16 オリーヴの過去
目を覚ましたオリーヴが最初にしたことは、重い腕を上げて自分の頬に触れてみることだった。
少し、肌が突っ張ったような感じになっている。涙が乾いた跡だ。彼女の涙ではない。
(魔王の、涙? ……あれは、現実だったの……?)
図書室の予言録で予言を知った彼女は、その後、一階への階段を見つけた。玄関ホールから外に出て庭園をつっきり、その先の正門までたどり着いたものの、そこは閉まっていて出られなかった。そこで、他の出口を探しているうちに時間がかかりすぎ、とうとう意識を失ってしまったのだ。
『我は、『この女だ』と思った。お前が良い、それだけだ』
朦朧としながらも、彼女はバルジオーザの声を覚えていた。
頬に感じた、彼の涙も。
(あれが、夢じゃないなら。ううん、夢じゃない方が、腑に落ちる)
青空の天井を見たまま、彼女は思いを巡らせる。信じられないようなことではあったが、「そうだったんだ」と、彼女の心がそれを受け入れている。
(魔王は、あたしに、恋をしている……?)
数日が経った。
寝台から起き上がれるようになったオリーヴは、中庭に出て自分の枕カバーを洗った。その翌日には、数日ぶりに身体を綺麗にしたくなり、浴場にも行った。
日々の生活に疲れることがだんだんなくなり、体調が戻ったのを感じた彼女は、久しぶりに夕食をバルジオーザと一緒にとることにした。
「死の淵から舞い戻ったか。これに懲りたら、もう二度と逃げ出そうなどと考えないことだな!」
相変わらず、脅しつけるような物言いの割に、バルジオーザはテーブルの彼方にいる。
(何なの、まるで近づいたら妊娠するみたいに遠巻きにしちゃって)
オリーヴは内心で呆れた。
(あたしを好き、なら、こんなに距離取らなくたって)
そんなことを考えながらじっくり観察してみると、彼は長い指でグラスの足を摘んだまま、中の葡萄酒をぐるぐる回し続けていた。ソワソワしているようにも見えるし、どこか嬉しそうにも見える。
バルジオーザがオリーヴを、気に入っているどころか好きらしい――そう知って以来、オリーヴの心からは恐怖が消え、気持ちに余裕ができていた。
なぜなら、バルジオーザが彼女を好きでも、彼女は彼など好きではないからだ。ただの囚人ではないのだ、自分の方がほんの少し優位に立っているのだ、という気持ちになるのも、無理はなかった。
調子に乗ってはいけない、とオリーヴは自分を戒める。
恋など、いつ冷めるかわからない。バルジオーザがオリーヴに飽きたら、今度は確実に殺されるだろう。あまり、彼を刺激しない方がいい。
しかしそう思う一方で、殺すなら殺せというあきらめの気持ちもあった。本当なら、彼がオリーヴを見つけたときに失っていた命だからだ。
殺されると決まっていて、いたずらにその日が引き延ばされるのは、辛い。
「あの……質問しても、いい?」
オリーヴは尋ねる。バルジオーザは軽く顎を上げ、続きを促す。
「あたし、怖かった。イドラーバに身体が慣れたら、その時どうなっちゃうのかって。あたしにも、角が生えたり、するの?」
「ふん、なるほどな。我から離れようとしたのではなく、身体が変わってしまうのが怖くて、つい逃げようとしてしまったというわけか」
魔王は微妙にズレた理解をしながらうなずき──オリーヴは身体が変わらなくとも逃げたいのだが──言った。
「角は、この世に生を受けたときに生えていなければ、もう生えぬ」
オリーヴは、良かった、と胸を撫でおろす。
いずれ死ぬのであれば、フォッティニア人のまま死にたかった。
しかし、バルジオーザはこう続けた。
「変わるのは、寿命だな」
「寿命……?」
「イドラーバの民は、総じて長生きだ。そして、かつてイドラーバに連れてこられたフォッティニア人が、二百歳まで生きたという記録がある。おそらくオリーヴも長く生きるだろう」
かしゃん、と、オリーヴはスプーンを落としてしまった。バルジオーザは軽く目を見開く。
「ど、どうした。気分でも悪いのか」
「にひゃく、ねん」
オリーヴはつぶやいた。
「フォッティニアに、帰してもらえないのに……そんなに長く、イドラーバで生きなくちゃならないの? ひとりぼっちで?」
「な、何を言っている。お前は我の妻だ、どこがひとりぼっちなのだ」
「何言ってるの、はこっちの台詞よ、ひとりぼっちでしょうが! 近寄っても来ないくせにっ」
今までは、思ったことをそのままぶつけることなど、オリーヴにはできないでいた。しかし、バルジオーザよりも優位に立っているという事実が、彼女のタガを外してしまったのだ。
オリーヴはまくし立てる。
「あ、あたしはね、母さんやばあちゃんが守ってきた大事な店を受け継いだから、ガーヌで暮らし続けてたけど、本当は寂しかった。だって、ガーヌの人たちは、本当の意味ではあたしと仲良くなんかしてくれないから。ここでもひとりぼっち!? しかも、二百年も続くの!? そのために……あたしを王妃として長くそばに置くために、あたしが身体をイドラーバに慣らすことに反対しなかったって、そういうこと!?」
「なぜお前は、ガーヌで除け者にされていたのだ。オリーヴはこんなに愛らしゴホッゴホッ」
バルジオーザは咳込んでいる。オリーヴは構わず話した。
「教えてあげるわ。あたしの母さんは、若い頃から美人で評判だった。軍人の子を身ごもらされて捨てられてから、男に懲りて、いくら誘われても応えなかったけど」
初めて彼女は、バルジオーザに自分の過去をぶちまけた。
オリーヴの母が二十九、オリーヴが十二になった年のことだ。
ガーヌ領主の息子が、長らく離れていた領地に戻ってきた。親戚のところで何やら勉強をしていたというその息子は、美しいオリーヴの母にひと目で惹かれ、付きまとうようになったのだ。しかし、相手の気持ちは一切無視で、強引だった。
結婚もせずに子を生んだ女など、未来の領主夫人にはふさわしくないと、領主夫妻は反対した。そもそもオリーヴの母にその気がなく、領主夫妻もそれを知っていたので、諦めるのが当然だと息子を諭した。
両親とうまくいっていなかった息子は、ますます意固地になった。そしてある日の夜遅く、オリーヴの家に押し掛けてきてこう言ったのだ。
「家を捨てる。どこか遠くで俺と生きよう!」
今のオリーヴなら、なんと独りよがりな男なのだと呆れながらも、冷静に対処方法を考えることができたかもしれない。しかし、当時の彼女はまだ十二歳。目をギラギラさせて腰に剣も吊した男が、ただ恐ろしかった。無理矢理母の手を引いて家から連れ出そうとした男に、「やめて!」と駆け寄った時、いきなり蹴りつけられて倒れ──恐怖で動けなくなってしまったのだ。
「オリーヴ! やめて、やめてよっ、一緒に行くから! オリーヴ、待ってなさい、母さんちゃんと帰ってくるから! 何日かかっても、絶対逃げて帰ってくるからね!」
そういいながら男に引きずられていく母を、彼女は戸口にへたりこんだまま見ているしかなかった。
結局、オリーヴの母は、帰ってこられなかった。
男は、どこか遠くで彼女の母と暮らすために、現金や金目の物を山ほど持ち出していた。働くことを知らない貴族には生活力がないため、そういったものが必要だったのだ。
金目の物を持った身なりのいい男が、女連れで、夜に人気のない道を行けばどうなるか。
二日後、男と母が、町の外の森を貫く街道沿いで死んでいるのが見つかった。強盗に襲われたらしく、金目の物は全て奪われていたという。
領主は、息子がバカなことをしたと、オリーヴに謝った。ひとりぼっちになってしまった彼女に、家は無償で貸すから住み続けて良い、困ったことがあったら助ける、と言った。
しかし、領主夫人は彼女の母を、息子の死の原因になった女だと恨んだ。金目のものを狙った女が、息子をたぶらかしたのだと。
そのまま夫人が寝込み、この世を去ってからは、領主もオリーヴに声をかけることはなくなった。まるで、彼女がガーヌにいないかのように。
そして。
『母さんちゃんと帰ってくるから!』
最後の言葉を胸に抱きながら、オリーヴは母の大事な店で、染み抜き屋を再開したのだ。