22 「イドラーバで店を持て」
バルジオーザを見送ったオリーヴは、
「ああ……『行ってらっしゃい』って言ってほしかったのね」
とつぶやきながら、自分の服を干す。だんだん彼のことが分かってきたオリーヴである。
「よし、おしまい。魔王がいない間に、浴場に行こうかな。落ち着いて入れるし」
こんなところも、慣れたと言えなくもない。
一人で浴場に行き、薄紅色の世界で身体をお湯に浸しているうちに、オリーヴの心は静かに凪いできた。彼女は自分の気持ちを見つめ直す。
フォッティニアに帰りたい気持ちが薄れたからといって、フォッティニアを守りたい気持ちまで失ったわけではない。
また、イドラーバに慣れてきたからといって、イドラーバで暮らしたいと思っているわけでもない。
ただ、オリーヴがイドラーバで暮らせば、バルジオーザを引き留めておける──そのことが、オリーヴの罪悪感を薄めていた。故郷を守ることになっているのだから、このまま敵国で暮らしても許される、そんな風に思ってしまう。ただ、問題はまだあった。
「王妃っていうのが、なぁ」
浅い湯の中で膝を立て、オリーヴはそこに額をつける。
オリーヴがイドラーバの王妃になった、などとフォッティニアの民が知ったら、彼女はどう思われるだろう。やはり、オリーヴは裏切った、と思われるのだろうか。
家族はいないとはいえ、仲の良かった町の住人にそう思われるのは、やはり彼女には辛いことだった。
(それに、お店。故郷に置いてきた、あたしのお店……。もう戻れないなら、あたし、どうしたらいいんだろう)
オリーヴがガーヌの町で微妙な立場に立たされることになった時、ガーヌにこだわりすぎてはダメだと忠告したのは、隣に住む鍛冶屋の年老いた妻だった。
「商魂逞しく、他の町で染み抜き屋をやったって、天国の母さんは怒りゃしないよ。この町にいたらあんた、いい旦那も捕まえられないよ」
彼女はそう言って、オリーヴを励ましたのだ。
「でもねぇ……鍛冶屋のおばさんだって、母さんだって、まさかイドラーバで店をやれなんて言わないだろうし」
オリーヴはため息をついて、湯から上がった。
ガーヌから着てきた服の、縫い合わせが解れてしまったので、部屋に戻ったオリーヴは裁縫道具を取り出すと中庭の椅子でちくちくと縫い始めた。
そうしているうちに時間が過ぎて、いつもの気配を感じ、彼女はちらり、と目を上げる。扉から、赤い瞳が覗いていた。
「帰ったぞ」
「ええ」
「帰った」
「……………………」
バルジオーザが「お帰りなさい」と言って欲しがっていることは、すでにオリーヴにも察しがついている。
しかし、彼女は縫いかけのスカートを作業台に置いて黙っていた。
バルジオーザの顔が、いったん扉の向こうに引っ込む。が、すぐに扉は大きく開き、彼は中庭に入ってきて木箱をドンと置いた。
ちらり、と木箱を見たオリーヴは、思わず立ち上がった。
「あっ……『グネス』!」
それは、オリーヴがいつも洗濯に使う、香り付けのハーブだった。箱にぎっしりと、瑞々しい緑の葉が詰まっている。
「なくなった葉というのは、これだろう」
バルジオーザが木箱の向こうで偉そうに言った。箱のそばにしゃがみ込みながら、オリーヴは声を上げる。
「そう、これ! えっ、どこから」
「お前の家の庭だ。他に生えている場所を知らんからな。洗濯に使う土とやらはわからなかったが」
「いいの、ありがと……!」
礼の言葉が、彼を見上げるオリーヴの口から飛び出した。
バルジオーザは一瞬目を見開いてから、何か言おうとして口を開き、そして閉じ、また開いて閉じた。
(もしかして、照れてる……? 喜ばせちゃった。なんか、悔しい。何であたしがお礼なんか……そもそもあんたにさらわれなければ、グネスがなくなることもなかったんだっつーのっ)
モヤモヤしながら、オリーヴはツンとした表情をして箱に視線を戻した。
「……根っこごと、抜いてきたの?」
「ここに植えればよいだろう」
彼は微妙な距離を保ったまま、腕組みをして言った。
「いいの?」
オリーヴは中庭を見回す。ここの地面は幻ではなく本物の土なので、グネスを植えることができる。イドラーバの土が合うかどうかはわからないが、グネスは元々強い草でもあり、試してみる価値はあった。
「そろそろ、庭、ぼうぼうに荒れてたでしょ。そういえばあたし、戸締まりもしてない。家、どうなってた?」
グネスを一株、両手ですくい上げながら、オリーヴは尋ねた。
「…………」
バルジオーザは黙っている。
オリーヴは首を傾げた。彼が質問に答えないのは、珍しいことだ。
隠し事が苦手なバルジオーザが、彼女の家の現在の様子を正直に話さないとは、どういうことなのか。そう考えたオリーヴは、ハッと息を呑む。
(あたしが傷つくような、何かがあった……?)
「もしかして、家、荒らされてた? それとも、もう人手に渡っちゃったかな。教えて」
何でもないような口調を作って彼女が言うと、バルジオーザはようやく口を開いた。
「窓から、家の中を見た。寝台が、枠だけになっていた」
「そう」
グネスを箱に戻しながら、オリーヴは軽くうなずいて見せた。
オリーヴがさらわれたところを軍人が見ていたのだから、少なくとも領主はその連絡を受けているだろう。『魔王』に連れて行かれた娘が無事に戻るなどとは、誰も思わない。枕も敷布もなくなっていたのなら、もう家の中は片づけられ、次の住人を待つばかりになっているということだ。
近いうちに、かつて彼女の家だった場所には、事情を知らずに引っ越してきた人が住み着くだろう。
もはやオリーヴがガーヌに帰りたいとは思っていなくとも、帰る場所がはっきりとなくなってしまったという事実は、彼女にとって衝撃だった。
オリーヴは黙って竈から火かき棒を持ってくると、それを使って中庭の隅を掘り起こし、グネスを植えた。ぽんぽんと根本を押さえながら、思う。
(もう、あたしもこうして、ここに根を下ろすしかないのかな……)
不意に、バルジオーザが言った。
「オリーヴ、今でも染み抜き屋をやりたいか?」
「はい?」
オリーヴは少々呆けてしまったが、すぐに立ち上がって彼をにらみつけた。
「あたしをさらったあなたが、それを言う?」
「我が欲しかったのはお前だけだっお前がこっちで仕事をしたいと言うなら別に構わんっ」
バルジオーザは一気に言った。相変わらず偉そうな口調ではあるが、額を汗が伝っている。
オリーヴが黙っていると、彼は一つ深呼吸して続けた。
「お前が、商売をした方が落ち着くというなら、許す。イドラーバで店を持て」
オリーヴは、気づかざるを得なかった。
(あたしは魔王に、大切にされてる)
一目惚れした女をさらって閉じこめはしたが、フォッティニアの空気、美しい服、口に合いそうな食べ物、浴場――不器用な形ではあるけれども、バルジオーザはあれこれオリーヴの世話を焼き、王自らハーブも取りに行った。
そして今は、さらってきた女に店をやらせるという。
「……このお城で、誰を相手に商売するっていうの」
彼女がそっけなく言い返すと、バルジオーザはあっさりと答える。
「町でやればいいだろう」
「えっ、町? お城の外で商売していいの?」
ふっ、と心が軽くなるのを感じながら、オリーヴは立ち上がる。
「王妃、やらなくていいってこと?」
「何を言うか、お前が我の王妃であることは変わらぬっ! ここと町の空間をつなげばいい! 今まで通り男も近づけぬぞ!」
めちゃくちゃなことを言う彼に呆れながら、オリーヴは答えた。
「男のお客が近づけないお店って、どうなの……別にいいじゃない、お客くらい」
「ダメだっ。間違いがあったらどうするっ」
オリーヴは思わず噴き出してしまった。
「ぷっ、『間違い』って!」
子どもができるのを心配しているのか、単なるやきもちなのか、バルジオーザの発言はその意図がいまいちはっきりしないが、オリーヴにとっては彼に捕らえられている今の状況の方がよほど『間違い』である。
(うふ、あ、まずい、笑いが止まらない)
バルジオーザは目を見開き、口も開けて、くすくす笑うオリーヴを見つめている。彼女は涙を拭きながら言った。
「ふふっ、じゃ、見張ってれば? あなたが見てる前でなら、男のお客相手に商売したっていいでしょ」
「そ、そうだな! 夫たる我が見張っていればな!」
嬉しそうに、彼は言った。
(……本当に、あたしのこと、好きなんだ)
オリーヴは笑いをおさめながら思う。
以前彼に言った「さっさとあたしを殺して」という言葉は、バルジオーザのためと言いつつも、本当は自分のために言ったのだった。この状況から逃げたいがための、そしてバルジオーザを傷つけたいと思っての、その言葉。
後悔の念が、彼女の心に小さな染みを作った。