2 物陰から覗く魔王
――その頃。
「オリーヴがわが城に。わが手の中に、いる。予言の乙女が」
バルジオーザはぶつぶつとつぶやきながら、玉座の周りをぐるぐると歩いていた。
いくつかの燭台が、玉座の周りをぼんやりと照らしているが、部屋のほとんどは闇に沈んでいた。窓の外の空は、この国の常で雲が重く垂れ込め、赤黒い光が地表に届いている。時折、稲光が走る。
(そう、あれはまるで、稲光のようだった。彼女を初めて見たとき、心に射し込んだあの感情は)
「くっ……美しいっ」
彼は立ち止まり、片手で額を抑えてうめく。
「人間の基準で言っても、美しい部類だろう、オリーヴは! なんであんな娘が、清らかなまま独り身で暮らしているのだ……!」
初めて相対した時に彼をまっすぐ射た、深い緑の瞳。薄紅色の頬に、黒髪の一筋がはらりと落ちた様子も艶めかしかった。彼女は彼に何か言おうとして、柔らかそうな唇をうっすらと開いたが、怯えて声が出ないようだった。細くもなく太くもない女性らしいその身体が、小さく震え……
気がつくと、彼は手を伸ばし、彼女の髪をまとめていた簪を抜いていた。さらりと流れ落ちる黒──そんな髪までもが、彼を魅了する。
「魔族だ!」
そこへ、人間の男の声が響いたのだ。
バルジオーザは反射的に、うっとうしい、と思った。
人間と戦って遊んでやるつもりで来た彼だったが、オリーヴを見た瞬間からすっかりその気も失せていた。彼女しか見えない、彼女がいればそれでいい、そんな気持ちだけがバルジオーザの心を支配している。
彼はそのまま、マントでオリーヴの身体を包み込みながら彼女を眠らせると、背中の翼を大きく広げ、飛んだ。
腕の中に、彼女の体温と匂いを感じながら。
イドラーバの城に、バルジオーザはオリーヴを連れて帰った。
城の玄関前に降りると、彼の配下たちが数人出てきて頭を下げた。人間に近い姿で言葉を話す者もいれば、動物に近い姿で話せない者もいるが、彼の力をもってすれば意志を通じ合わせるのは造作もなかった。
バルジオーザは使える部屋の場所を配下に尋ねると、自ら彼女を連れて行った。視線で燭台に灯りを点し、寝台に彼女をそっと横たえる。
フォッティニア人のオリーヴに、イドラーバの空気は少々「合わない」。そこでバルジオーザは、部屋の中にだけフォッティニアの空気を満たした。そのついでに部屋の中の景色も、フォッティニアのそれにする。家や町並みなど、細かいところはわからないため――彼にとっては興味もなかった――適当に緑の草原と青空にした。
眠るオリーヴを見つめながら、バルジオーザは寝台に腰掛けた。顔を近づけてよく見ると、彼女の頬にはほんの少しだけそばかすが散っている。長いまつげがけぶり、吸いつきたくなるようなぽってりした下唇がわずかに震えた。
(そろそろ、目覚めるかもしれない)
彼は急いで、部屋を出た。
(あまり彼女の近くにいると、「あの予言」が成就しやすくなるからな!)
廊下に出た彼は立ち止まり、振り返ると、もう一度部屋の中に頭だけを突き出した。
黒髪の頭が、ゆっくりと寝台から持ち上がっていた。オリーヴが目覚めたのだ。
心に嬉しさが満ち溢れ、彼はとっさに話しかけた。
「目が覚めたか?」
オリーヴの目が巡らされ、彼を見る。
(我を、見ている。我だけを)
「ようこそ、我が城へ」
バルジオーザは目眩のようなものを感じながら言い、そしてハッとした。
(つい歓迎してしまった! 少し脅しておかねばならないのに! そうすれば、万一にも彼女の方から我に近づくことなどないだろう)
「もう、お前は逃げられんぞ」
低く脅すように彼が言うと、オリーヴは身体を強ばらせる。
バルジオーザはそれを見て、内心悶絶した。
(ああっ、今すぐ駆け寄って、「だがしかし殺さないから安心しろ!」と言いながら抱きしめたい! しかし、近寄ってはまずいのだっ)
扉の外で踏みとどまりながら、彼は舐めるようにオリーヴを見つめた。
(あのいかにもフォッティニア人の町娘な服装はいただけない、イドラーバの服を着せたい、絶対似合う!)
そう思いながらも、オリーヴに告げておかなくてはならないことがあり、口を開く。
「我はイドラーバの王バルジオーザ。お前は我の花嫁として、ここで暮らすのだ」
オリーヴはただ、目を見開いている。
あまりのことで理解できなかったか? と、思っていると──
彼女が、その花のような唇を開いた。
「……あの、なんで、そんな遠くにいるの?」
バルジオーザが初めて聞く、オリーヴの声であった。
(な、なんと愛らしいのだ!)
彼の頭に、一気に血が昇る。
(あの声で我の名を呼ばれた日には、どうなってしまうのか!?)
バルジオーザは動揺を隠そうと、「殺されたくなければおとなしくしていろ」というようなことを早口で言うなり、素早く部屋の扉を閉めた。
廊下の窓を開け放ち、彼は外へ飛び出した。隠していた黒い翼を一気に広げ、大きくはためかせると、城の中央にある塔の天辺へ向かう。バルコニーに降り立ち、急ぎ足で玉座の間に入り、薄汚れた赤い絨毯の上をつかつかと歩き、黒いマントを翻しながら壇上へ上がって――
バルジオーザは玉座に腰を下ろしながら、ため息をついた。
「くっ……あのまま彼女と会話していたら、我慢できずに近づいてしまいそうだっ。我は距離を置かなくては。とすると、彼女の世話をする者が必要だろう。一人にしておくわけには……」
そこで、彼はハッとした。
(たった一人部屋に残されたオリーヴは、どうしているだろう? まさか、絶望のあまり自ら死を選んだりはしているまいな)
座ったばかりなのにもう立ち上がり、バルジオーザはまたもやバルコニーから外に飛び出した。大きな翼で旋回するようにしながら急降下し、オリーヴの部屋のある階に窓から飛び込む。着地と同時に走り出し、急いで廊下の角を曲がると、オリーヴの部屋の扉が目に入った。
その扉が、ゆっくりと開く。
「!」
バルジオーザは瞬間的に踵を返すと、柱の陰に逃げ込んだ。そして、暗がりからそっと顔を半分出し、様子を窺った。
――そんなこととは気づいていないオリーヴは、扉を開けて廊下に一歩踏み出した。
青空の下の草原だった部屋の中とは似ても似つかない光景が、彼女の目の前に広がっている。黒と灰色、そして葡萄酒色を基調にした薄暗い廊下。
空気は湿っぽく、あたりはシンと静まりかえっている。廊下も部屋に見立ててあり、片側の壁は一面書棚で埋め尽くされ、あいまには暖炉とソファがあった。反対側は一面窓で、そこから見える空はどんよりと曇っている。
サッ、と彼女は振り向いた。誰かに見られているような気がしたのだ。しかし、人の姿は見えない。
「お化け屋敷みたい」
オリーヴはつぶやく。
ガーヌの町には時折サーカスがやってくるのだが、その中にお化け屋敷もある。城の雰囲気はそれによく似ていた。しかし、お化け屋敷は楽しいが、この城は彼女にとって不気味でしかない。
オリーヴは静かに歩き出した。誰も見張りがついていないのだから、おとなしく部屋にいる理由はない。ダメで元々、城から逃げ出そうと考えたのだ。
長い廊下を歩きながら、彼女はちらちらと窓の外を見る。何階なのかはわからないが、かなりの高さがあるようで、下の方は靄に霞んでいた。建物は古びて汚れてはいたが、壁の装飾や布類の模様などを見ると豪華で、確かにそこは城であるらしかった。
「……そうだ」
不意に足を止め、オリーヴはつぶやいた。
「よく考えたら、あのかっこいい軍人さんはあたしの家に、あたしを助けに訪ねてきたんだもん。きっと今頃、あたしのこと探してる。ここまで助けに来てくれるかも」
そのとたん、ガッシャン! という音がした。
オリーヴがはじかれたように振り向くと、石の台のすぐ下できらびやかな壷が割れ、床でかけらが揺れている。その向こう、廊下の角で一瞬、黒い影が動いたような気がした。
確かめに行くのは恐ろしくてできず、彼女はその場から動かずにしばらく固まっていた。が、その後は何も起こらなかった。
じっとしていると、余計恐ろしくなってくる。
(と、とにかくこの城のなるべく高いところに行って、エプロンを振るなり、のろしでも上げるなりしてみよう!)
オリーヴは急ぎ足で廊下を進んだ。階段を見つけ、上り、再び廊下に出ると階段を探し、また見つけては上る。
ところがおかしなことに、上っても上っても最上階にたどり着かない。それどころか、見覚えのある場所に出てしまった。無惨に割れた壷の欠片が、廊下の片側に散らばっていたのだ。
「何なの……この城……」
ふとめまいを覚え、オリーヴは廊下のソファにへたり込んだ。しかし、座ったにもかかわらずめまいが収まらない。息苦しさも感じる。
(何だか変……ちょっと、気持ち悪く……?)
座っているのも辛くなり、オリーヴは背もたれを滑るようにして、ずるずると横になった。目を開けていられず、気持ち悪さに耐える。
気が遠くなりかけた時、脇の下と膝裏に何かが触れた。身体を持ち上げられる。
「ん」
彼女はかろうじて、薄目を開けた。
若い男の顔が見える。
(赤い瞳──さっきの、魔王)
そのまま、彼女は気を失い――
――意識が浮上すると、オリーヴは再び草原部屋の寝台の上にいた。
「……気分、直ってる。助けてもらった……?」
胸に手を当ててつぶやいた彼女は、仰向けになったまま、しばらく青空を眺めた。空気が澄んでいるように感じる。
思い切って、彼女はそっと身体を起こしてみた。
部屋の扉が、半分開いている。そこからまた、黒い角のバルジオーザが顔だけ覗かせていた。
オリーヴはぎくりと身体を強張らせる。
「目が覚めたか」
さっき聞いたばかりに思える台詞を言うと、バルジオーザは彼女に指を突きつけた。
「お前はフォッティニア人だ。イドラーバの空気に慣れていない。命が惜しければ、あまりこの部屋を長時間離れないことだ!」
そして彼女の返事も待たずに、サッ、と顔を引っ込めた。扉が静かに閉まる。
オリーヴは呆然と、それを見送った。
「ええと……それって、この部屋にいれば大丈夫って意味? 何で?」
首を傾げながら、彼女は考える。
この部屋では全く平気なので、ここの空気はオリーヴに「合った」ものなのだろう。しかし部屋の外はイドラーバの空気であり、慣れていないオリーヴには「合わなかった」らしい。
(……それって逆に言えば、慣れたら長時間外に出ても大丈夫ってこと?)
少しずつ外に出てイドラーバの空気に慣れておけば、好機が訪れた時に逃げ出すことができるのではないか。しかし逃げたところで、さきほどのように迷っては意味がない。
一体どうすればいいのか、彼女は考え込んだ。