1 さらわれた娘
「目が覚めたか」
低い声が響いた。
娘は緑の瞳を開く。
低い声の主を確かめようと、寝台の上にゆっくりと起き上がり――そしてその人物が視界に入ったとたん、声も出せないまま固まってしまった。
細面の、十代半ばに見える若い男だ。赤い瞳の顔を縁取る白銀の髪、そしてその頭からは、まるで稲妻のようにジグザグと、黒い角が生えていた。
娘は、町に張り出された瓦版で、こんな角の描かれた絵を見たことがあった。
(──魔族)
「ようこそ、我が城へ」
黒い角の男が、笑い含みに言う。
(……城……?)
娘はハッとして、あたりを見回した。
不思議なことに、彼女のいる寝台は一面の草原の上にあった。ぽつんぽつんと、他にも家具が直に地面に置いてある。鏡台、テーブルに椅子。
そして、草原を見下ろすのは美しい青空だったが、娘はすぐにその違和感に気づいた。ほんの少し、景色がゆがんで見える。この草原や青空は本物ではなく、壁や天井がそのように見せかけてあるらしい。
(ここは一体何? あたし、どうしてこんなところに……)
娘は必死で思い出そうとした。
(そうだ、仕事道具を持って家の裏手に出た時に、名前を呼ばれた。「お前がオリーヴか」って)
小さな庭で振り向くと、彼女――オリーヴのすぐそばにこの男が立っていたのだ。男は彼女の顔をじっと見つめ、そしてゆっくりと近づいて来てマントを広げ……
(そこから覚えてない。ここに、連れてこられたの!?)
「もうお前は逃げられんぞ」
くくっ、と、黒い角の男が喉の奥で笑う。
「我はイドラーバの王バルジオーザ。お前は我の花嫁として、ここで暮らすのだ」
(イドラーバの、王)
それは、オリーヴの国フォッティニアでは『魔王』と呼ばれる存在だった。
(は、花嫁? 魔王の花嫁って……?)
「怯えているな……数を頼みに戦うことしかできぬ、か弱い人間よ」
バルジオーザの瞳が、赤く光る。
オリーヴは一つ深呼吸をしてから、ようやく口を開いた。
「……あの、なんで、そんな遠くにいるの?」
オリーヴのいる寝台から、寝台の縦幅四つ分ほど離れたところにある、透明な壁に開いた木の扉。
その向こうから、バルジオーザは顔だけ出してオリーヴをのぞいているのだ。口調は尊大で人を脅しつけるような風でありながら、態度は明らかにコソコソしている。
オリーヴの言葉を聞いたバルジオーザの顔が、うっすらと赤く染まった。
(しまった、怒らせた?)
オリーヴは息を呑んだ。
(そうか、魔王が近づいてこないのはコソコソしてるんじゃなくて、人間風情になんか汚らわしくて近寄りたくないとか、そういうアレじゃ……そんなあたしに話しかけられたから、カッとなって……? ど、どうしよう)
竦む彼女に、バルジオーザは片手だけを出して指を突きつける。
「いいからお前はおとなしくしていろっ殺されたくなければな!」
早口にそう言うと、バルジオーザは素早く頭を引っ込めた。静かに、扉が閉まる。
「た、助かった……」
オリーヴは寝台の上で安堵の吐息をついた。そして、こわばっていた肩をぎこちなく回してほぐしてから、寝台を静かに滑り降りる。
やはり、地面は草原に見えていても、彼女の裸足の足にはすべらかな絨毯のような感触が伝わった。戸惑いつつも、オリーヴは近くに置いてあった自分の布靴を履きながら、あちこち見回して現状を確認する。
フォッティニア王国の小さな町ガーヌで、一人細々と染み抜き屋を営んでいた自分が、『魔王』バルジオーザにさらわれた――そのことは彼女も認めざるを得なかった。今、彼女がいる『城』というのは、バルジオーザの国イドラーバの城なのだ。
何十年もの長きにわたり、フォッティニア王国は隣国イドラーバと戦争を繰り返していた。それも、かなり特殊な戦争だ。
イドラーバからはいつも、二、三人しか襲ってこない。しかしこの数人は、一人で何百人分もの戦いぶりを見せる異常な生き物だった。角があり、赤い瞳をしている『それ』を、フォッティニアの民は『魔族』と呼んでいる。そして、毎回姿を見せる一番強そうな個体を、『魔王』と呼んでいた。
人間たちの軍隊が数を頼りに立ち向かって、ようやく『魔族』を追い払っていたが、戦うたびに人間側に死者が出ていた。しびれを切らしたフォッティニアの現国王が、数年前に精鋭を選りすぐってイドラーバに突入させたが、結果は同じ。しばらく戦い、人間側にある程度被害が出たところで『魔族』は姿を消してしまい、疲弊した人間側は撤退。決定的な勝敗はつかないままだったのだ。人間側が弱すぎて、『魔族』は戦うのに途中で飽きてしまうのではないか、という者もいた。
このようなことをずっと繰り返しているにも関わらず、『魔族』がなぜフォッティニアに侵攻してくるのか、フォッティニア側は誰もわからなかった。
そんなある日、突然、フォッティニアの軍人がオリーヴの家を訪ねてきた。
「オリーヴだな? お前は腕のいい染み抜き屋だと聞いた。東の砦で働いてみないか?」
東部軍の副司令官、と名乗った金髪の美丈夫は、彼女にそんな誘いをかけた。
オリーヴの染み抜きの技術は、ガーヌの町で評判がいい。彼女が母親から受け継いだ、染み抜きに使う土やハーブの調合が絶妙なのだ。
しかし、軍人から提示された給金があまりに気前が良すぎたため、オリーヴはこう言った。
「あたし、仕出し女はできません」
仕出し女、つまり、軍人の世話をしながら軍人とともに行軍する女のことである。染み抜きだけでなく、炊事洗濯その他、必要な仕事はなんでもやる仕事だった。それなら給金がいいのもうなずけるのだが、オリーヴはあまり体力に自信がない方で、無理だと思ったのだ。
すると、軍人は答えた。
「仕出し女になるのではなく、東の砦に住み込みで働いて欲しい。それほどお前の仕事っぷりは評判がいいのだ」
「いやー、そんな」
照れる彼女に、軍人は一歩近づいて続ける。
「砦で暮らすとなれば、天涯孤独のお前は将来が不安かもしれないが、嫁ぎ先には私が責任を持つ。軍人たちの中には、そなたを貰い受けたいという者もいてな。……私も、その中の一人だが」
そこまで聞いた所で、オリーヴはスーッと冷めてしまったのだ。
(あたしがそんなにモテモテなら、二十四歳のこの年まで嫁き遅れてるわけないでしょっ!)
下町の女が軍の副司令官の妻になれば、完全に玉の輿である。誰もが憧れる、夢のような話だ。
しかし、ガーヌの町で暮らしているオリーヴには、そんなうまい話があるわけがないと思う理由があった。そもそも、オリーヴはとある理由から軍人が基本的に嫌いであったし、町の酒場などで東の砦の軍人たちには何度も会ったことがあるが、一度も色めいた誘いをかけられたことなどない。今になって急に複数の結婚話が持ち上がるのはおかしなことである。
(気前のいいお給金も嫁入り話も、きっと餌だ。何かある。絶対、砦になんか行きたくない)
しかし、軍人はかなり強引だった。
「荷物をまとめなさい。部下に運ばせよう」
といった調子で、話をどんどん進めてしまう。彼女は急いで言った。
「すみません、今、途中の仕事があるんです。放っておいたら染みがとれなくなっちゃう。ちょっと外で待っていて下さい、染み抜きに使う土とハーブの配合は結婚相手にも秘密にしろって、母さんの遺言なの」
そして、扉を閉めて軍人を締め出すと──
庭に出してあった大事な仕事道具を、袋に急いで詰め込んで、家の裏手から逃げ出そうとした。
そこに、声がかかったのだ。
「お前がオリーヴか」
立ち上がりながら彼女が振り向くと、狭い庭の中、手を伸ばせば届く距離に、『魔王』がいた。
オリーヴと同じ高さの目線に、赤い瞳。
『魔王』はオリーヴに向かって、手を伸ばしたところだった。しかし、長い爪のあるその手が、直前で止まる。
二人の視線が、絡み合った。声も出ないオリーヴを、『魔王』はじっと見つめた。彼女の目の前にあった手が顔から逸れ、顔の横に、彼女の頬に、触れようとする。
その時、
「魔族だ! 魔導師をこっちに!」
という大きな声がした。外から家の裏手に回ってきた軍人が怒鳴ったのだ。
すると突然、『魔王』はマントをバッと広げた。オリーヴの視界が暗くなり、彼女は急な眠気に襲われ、そのまま……
「あああ、しまったかも……!」
寝台の横に立ったまま、オリーヴは頭を抱えた。結い上げていた髪はほどけていて、彼女の自慢の黒髪が胸元に流れ落ちる。
「あの金髪軍人がいきなり来たのも、砦に誘われたのも、もしかしてあたしを守るためだったんじゃ?」
なぜなら、イドラーバ王バルジオーザはオリーヴの名前を知っていた。何かの理由で彼が「オリーヴという女」を狙っているとわかり、軍人たちは彼女を保護しに来た――そういうことであれば、急に彼女個人に誘いをかけてきた理由もわかる。
(「嫁」設定まではやりすぎだと思うけど……とにかく、あたしを怖がらせないように詳しいことは伏せて連れ出そうとして、でもそこへ魔王が……きっとそうだ。魔導師まで待機してたらしいのが、その証拠!)
「軍人がいきなり来た理由はこれでわかったけど、今度は魔王の花嫁って……何なの? きっとこれも理由があるんだ。魔王がわざわざあたしを狙ってさらった理由が」
オリーヴは考えながら、その場でぐるぐると歩き回った。
ふと気づくと、仕事道具の入った布カバンは寝台の横に置いてある。他国の城で監禁されている時に、仕事道具だけあったところでどうしようもなく、オリーヴは再びぐるぐる歩きに戻った。
狙われ、さらわれ、だがしかし殺されてはいない。生き血も吸われている様子はない。考えれば考えるほど、オリーヴは混乱した。
(あんなに距離を置いて近寄ってこないってことは、慰み者にする気も……ない? それとも、これから?)
オリーヴは、さきほどバルジオーザが覗いていた扉を、横目で見た。
そして、すり足で扉に近づいた。レバーを握り、ゆっくりと下げる。
ガチャッ、と音がして、扉は開いた。鍵はかかっていないのだ。
(ここから出ようとしたら、どうなるんだろう)
彼女は、レバーを引いた――