14 魔王の不在
それから、数日が経った。
バルジオーザが見守るオリーヴは、身体がなかなかイドラーバに慣れないようで、浴場の帰りなどにふらつく様子を見せている。しかしそれでも、食事の際に彼に笑いかけたり、挨拶したりする様が健気であった。精神的には、イドラーバに慣れてきているのだろう。
同時に、彼は驚いてもいた。勝手に連れてきたオリーヴが、彼に好意を持つなどとは思ってもいなかったし、好かれようとして接しているわけでもなかったからだ。しかし、オリーヴはイドラーバでの生活を自分で居心地良くしようとし、そしてバルジオーザとの関係も心地良いものにしようとしているように見える。
彼女はイドラーバの食べ物も、果物に続いて野菜を口にするようになった。洗濯も相変わらず毎日していて、カーテンなども洗い始め、別棟のオリーヴの部屋を中心に明るさが変わってきたような気さえする。
そんな彼女の様子はもちろん、バルジオーザにとっても悪いものではなかった。
「オリーヴ、閉じこもっていてやることがないからといって、お前は王妃だぞ。そんなに別棟の布類を美しくしたいのなら、洗い方を教えて使用人たちにやらせればよい。お前はお前で、もっと贅沢に過ごせばよいのだ」
夕食の時に、彼はまたも強い調子を装って尋ねてみた。
内心、「こんな風に言ってやるのも、なかなか夫らしいな……」と得意に思ったが、それは隠しておく。
オリーヴは苦笑して、首を横に振った。
「贅沢にって、言っても……そんな暮らししたことがないから、何をすればいいのか思いつかないし」
バルジオーザは鼻を鳴らした。
「まあ、お前のいいようにしろ。身体が慣れるまでの話だ」
身体が慣れれば、イドラーバの珍味も食べられるようになるだろうし、宝石──イドラーバで掘り出された宝石には強い力が宿るため、今はまだオリーヴの身を飾ることはできない──も好きに選べる。
(イドラーバ視察の旅に連れ出してやってもよい。今はオリーヴが庶民らしく暮らすことを望んでいるから好きにさせているが、わが城の生活に染まれば、オリーヴも王妃らしくなるだろう)
そういう意味で彼は言ったのだが、なぜかオリーヴは表情を固くしている。
「え、ええ。そう、慣れるまで。慣れるまでは、あの、好きにさせてもらえると……あたしも体調に合わせて、過ごすから……」
うつむいて言ったと思うと、彼女はふと、顔を上げた。
「あなたは、こうやって毎日、あたしの食事に付き合うの?」
(当たり前だっ!)
バルジオーザは勢い込んで言いかけたが、あわてて言い直す。
「そうだ。我の暇つぶしだ。見張ることもできて都合が良い」
そう言いつつ、むしろオリーヴを見張るのが大好きなバルジオーザである。
「…………」
オリーヴは少し黙っていたが、口を開いた。
「あたしは、一日に一度だけど、誰かと話ができて嬉しいから……」
どくん、と、バルジオーザの胸が高鳴る。
(オリーヴは、我と話をするのが嬉しいと……?)
思わず、「夫婦なのだから会話くらい当たり前ではないかっ」と言いそうになったところで、オリーヴが続けた。
「お店をやっているとね、人と会話ができるから、好きだった。あたし、母さんを亡くして、家族がいなかったから。……あの、聞いてもいいのかな……あなたの両親は、どうしているの? ええと、王族だから、あなたのお父さんがイドラーバの王だった……のよね?」
「何だ、フォッティニアの民は何も知らんのか」
バルジオーザは呆れ、答える。
「王が死んだとき、イドラーバの民の中で最も力の強い者が、『王の力』を受け継ぐ。他の者に力を分け与えることができるようになるのが『王の力』、ということだな。強い者なら誰でも王になり得るが、王族の力は格段に強いから、我の知る限りでは王族が脈々と受け継いでいる。我も、父親が死んだ時に受け継いだ。一度も共に暮らしたことはないがな。母親の記憶もおぼろげだ」
「そう、なんだ……。あなたが受け継いだのは、いつ?」
「さあな、四百年ほど前か」
「そんなの知るわけな……あ、いえ、ええと……じゃあ、あなたの兄弟は? 兄弟姉妹の中で、例えば弟や妹の方が力が強いってことも、あるの?」
オリーヴの質問に、彼はつい、笑い声を漏らした。
「本当に、何も知らないのだな。王族からは、子は一人しか生まれぬ」
「そうなの……?」
オリーヴは、深い緑の目を丸くしている。その様子の可愛らしさ、その花のような唇に、バルジオーザは見とれた。オリーヴはさらに質問する。
「え、それじゃあ、家族がいない……?」
「お前も一人暮らしだったな」
彼は機嫌良く、グラスを揺らす。こんなところに共通点があるとは、と思ったのだ。
(まあ、元々家族というものなど持ったことのない我と、家族を失ったオリーヴとでは違うのだろうが)
すると、オリーヴは上目遣いになって、こう言った。
「じゃあ、あなたにとって、あたしが初めての家族ってこと?」
──カシャーン……──
バルジオーザの手からグラスが滑り落ち、床で砕けた。
「あ」
腰を浮かせるオリーヴに、彼は素早く立ち上がって鋭く言う。
「近寄るなっ!」
オリーヴが固まった。わなわなと、バルジオーザは手を震わせる。
(今、オリーヴはなんと言った? ……我とオリーヴが、家族?)
思ってもみない言葉だった。バルジオーザはただ、ひと目見て欲しいと思った女をさらってきて閉じこめ、彼の妻としただけだ。オリーヴがどう思っていようと関係なかった。
それなのに、オリーヴがそんな風に思っていたとは。
驚愕の後を追うように、歓喜が押し寄せた。
今すぐオリーヴに駆け寄って抱きしめてあんなことやこんなことをしたい、という欲望が、バルジオーザの身体の中心からうねるようにして盛り上がってくる。
(まずい、このままでは……!)
「もう食事は、終わったのか」
彼が絞り出すように言うと、オリーヴはおびえたように答える。
「は、はい」
「では、部屋に戻れ」
低い声で、バルジオーザは言った。オリーヴはガタンと音を立てて椅子を離れると、小走りに食堂を出て行った。
彼はよろよろと彼女の後を追い、扉の枠に捕まりながら廊下に出る。角に意識を集中し、オリーヴの部屋に廊下をしっかりと繋いだ。もう二度と、失敗するわけにはいかない。
彼女の気配が別棟におさまるのを確認すると、バルジオーザはすぐにマントを翻した。バルコニーに駆け寄る。
そして、月も星も見えぬ夜空へと飛び立った。
爆発しそうなおかしな心を、発散させなくてはならない。
(戦いだ、我に戦いをよこせ……!)
――オリーヴが目を開いたとき、部屋の中は薄暗かった。
昼間は天井を透かしてか光が入ってくるのだが、まだ夜明け頃ということだろう。
オリーヴは、昨夜のことを思い出す。
バルジオーザの様子が、変だったのだ。怒ったように見えたのだが、オリーヴには一切、手出しをしてこない。一体何だったのだろう。
そんなことを考えながら彼女が寝返りを打った時、頭に違和感があった。
「……?」
オリーヴは起き上がり、頭に手をやる。何か、固いものが手に触れたのだ。
はっ、と彼女は寝台から飛び降り、鏡台に駆け寄った。
目を見開いた、オリーヴの顔。そしてその頭には。
(角が──!)
「きゃあああ!」
悲鳴を上げ、オリーヴは飛び起きた。部屋は明るい。
「嫌、取って、とっ……」
つかむようにして頭に触ったとき、手に触れたのは髪だけだった。
オリーヴは転げるように寝台から降り、鏡台に駆け寄る。鏡には、青ざめたフォッティニア人の女が映っているだけだった。その頭に、角などない。
「……っはぁ、はぁ……夢……」
どっ、と汗が吹き出した。
身体がイドラーバの民のようになってしまうのではないかと思っていたために、あんな夢を見たのだろう。
トントン、とノックの音がして、オリーヴはまた悲鳴を上げそうになった。
扉が開いて、クリーチィが入ってくる。
オリーヴの顔色を見たクリーチィは、ぶわっと毛を逆立てて彼女に駆け寄った。
「チィ!? チィチィ!?」
「だ、大丈夫。ちょっと怖い夢を見ただけ」
寝台に戻ろうとするオリーヴに、クリーチィは手を貸そうとする。小さく可愛らしいと思っていたその手も、今の彼女には「獣」に見えて、少しだけ恐ろしい。「大丈夫」ともう一度言って、彼女はクリーチィの手を借りずに自分で歩いた。
寝台に腰掛けてため息をついていると、クリーチィは朝食の盆を運んできた。
「チィ」
「……ああ、うん……パンとお茶だけもらうわ」
オリーヴは盆の上を見て、言った。あのような夢を見た後では、イドラーバの食べ物を口にする気にはなれない。
「ちょっと疲れが出たみたい。入浴もやめておくね。洗濯は、気分転換になるから、するかもしれないけど」
そう彼女が言うと、クリーチィは「チィ」と返事をして、部屋を出ていった。
形ばかり朝食に手をつけ、しばらくゴロゴロしていたオリーヴは、やがて起きあがった。
(やっぱり落ち着かない、洗濯しよう。「フォッティニア人のあたし」らしく。今日は何を洗おうか?)
オリーヴは廊下に出る。しかし、近くの部屋のもので洗える大きさのものは、だいたい洗ってしまった。今日は少し、廊下の奥まで足を延ばすことにする。
曇り空を透かして、ぼんやりした陽光が落ちる廊下を進んでいくと――下りの階段が現れた。
(下り?)
首を傾げたオリーヴは、それからハッとして廊下の窓に駆け寄った。外を見下ろすと、今までは見えなかった地面が見える。そこは庭園のようだ。彼女がいるのは三階らしい。
(もしかして、今、この建物には魔王の力が働いていない……?)
オリーヴは即座に部屋に駆け戻ると、仕事道具を布カバンに詰め込み、また廊下に飛び出した。 さっき見た階段を駆け下りると、普通に降りることができる。いつものように、草原部屋の近くに戻されることもない。
(魔王、今、いないんだ!)
フォッティニアに戦いに行ってしまったのかもしれない――そう思うと胸が痛んだが、彼女にはどうすることもできない。
身体の方は、バルジオーザの前ではまだほとんど慣れていないように見せているが、始めの頃に比べるとずいぶん慣れていた。浴場や厨房でしばらく過ごしても、気分が悪くなることはなくなっている。
逃げる好機が来たのだ。