17 一つ屋根の下で
「これでわかったでしょ? あたしとあまり仲良くすると、領主様に睨まれるってわけ。下の息子──母さんを巻き込んだ男の弟が領主を継ぐんだろうけど、弟の方も母さんを恨んでるし」
オリーヴはうつむいて、続ける。
「ガーヌの人たちは、優しいの。母さんが悪くないのをわかってて、あたしを気にかけてくれてた。お店をやっていれば、そういう人たちが染み抜きを注文しがてら、あたしに会いに来てくれる。あたしとおしゃべりしてくれる。家族として一緒に生きてくれる人はいなくても、こんな風に穏やかに時間が流れて、年を取っていくなら、それでもいいって思ってた。でも」
顔を上げたオリーヴの、深い緑の瞳が、バルジオーザを鋭く射抜く。
「二百年? ここで? 冗談じゃないわ!」
そんな彼女に、バルジオーザは引き込まれるようなものを感じていた。怒りに頬を紅潮させ、目を潤ませたオリーヴは、美しかったのだ。
その一方で、彼は苦しさも感じていた。怒る彼女も美しいだろうと想像し、そしてそれを見ることが叶ったのに、なぜか辛い。
(なぜだ。オリーヴが、辛いと感じているからか?)
バルジオーザが黙ったまま、何もできずにいるのを、テーブルの向こうのオリーヴは彼が怒っていると思ったようだ。ハッとしたように表情を変えた。
「ごめん、なさい……でも」
「わ、我が冗談を言っているように見えるか? ハハッ。イドラーバの王たる我の方が、ガーヌの者たちよりもお前のそばにいるというのは、皮肉なものだな!」
ようやくバルジオーザは笑い、続ける。
「身体が慣れれば気分も変わるだろう。町も見に行くのも叶えてやる。領主のことなど関係なく何でも好きにできるし、それに、そう、お前が言ったのではないか。我とお前は、家族だと」
オリーヴの意志に関係なくさらったのはバルジオーザだが、その結果、彼女は彼という家族を得たことになる。
(それでいいではないか。同時に我も……そう、我も家族を得た)
バルジオーザ自身も、今まで一人だったのだ。
今さらながらにそれに気づいた彼は、口をつぐんだ。
「…………」
指先で涙をぬぐったオリーヴも、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は顔を上げる。
「……あの」
バルジオーザは、緊張を隠しながら答える。
「何だ」
「あなた、あたしがいかにもフォッティニア人だから近づいてこないんでしょうけど、あたしがもっともっとイドラーバに染まったら、近づくの?」
ぐっ、と彼は詰まった。
オリーヴに近づきすぎれば、バルジオーザは辛抱できなくなる。その自信が彼にはある。
その結果、オリーヴが彼の子を産むと思うと彼はウハウハしてしまうのだが、生まれた子が彼を殺せばどうなるか。
いつも、彼が死んだ後の事に思いを馳せるところまでなかなかいかず、その手前のオリーヴとのあれこれの妄想に浸かってしまうバルジオーザである。
「ねえ、どうなの? 教えてよ」
問いつめるオリーヴに、我に返るバルジオーザ。
(イドラーバに慣れる慣れないは関係ない。本当なら今すぐ抱きしめたい。しかし予言が本当になれば、オリーヴは自由になって他の男にっ……)
あの予言のことは、バルジオーザはオリーヴに教えたくなかった。
なぜなら彼女が、誰の子でもいいから産むべきだと思ってしまうかもしれないからだ。そう思った時、彼女にとって一番手っ取り早いのは、今近くにいるバルジオーザを誘惑することである。
「お前は何も知らなくて良い」
だらだらと首筋に汗をかきながらも、バルジオーザは余裕のあるふりでそう言ってグラスを傾けた。オリーヴは苛立った声で尋ねる。
「あたし、本当に、あなたの妃なの?」
「そうだ。逃げることは許さぬ」
彼がきっぱりと言うと、オリーヴは顔をゆがめ、震える声で言った。
「汚いものみたいに遠巻きにされたまま、フォッティニアの敵の妃として罪悪感を覚えながら暮らすなんて。そんな孤独に耐え続けるくらいなら、あたしは死んでもいいから逃げたいっ」
「何だとっ」
感情が高ぶり、力が膨れ上がるのを感じたとき、オリーヴはひときわ大きな声で言った。
「せめてもう少しくらい、近くで暮らしたらどうなのよっ」
膨れ上がったバルジオーザの感情が、すーっ、と元に戻る。
(……もう少し、近く?)
オリーヴは続けた。
「誰かの気配くらい感じたい。せめて同じ建物で暮らしてもいいじゃない。家族、なんでしょ?」
(家族)
その言葉を聞いたとき、バルジオーザは反射的に答えていた。
「わかった、そうしよう」
「ほんと?」
オリーヴは観察するように、彼をじっと見つめる。
「絶対よ。あたしが部屋を移動する? それとも、あなたがあたしのいる建物に来るの?」
「か、考えておく。いいからお前は、今日はもう部屋に戻れ」
「約束ね?」
念を押すオリーヴ。バルジオーザがうなずくと、彼女もうなずき――そして、薄い笑みを見せた。
オリーヴは立ち上がり、一度扉のところで彼を振り返ってから、食堂を出て行く。
しばらくの間、グラスを見つめていたバルジオーザに、声がかかった。
「約束なんて、本気ですか」
背後の垂れ幕の陰からギルフが現れ、彼に近寄る。
「こりゃ、予言が当たるかな」
「うるさい」
バルジオーザは立ち上がった。
「オリーヴが死ぬのは我慢ならん。家族として我が近くにいなければ死ぬ、というなら、そう振る舞ってやる。それ以外は今まで通りだ。別棟の四階に、我の部屋を用意せよ!」
ギルフは無言で肩をすくめると、バルコニーから飛び立って行った。
バルジオーザはそれを見送ると、もう一度グラスを手にする。
しかし、それを傾けることなく、
「……三階の方が良かったかな……オリーヴと同じ階の。いや、やはりそれはまずい、昼間にばったり会う可能性があるではないか。いやいや、オリーヴの方が四階に来たり? 部屋にやってきて『だって家族だし』などと言われたらどうする? ええいうろたえるなバルジオーザ、空間をゆがめていちいち距離を取ればいいだけの話だ。……ところで、我もあの浴場を使うか? 中でばったり会う可能性があるではないか。家族なら当然か? いやいやいやいや」
と様々な可能性を脳裏に描き、食器を下げに来たクリーチィに怪しまれたのだった。
翌日。
バルジオーザはオリーヴの部屋の前の廊下で、窓の外を眺めていた。部屋の扉からは距離を取り、階段の近くに立っている。
どれくらい待っただろうか。オリーヴの部屋の扉が開く、カチャッ、という音がした瞬間、彼はサッと歩き出した。扉には、背を向けて。
背中に、オリーヴの視線を感じる。
(そうだ、我を見ろ。我の動きを視線で追え)
バルジオーザは階段を上り、四階へ向かった。
「……よし。オリーヴは偶然、廊下で我を見かけた。我は階段を上っていった。ということは、我が同じ建物内にいるということはひとまずわかっただろう。よしよし」
ぶつぶつつぶやきながら、彼は四階中央の部屋に入った。ここが、新たなバルジオーザの私室。オリーヴの部屋の、真上である。
この下に、オリーヴがいる――バルジオーザはそう思いながら、絨毯の敷かれた床を見つめた。
(もしこの床に小さな穴を開けたら、オリーヴが見え……いやいや)
彼はかろうじて、それはやりすぎであり王の矜持に関わるということに気づく。
(そうだ。例えば、オリーヴが洗濯するものを探しに出たときに、廊下のテーブルにさりげなく茶器を置いておくのはどうだ? 我がここで茶を飲んでいたのだな、と、オリーヴは「夫」の存在を感じ取ることができるではないか)
「我はここにいるぞ、オリーヴ。だから安心して暮らせ」
バルジオーザはまたもやつぶやきながら、部屋の中をぐるぐると四周した。足音で彼女が彼の存在を感じ取るといいと思ったのだが、よく考えるとそこまでこの床は薄くなく、意味がない。
「オリーヴの部屋の前を歩いてくるかっ」
彼は部屋を出て一階下に降りると、廊下をうろうろと往復し始めた。