
さすがにそろそろ執務室へ戻らねばならないと考えたバルジオーザは、名残惜しくもう一度、オリーヴの部屋の扉を見つめ――そして、気づいてしまった。
彼女の部屋の扉が、ほんの少し開いている。クリーチィがしっかりと閉めなかったのだろう。
(の ぞ き た い)
はっ、と彼は我に返って気づいた。さっき覗いたばかりであることに。
(あまり近づいてはならないと己を戒めたはずだ。イドラーバの人間は欲望のままに生きるが、オリーヴの件ばかりはそういうわけにはいかぬ。これは、王としての、試練だ!)
踵を返し、オリーヴの部屋の扉から数歩離れて――バルジオーザは立ち止まった。
(……しかし……きちんと食事をしたかどうか、確認せねばならんのではないか? そう、口に合わなければ、次は別のものを用意する必要が……いやいや、我が自ら確認にいく必要などあるまい。もう一度クリーチィを呼んで、籠を下げさせれば良い。全部食べたかどうかわか……いやいやいやいや、クリーチィは彼女と会話ができない。もしオリーヴから何か要望があったとき、我に伝えることができないではないか。やはり我が直接……)
廊下を二十回ほど行きつ戻りつしたのち。
バルジオーザは、オリーヴの部屋の前に立った。扉の隙間に顔を近づけ、片目で中を覗く。
オリーヴは寝台に腰かけて、小さな瓶を顔に近づけたところだった。
(毒!?)
我は扉を吹き飛ばすような勢いで開け、彼女の手元に向けて突風を起こした。
「待てっ!」