アゴルの笛
これは、有史には書かれぬおとぎ話。
一人の青年が、白く輝く笛を高らかに鳴らし、人々を脅かす魔物を退けたという英雄譚にして冒険譚。
青年の吹く笛は、誰も聞いたことのないような美しい音色を奏で、魔物のせいで傷ついた人々の心さえ癒したという。
大陸全土にまたがるように存在するこのおとぎ話を信じるならば、青年はどれほどの旅を続けたのだろう。それほどの人々の命を救ったのだろう。
ただ言えることは、笛を吹く青年の肖像画は、どれも悲しさと希望に満ちた表情をしているということだけである。
葬儀屋が埋めるのが仕事なら、アゴルは掘り返すのが仕事だった。今日も、いつものように笛の材料となるものを掘り返しに向かわなければいけない。自分の心と同じ空模様はどんよりとした灰色で覆われ、雨のにおいがする。降り出して土が柔らかくなると面倒だ。アゴルは急ぎ足でスコップと自衛のためにつくった骨笛を掴むと、埋葬場所へと向かう。
そこは小屋から南に森を少しぬけたところにある。アゴルは老けの入り始めた顔に不機嫌な皺をよせながら、森を抜けた。
これからまた、下劣に等しい行為をしなければならない。何度やっても、何年繰り返してもなれない行為は、手の豆がつぶれて固くなった今でも埋葬場所を直視することを避けさせる。しなければならないことなのはわかっている。しかし、森を抜けるとアゴルの視線は自然と地面へと向かってしまうクセがついてた。
「でも、そうしなければ生きてゆけないんだ」
そう自分に言い聞かせて、アゴルは埋葬場所へと視線を向ける。その一連は、いつもの流れだった。
ただ違うことがあるとすれば、アゴルの視線の先に一人の少女が倒れていたことぐらいだろう。
アゴルは最初、少女が墓から這いだした亡者かなにかだと思った。
ちょうど、アゴルが今日掘り返そうとしていた地点、そこに少女は横たわっていたからだ。小柄な体躯や顔の作りからいって年は自分の半分ほど、おそらく十代半ばあたりだろう。長い栗色の髪は土にさらされ、すっかり汚れている。服や顔も同様で、むき出しの細い腕や足は特にひどい。まさに、墓から這いだしてきたようだった。
自分をとり殺しにきたのだろうか。
「それもいい」
その権利が、彼らにはあるだろう。アゴルは少女に近づくと、頬の土を払う。現れるまだ幼いが整った顔立ちと、指先に伝わるかすかな温かさ。
思わず、舌打ちした。
「生きているのか……」
それは面倒だ。アゴルの脳裏にうかんだのは、そんな正直な言葉だった。
死んでいる人間は簡単だ。ちょうどいい、埋めてしまえ。亡者ならもっと簡単だ、この命でも差し出せば万事解決だ。
ただ、生きた人間となるとアゴルにはどう接すればいいのかわからなかった。若い娘となればなおさらだ。そんなもの、ここ十数年はおめにかかっていない。そんなものの対処の仕方を、師匠は教えてはくれなかった。
アゴルが、チクチクするあごひげをいじりながら考えていると、その鼻の頭に水滴が一粒。それを合図にしたように、空から雨粒がポツポツとリズムを刻み始めた。
そう長く考えている時間はない。
アゴルはもう一度、少女を見た。土にふれた部分の肌は赤くなりはじめ、顔色は真っ白だ。泥だらけの足も、よく見ると細かい傷があちこち見受けられる。
雨は少しずつ勢いを増してゆく。このままいけば、今晩は少なくとも降り続くだろう。
「ああ、もう。なんて面倒くさいんだ、生きているものは!」
アゴルはどううなりながら、少女を背負う。背中には確かな重みと温もりがあって、少女がまだ生きていることを否応なくアゴルに感じさせた。
「つれて帰るだけだ。気がついたら、とっととでてってもらうからな」
誰にでもなくそう言うと、アゴルは家へと早足でかける。
「わたしは……だか…………して、ください」
後ろで何事か少女が呻いたいたが、強くなった雨でアゴルの耳にははっきりと届かなかった。
すっかり雨に濡れてしまった少女に、アゴルは悩み仕方なく服を脱がして毛布にくるみ、暖炉の近くにころがしておいた。それから自分も着替えて、夕食のスープをつくり。窓をたたく音が、少し弱まってきた夜の始まり。
少女が目を覚ましたのは、そんな時だった。少女はうっすらと瞼を開ける。奥に見える青い瞳はぼんやりとした色をしており、アゴルはそれに危うさを覚えた。
少女は、不思議そうに左右と頭を動かし、そして自分の姿を確認し、最後に椅子に座るアゴルを眺めて、
「ここはどこですか」
瞳の色を変えないまま、尋ねた。それに、アゴルは少しだけ拍子抜けした。てっきり悲鳴のひとつでもあげられると考えていたからだ。状況が状況とはいえ、彼女をひんむいたのは自分だ。気絶している間に裸になっていれば、相応の反応を起こすのが普通だ。
(いや、面倒が減っただけだ)
これまでの経緯を話す必要がなくなった。アゴルはそう判断して、少女の質問には答えずに尋ねる。
「あんたは何者だ。なんで、あんなところにいた」
「あそこが、わたしの居場所だったからです」
とくに気にすることなく、少女は答えた。そして、薄く笑って、毛布を掴む。
「これをしてくれたのは、貴方ですよね? なら、わかるはずです」
そのまま、少女は毛布の前をはだける。露わになる、細く折れてしまいそうな少女の肢体。真っ白な肌に、薄く膨らんだ胸、そこからへそへの滑るように細くなめらかな腰と、まだ使われたことないだろう陰部。
そして、その未完成の美しさすべてを呑み込む、鎖骨からへそに至るまで走った醜い傷跡。
それが何者によるものなのか、いつも見ざる得ないアゴルには間違えようがなかった。
「魔物に負わされた傷か」
「はい。運悪く、生き残ってしまったのです。わたしは、もうヒトじゃないんです。フィーという少女を象った、呪いです」
この世界には、魔物と呼ばれる化け物がいる。剣も槍も、大砲も通じない人では倒せない化け物。それに傷を負わされたものは魔物の呪いを受け、土に拒絶される。その血は土地を汚し、不幸を呼ぶ。
だから人々は、魔物に傷を負わされたり殺された人間をこうして捨てにくるのだ。
「殺されは、しなかったのか」
「はい。村のみんなも、親しかった人の形をしたものを傷つけることはできなかったようです」
ここで、フィーと名乗ったはようやく笑顔を見せる。それは儚くて弱いけれど、少女のめいいっぱいの笑顔で。触れたときに感じた、温かさが宿っているように感じた。
本来、呪いを受けたものは害をなす前に殺されてしまうのが常だ。だから、ここにくるのは死体ばかりで、生者など見ない。彼女が例外なのは、その温かさが理由だろうと、アゴルは感じた。
「それで、ここはどこでしょう。地獄にしては温かいですし、土の中なら明るすぎます。それとも、あなたは奴隷商のかたでしょうか」
それなら、とフィーはかろうじて羽織っていた毛布を床に落とす。暖炉で熱をもち始めた肌と華奢な肩が露わになり、暖炉の光で揺らめいた。右手や足に巻かれた包帯ですら、どこか妖艶な雰囲気を加速させる代物になり果てている。
「こんなわたしでも、まだ求めてくれる誰かなどいらっしゃるんでしょうか」
「そうだと言えば、あんたは売られるのか」
「はい」
一息もなく、頷かれた。フィーは笑顔を浮かべたままだ。しかし、アゴルはもうそれに温かさなどみじんも感じなかった。
アゴルはひとつ、浅くため息。
そして彼女に近づくと、その肩に触れる。ぴくり、とフィーが驚いたように震えたのがわかった。しかし、それにかまわずアゴルは、
「ガキが、しなくてもいい覚悟をするな」
そのまま後ろに押した。フィーは受け身もとれないまま毛布の上にすてんと転んだ。アゴルはその上から、自分が足にかけていた毛布を投げつけた。
「そんな貧相な体じゃ、立つものもたたないね」
フィーは、呆然とこちらを見上げる。そして、次の瞬間朱に染まり身体を隠した。アゴルはあごひげをざりざりといじりながら、めんどくさそうに続ける。
「残念ながら、俺は奴隷商じゃない。あんたを求めることも、あんたを売ることもしない。その怪我が治ったらとっとと出ていってもらえると助かる」
そこで彼女は、やっと自分の治療跡に気がついたらしい。驚いた様子で、でもそっと包帯の上から傷に触れた。
「どういうつもりだったかは知らないが、あそこは人間の肉や髪、内臓なんかをあっと言う間に食いつくすやつらがうようよ土にいるんだ。一日ねっころがってたら、腕の肉の半分はもっていかれるようなのがな。遠回しな自殺にしても、えらい苦行だ」
返事はない。ただ、その言葉を噛み締めているようだった。
会話のない居心地の悪さに耐えかねて、アゴルはスープをよそうと、フィーへと差し出す。フィーは、不思議そうにアゴルを見上げた。
「はやくとってくれ」
「あ、はい。すいません」
言われるがまま器を手にとり、そしてそのまま黄色のスープを見つめていた。
「コーンスープが初めてってわけではないだろう。とっとと食って傷を治せ」
自分の分もよそって、口に運ぶ。彼女の胃の状態を考えたスープはお世辞にもうまいといえた代物ではないが、身体を温めるには充分だった。やがてフィーも口をつける。
こくり、こくりと小さく何度か喉をならして。
「……ッ」
こみ上げてくる感情を、下唇とまぶたをぎゅっとして閉じ込めた。毛布をぎゅっと頭まで上げて、顔を隠す。それでも伝わる嗚咽を、アゴルは聞こえないふりをしてスープを口に運ぶ。
スープは味気ないけれど、おなかのそこには温かさが広がっていった。
しばらくしてフィーは毛布を下げて、スープを口に運び出した。赤い顔は暖炉が近くにあるせいにして、アゴルも無言でそれに続く。
「ありがとうございます」
小さなお礼に、アゴルは得に反応を返さない。
「何か、お礼をさせてもらえませんか」
「あんたの身体に興味はないぞ」
そう言うと、彼女は胸元を隠して違います、と呟いた。
「あなたは、ここで一人なんでしょうか」
「そうだが」
「寂しくはありませんか」
「それはあんただろう。俺は、慣れてる。ここの、しがない山奥の笛屋にな。そして、もっとしがない笛職人の生活も」
腰にぶらさげたままの笛をフィーに見せる。笛は象牙でつくられたように白くすべすべしていて、しかし象牙に比べると細かった。力を込めたら、割れてしまいそうな代物だ。と、笛を見たとたん彼女の表情に変化が起きた。まず目をまん丸にして驚き、次に笛とアゴルを凝視し、そして一つ頷いて、瞳に輝きを取り戻していく。
まるで、生きる希望でも見つけたように。
(あ、まずい)
アゴルが何か一言口にしようとしたが、すでに遅かった。
フィーはがっと立ち上がると、アゴルの目の前にまで迫った。
「わたしを、弟子にしてください! そうすれば、この家の家事も全部やります、一緒にいられます。そして、わたしは生きて笛の作り方を学べま」
「駄目だ」
アゴルは即答する。しかし、フィーも引き下がらない。
「何故ですか? これ、魔物よけの笛ですよね。魔物に対する、唯一の対抗手段。それがあれば」
「対抗なんてできていない。こんなもの、魔物を遠ざけることしかできないガラクタだ。それに、この技術を後世に伝える気はない」
拒絶の意思を言葉にのせて、アゴルはきっちりといった。しかし彼女は、先ほその弱弱しさはどこえやら、さらにぐっと目に力を込める。
「いいえ、教えてもらいます。師匠」
「勝手に師匠呼ばわりするな」
フィーは、アゴルの裾をつかんで離さない。最後の希望にしがみつくように、強く強く握り締める。
突然変化した態度に、アゴルはしどろもどろになりながらも、きつい口調で告げる。
「お前は、笛作りを覚えてどうする。それがあれば、の続きはなんだ。魔物に復讐でもするつもりか」
フィーはそれに、少しだけ困惑し答えた。
「……わかりません。でも、今のわたしには」
それぐらいしか、生きる目標がないと。言葉に語らずとも、瞳が語っていた。しかし、アゴルもここで折れるわけにはいかない。彼女の手を乱暴に振りほどくと、背を向けて拒絶をしめした。
「なんと言おうと、笛作りを教えるつもりはない。もし、俺に許可なく工房に入ってみろ。殺してやる。わかったら、とっとと傷を治して山を降りろ」
低い脅しの言葉。しかし、少女から届く声に、
「いいえ、教わるまでは帰りませんから!」
まったく、あきらめの色はなかった。
翌日も、アゴルは埋葬地へと訪れる。昨日収穫できなかった分、土を掘り、そこから材料を取り出した。
「さぁ、いつまでもここにいてもしかたがない」
材料を掘り終えたアゴルは、それをバケツに入れて帰路ににつく。そうして、家の前まできたときだ。煙突から、ゆったりと白い煙があがっているのに気がついた。
(火の不始末か?)
そう思ったが、それなら昨日の時点で火事になっている。今朝はまだ火はつけていない。アゴルが訝しげながらドアを開くと、
「あ、おかえりなさい師匠」
フィーが振り向いて、そう挨拶した。翻る栗色の髪と、その奥に見えるのは割れた卵と薫製肉。ほのかに、香ばしいにおいがする。
「……なにをやっているんだ」
「家事、ですけど。あの……昨日、やると言いましたよね?」
「弟子はとらないといったはずだ。なにより、怪我が悪化したらどうする」
足の裏も、かなり傷だらけだったはずだ。しかしフィーはほがらかに言った。
「大丈夫です。なにもしない方が、よっぽど体に毒ですから。その、やらせてください」
そう、彼女は一生懸命に頭を下げる。小さくなっているのは昨日と同じだが、様子はうってかわった、本当に明るいものだ。前を向く、希望に満ちているようで。
アゴルは、突然左手のバケツの中の正体を彼女に知らせたくなった。なぜだろう、その明るさが怖くて、壊したくなった。
しかし、アゴルがそれを口にする前に、
「今できますから、座ってください」
そう彼女にたしなめられて、おとなしく座ってしまった。久々に誰かととる朝食は、確かに温かかった。
そんなわけで、アゴルと少女の不可思議な共同生活が始まった。フィーと名乗た少女は、笛の作り方を教えてくれとことあるごとに頼みこんできた。アゴルはそれをあしらいつつ、日常をこなす。毎日毎日、「生きるにはこうするしかない」と口にして、笛をつくった。
生活が楽になったのは、くやしいが確かだった。少女は少し抜けたところがあるもののてきぱきと働き、手際も悪くない。二日としないうちに、それまで荒かった部屋がきれいに片づいていた。
そして、日をおうごとにフィーはよく笑うようになっていった。最初に見た姿をアゴルが幻かと勘違いするほど、常に笑顔を浮かべているようになっている。おそらく、それがフィーの本性なのだろう。アゴルは彼女が笑顔を取り戻していくたびに、そう感じた。そして今までいかに自分が生きていなかったかを自覚させられた。
そんなある夜。夕食を終えたアゴルは、椅子に座りキセルでたばこを吸っていた。洗い物を終えたフィーが戻ってくると、そのにおいに顔をしかめる。
「師匠。たばこ、やめませんか。体に悪いです」
「弟子をとった覚えはないぞ、フィー。そして、よけいなお世話だ」
ふかーとフィーに向かって煙をぶつけると、フィーはさらに顔をしかめてせき込んだ。
「意地悪しないでください、師匠。ついでに、笛の作り方を教えてください」
「どこがついでだ。だいたいなぁ、フィー。そのうち、笛はなくなるんだ」
アゴルの言葉に、フィーは驚いたように目を丸くすると、暖炉の前に座った。フィーの、話を聞く体勢だ。ここ数日で、しっかりその様子を読みとれるようになってしまった。
「どういうことですか? 笛がなければ、魔物を追い払えなくなるんじゃ」
「おまえは、人間の力をなめすぎだな。遙か太古から、人間は絶対に勝てない相手に勝ち続けてきた種族だ」
タクトのように、キセルをふるう。
「今も、大砲なんていう昔じゃ考えられない馬鹿げた威力の兵器まで作るようになってきている。そうだな、あと二十年……それぐらいすれば、世界は魔物におびえる必要なんてなくなるだろう。俺の代で、笛は見事に廃業だよ」
これは、予知に近い予測だ。今でこそ技術を独占しているが、魔物を退治できる兵器が作られれば、かなりの富が生まれる。富が生まれるならば、人間という生き物はどこまでも突き進めるものだ。実際、最近訪れる各国の使者の態度にも、今に見ていろといいたげな雰囲気が時々見て取れた。
しかし、フィーは納得がいかないらしい。うんうんとうなった。
「本当に、いらなくなるでしょうか」
「なぜだ。魔物を倒せれば、それが一番だろう」
「でも、その技術を持てるのは大国だけですよね」
その言葉に、息がとまった。
「じゃあ、ちいさな村はどうするんですか。わたしがうまれたような細々とした生活しかできない村は、笛がなければ死んでしまうでしょう」
そのとおりだ、アゴルは心の中でうなづく。ここから滅多に外にでないアゴルには、そんな簡単なことさえ思い至らなかった。ただ、自分が笛を作らなくていい未来を夢想して、現実を見ていなかったのだ。彼女ののうが、よっぽど広い視野を持っている。
「そのときは、どうするんですか」
とっさに答えのでないアゴルは、とっさにうそぶいた。
「そうだな。そのころはどうせ俺も廃業だ。最後に笛つくって、それを吹き鳴らして歩くさ」
その冗談に、フィーはくすくすと笑ってくれた。それはすてきです、と笑顔の彼女をアゴルは直視できない。
ただ、ゆっくりと重ねられた手が暖かくて。アルゴはその日、初めてフィーの前で無防備な寝顔をさらすことになった。
この時アゴルはまだ自覚していなかったが、彼の心も少しずつ変わりつつあった。おそらくは、人間らしい方向に。
不器用ながらに、ゆっくりと前に進み始めいた。
フィーを拾ってから、どれだけの月日が流れただろう。一月は、ゆうに経っている。しかし一向にフィーは山を降りる気配を見せず、なぜかアゴルも出て行けとはもう言えなくなっていた。
それがどのような心情変化かわからず、アゴルは微妙に心地が悪かった。最近は、なぜかフィーとまともに面と向けて話せないし、どこか応対もおざなりだ。
「らしくない……」
そう、一人呟いたときだ。扉から、とうの悩みの本人が顔を出した。
「師匠」
「な、なんだ」
固い返事。フィーは少しだけ首を傾げてから、すっと身体を引いた。
「お客様です」
「どうもご無沙汰しております、アゴル殿」
そう挨拶する老人の胸元に光る、ドラゴン二頭のバッジ。王都の紋章だ。高級そうな服と、鼻につく香水は相変わらずだった。
「フィー、仕事がまだ残っていただろう。席をはずせ」
「は、はい」
頷いて扉を閉めるのを確認してから、アゴルは老人に椅子を勧めた。老人は、椅子に座ると何やらいやらしい笑みを浮かべる。アゴルは無視して話を切り出した。
「王都の使いか。新しい笛か」
「はい、とびっきり強いものを、と王がおっしゃっておりました。これが、謝礼です」
中身は大量の金貨。アゴルはそれを確認すると、頷いた。
「以前より効果を強めるとなると、ありあわせのものでなく新たに制作しなければならない。一週間ほどいただきたいが」
「かまいませぬ。ところでアゴル殿。以前の話、やはりお受けになりませぬか」
「なんのことだ」
わざとらしくとぼけるアゴルに、老人は少しだけ声に怒気を孕ませる。
「王都専属の笛師になるという話です。王直々のお言葉だというのに、お忘れになったとは言わせませぬぞ」
「あいにく、興味のないことなんでね。必要なこと以外は覚えているほど余裕がないだけさ」
それが返事だとばかりに、アゴルはタバコに火をつける。しかし、いつもと違い老人は引き下がらない。
「なんなら、表の娘でもかまいませぬ。彼女は、アゴル殿のお弟子なのでしょう」
「あんたにはさんざん言ったはずだがな。俺は弟子はとらん。あれは、森に迷ったガキを保護しているだけだ」
「ならば、我らが王都に連れ帰っても問題ありますまい。待遇は、保障いたしますぞ」
かん、とキセルから灰を落として。次の瞬間には、そのキセルは老人の手の横に突き刺さっていた。
机の上でその身を震わせるキセルに、老人の表情が固まった。
「帰れ。これ以上何か抜かすようならば、お前らが魔を退ける音色を耳にすることは二度とないぞ」
さっと青ざめた老人は、「それでは一週間後に」と頭を下げると出て行った。去り際に、
「後悔してもしりませんぞ」
そう言ったのを、アゴルは確かに聞いた。閉じる扉。アゴルはそのまま刺さったキセルを眺め、そして自分が口にしたことを反芻し。
「……情けない」
自分が変わってしまったことを、そしてそれが心地よいと思ってしまったことを自覚した。
ようするに自分は、普通の暖かさを教えてくれたフィーのことをとっくの昔に大事に思っていたのだ。
離れたくないと、そんな甘いことを期待していたのだった。
「本当に、とんだお笑い種だ」
自虐の笑いは、しかしどこか楽しそうだった。
今日もいい天気です。真っ白に太陽を反射するシーツを広げると、顔も自然と笑顔になってしまいます。
「これなら、師匠もぐっすりとお眠りになってくれるでしょう」
シーツのはしをはさんで止めると、目に入るのは右腕の少し薄汚れた包帯。
ああ、わたしは師匠に嘘をついています。この下に傷なんて、もうとっくにありません。そんなもの、三日以上前に後すら残さず消えてしまいました。師匠の作るお薬は、やはりというべきか優秀でした。
本当なら、わたしはもうこの山を降りていなければいけません。それでも、今こうしてここにいます。
これは、わたしの自分勝手なわがままなのです。
でも、このわがままはどこからくるのか自分でもわかりません。もう帰る場所がないからでしょうか。どこかに行っても、受け入れてくれる場所があるか保障できないからでしょうか。師匠との生活が、楽しいからでしょうか。笛の作り方を学ばなければいけないでしょうか。
どれも正しいようで、どれもちがうような気がしました。
そしてそれは今でも結論が出ず、わたしはこうしてシーツに洗濯にと家事に精を出すことしかできないのでした。
「おや、ごくろうさまです。お嬢さん」
「はい?」
振り向いたそこには、さっき師匠を尋ねられたおじいさんがいました。半瞬遅れて、わたしは頭を下げました。
「ああ、すいません。お客様なのに、おかまいもできず」
「かまいませんよ」
おじいさんは柔らかく笑い、それよりと続けます。
「君は、アルゴ殿のお弟子さんでいいのかい」
「はぁ、私はそのつもりですけど。でも、笛の知識はまだいっさい教えてもらえていません」
それでも、師匠という言葉は偽りないつもりです。それを聞いた老人は、なんだかうれしそうに、でもどこか薄気味悪く笑いました。
「なんと! それはおかしいものですな。弟子、というからにはアゴル殿には貴方を育てる義務があるでしょうに!」
すると、おじいさんは「これはどうでしょう?」と私に近づき耳打ちしました。
「アゴル殿の工房にこっそり入って、笛の作り方をこっそり見てしまうのです」
「えぇ?」
思わず声を上げてしまいました。それはつまり、師匠の工房に泥棒をしにいけということでした。
「そんなの、無理です!」
「なぁに。必ず笛についてまとめた書物があるはずです。それを暗記してしまえばばれることなどありますまい」
確かに、師匠の就寝ははやいです。それに、朝は朝で工房の前にどこかに骨をとりに行ってしまうため、うまくやれば問題ないでしょう。
でも、それは師匠に対する重大な裏切り行為です。
「わたしは……」
「何を悩むことがあります。こんな辺鄙なところにまで笛の知識を求めにこられたのだ。貴方とて、魔物に恨みがあるのでしょう」
そのとき、脳裏に浮かんだのはあの時の惨状でした。
破壊される町。
赤で染められてゆく知人たち。
わたしを庇う二つの手。
切り裂かれる感覚。
「もしアゴル殿においだされても、我々が貴方の身を保障しましょう。
だから、どうか頼みますよ。これは、あなたのためでもあります」
わたしはそれに、はいと頷いていました。
そしてその夜、真実を知ったのです。
次の日。
アゴルは昨日頼まれた笛の材料をとりに、南に森を抜ける。
やはり直視はできず、一度視線を地面に向けて、
「でも、そうしなければ生きてゆけないんだ」
そう自分に言い訳を重ねた。そしてやっと、前を向く。
そこには、一人の少女が立っていた。
栗色の長い髪を朝霧で湿らせ、すっかり血色のよくなった少し焼けた腕の包帯を解き。
スコップを持つ自分を、まっすぐに見つめていた。出会ったときのような、失望のような光のない瞳で。
「答えてください、師匠。ここに、なにをしに来たんですか」
笛の材料をとりに来たんだ。
そう答えようとしたのに、言葉は喉をはりついて口から出ようとしなかった。しかし、答える必要などなかった。アゴルはいつものバケツとスコップという格好でここに来ている。フィーはいつも、バケツに何かをいれて帰ってくる自分を出迎えてくれていたのだから。
そして彼女がここに立っているということは、何かの確信をもっていると考えていい。
言い訳すら、必要のない状況だった。
「すいません師匠。師匠の工房に、勝手に入りました」
うつむいたまま、フィーは言葉を繋ぐ。
「あれだけ入るなと言われていたのに、約束をやぶりました。そして、勝手に本を読みました。謝ってすむこととは思えませんが、ごめんなさい」
全てに説明がついた。つまり、フィーは
「あれが、魔物に呪われた人間の骨から作られてた骨笛だってことを、知ったのか」
はい、と小さく頷く。そう笛の材料は、魔物によって殺された人間の骨だ。なぜなのか、魔物の呪いを受けた人間の骨でつくる笛にはそれらを退ける力がある。それは、魔物への怨嗟の怨念かはたまた呪いの副作用か。
でも、現在において魔物に対処できるのは、骨笛をおいてほかにはない。
「魔物に殺されなければ、笛はつくれないなんて、皮肉だろう」
そして、そんな無念の命の残骸をいじる自分は、なんという悪だ。
「フィー、お前は骨笛の作り方を学びたい言ったな。この実体を知ってなお、そう言えるか」
フィーは何も答えない。そして、それが答えだった。
壊れた、失った。そんな言葉が、アゴルの中に一瞬よぎった。
「じゃあ、やっぱり本当なんですね。本に書かれたことは」
「すべて、本当だ。俺は毎日、ここに死体を掘りにきている」
自分で言って、嫌悪感でいっぱいになる。三十路近い自分でもそうなのだ。十代も半ばのフィーが、どんな感情を抱いているかなんて想像もできなかった。
今度は頷きもしない。ただ、ぼやけた視線の先でかろうじてフィーの声が聞こえる。
「師匠、わたしは背中の傷を負わされたとき、ヒトを失いました」
いや、これは本当にフィーの声なのだろうか。暗く、発せられるたびに沈んでゆく重りのようなこんな声を出すフィーをアゴルは知らない。
「そして、同時に大切な人たちも失ってしました」
上げた顔には、涙。あの日にも見ることのなかった、フィーの涙だった。
「わたしの、おとうさんとおかあさんです。二人は、わたしをかばって魔物に殺されました。私は、それを見ていることしかできませんでした。何も――できませんでした」
アゴルは何も言わない。いや、言えない。言うべき言葉が、見つからない。
「わたしは、ここで大好きだった家族とともに朽ちようと考えていました。あの日、師匠が言った遠まわしな自殺……とても、的確な言葉です。自分で死ぬ勇気もないわたしは、あそこでゆっくりと死ぬのを待っているつもりでした」
励ましの言葉も、いたわりの言葉もアゴルは知らない。ずっと一人で生きてきて、これからもずっとそうだと思って生きていたから、必要ないと遠い昔にそれはおいてきてしまった。
「でも、師匠に拾われて。骨笛の存在を知ったとき、わたしは生きる理由を見つけました気がしました。あのとき、何も出来なかった自分をかえられるって」
だから、アゴルにはどうしようもできないのだ。
「でも、それはとんでもないまやかしだったんですね」
どうしていいか、わからない。
「師匠と暮らしていくうち、捨ててしまったたくさんのものを、また得ることができました。それは……あの絶望からは考えられないほど、とても、とっても幸せな日々でした」
フィーはまっすぐに、まるで必死に笑おうとしているような表情で。
「でも、あなたはその時間の中で、おとうさんとおかあさんを骨笛に変えたんですね」
崩れた表情のまま、それを隠そうともせずアゴルに鋭い視線を向けた。アゴルにできるのは、それに頷くことだけだった。
「おとうさんを掘り返して」
「ああ」
「おかあさんをばらばらにして」
「ああ」
「骨だけを奪い取って」
「ああ」
「肉を溶かして、骨をくりぬいて」
「ああ」
「それを売って、生きてるんですね」
「ああ、その通りだ」
いつもの通り、アゴルは言った。
「そうしなければ、生きてゆけないんだ」
自分の心の芯が凍りついた感覚が、アゴルにはした。
フィーは、そう頷いたアゴルを見てまた顔をくしゃりと歪め、
「……さよなら」
朝霧の中へと消えていった。靄に隠れて、その姿はあっという間に見えなくなる。
もうアゴルには、フィーの泣きそうな悲しげな顔しか脳裏に浮かべることはできなかった。
幸せと感じていた日々は、終わったと知り。それまで自分が幸せだと感じていたことに今頃気づいて、アゴルはいつぶりかわからない涙を一粒だけ流した。
でも、それで終わりだ。いつまでも引きずるわけにはいかない。
「だって、俺はそうしなければ生きていけない」
その一言で、いつものように区切りを付けて。アゴルは地面を掘り返す。
ざく、ざくと掘り返す音のたびに、心にスコップが刺さって感情をうばっていくようだった。
五日たってもフィーは帰ってこなかった。当たり前だ、両親を侮辱した相手のところに帰ってくるはずなどない。
そして、今も死者を愚弄し続ける自分には迎えに行く資格もないのだろう。
アゴルは、完成した骨笛を眺めながら、そんなことを思った。
(そういえば……)
「俺は、なんで生きたいんだろう」
遠まわしな自殺だった、そう言った彼女のことを考える。あの時のフィーには、生きる理由が見つからなかった。それなら、自分はどうだろう。生きる理由などあるのだろうか。骨を掘り起こすたび、罪悪感に蝕まれて自分を失っているようにさえ感じるのに、どうして生きているのだろう。
アゴルは、骨を削るナイフを逆手に構えた。狙いは胸元。これを突き刺せば、文句なしに死ねるだろう。
「別に、俺には生きている理由は見つからないしな」
ここで死ぬのも一興かもしれない。そう思うのに、ナイフを持つ手は一向に動こうとしない。自分のものではないようだった。
「俺は、何を恐れているんだ」
失うものなど、自分から手放し続けてもうないというのに。
と、そのとき。トントンと、控えめなノック音がした。
「……! フィー!」
寝転がった体勢から急いで起き上がると、ナイフと角笛を机に置き、扉を開ける。しかしそこにいたのは、二頭のドラゴンの紋章をつけた老人。
「おや、だれかとお間違えで」
「……なんだ、約束の期日にははやいが」
ジト目になるアゴルに、老人はゆかいそうにニタリと笑う。
「いえいえ、貴方様のことですからそろそろ出来上がっている頃合かと」
「けっ、鼻のいいことだ。ほらこれだ、持っていけ」
アゴルは老人に背を向ける。こんなむしゃくしゃした気分で、こんな老人の相手をしていられない。とっとと追い返してしまおうと机においた骨笛を取り――
乾いた破裂音と、肩に焼け付くような痛みを覚えた。
「おやおや、外れてしまいましたか。心臓を狙ったのですが」
遅れて、自分の左肩が銃で撃たれたことに気がついて、慌てて伏せる。その直後、二発の発砲音。机の一部がはじけ、角笛が木っ端微塵になった。
机を盾にするように蹴倒して、アゴルは傷の痛みに耐えながら怒声を上げる。
「何のつもりだ貴様! その笛は、お前たちの国の」
「もう必要ないのですよ、アゴル殿」
ひっひっひ、という老人の引き笑いが耳につく。
「先日、我らが開発した兵器が魔物を退けました。これからは、魔物を追い払うのではなく退治する時代です。我が国の技術があれば、もう貴方の骨笛など必要ないのです。いいえ、我々の利益のためには、邪魔でしかないのですよ」
「だから、殺すということか」
「ええ、わかりやすいでしょう」
いつか、骨笛なんて必要なくなる――そうフィーに話したことが、実現した。それはいいことだ、これでもうつらい思いをして笛を作る必要はなくなる。
しかし、殺されるとまで考えていなかったのは甘さか、それとも彼らがえげつないのか。どちらにしろ、やられた左肩は致命傷とまではいかずも重症だ。少なくとも、腕は上げられない。
そして、机を挟んだ先には銃を持った敵。戦い方なんてとんと知らないアゴルには、絶望的な状況だった。
「アゴル殿、いつまでそこにいるつもりですかな。かくれんぼは、子どもの遊びですよ」
「あいにく、あまり遊んだ記憶はなくてね。童心に戻るのも悪くないだろう」
そうですか、と老人は笑う。そして言った。
「ならば、貴方の弟子を先に殺してしまいましょう。わたしに唆されて骨笛の作り方を覚えていては、やっかいですからね」
罠だ、そう理解する前に身体が動いていた。机の盾から飛び出して、落ちていたナイフを拾う。
しかし、相手のほうが何倍もはやかった。自分の失策に気づいた頃には、老人の銃口はぴったりと自分に向けられていた。
「骨笛職人殿、おつかれさまでした」
老人が指を絞る。
(死ぬ)
そう、覚悟したときだ。
アゴルと老人の間に、影がさした。それはアゴルに向かうはずだった凶弾を受け止め、守った。
アゴルが、その闖入者が誰かを頭で理解する前に、
「し、しょう!」
向けられた言葉が、やるべきことをアゴルに自覚させた。アゴルはナイフを投げる。まっすぐに飛んだナイフは老人の眉間に突き刺さり、彼を絶命させた。
ゆっくりと倒れる老人に、アゴルは肩で息をしながら怒鳴る。
「ざまぁ……みやがれ! くそ野郎」
生還を果たした高揚から、そんな下品な言葉を垂れ流して。そして、すぐに自分が勝てた理由に思考が至った。
部屋に倒れ、腹を押さえる何か。その長く美しい栗色の髪を鮮血に染め、血の気がどんどん失せている白い肌と、青い瞳。
見まごうはずもなかった。
「フィー!」
抱き起こそうとして、彼女の腹を見てしまった。ちょうど右わき腹あたりに、小さな穴が開いていて、そこから赤い赤い血が溢れている。
アゴルの冷静な部分は、それだけで結末を理解してしまった。
「フィー、フィー! どうして!」
わからない。
わからない。
なぜ、フィーがここにいるのか。なぜ、自分を庇ったのか。なぜ、今笑っているのか。
「自分でも、わかりません」
フィーは、手を伸ばす。
「気がついたら、走ってました。何にも考えてなかったんです」
その手は鮮血で濡れていて。
「師匠が危ないと思ったら、身体が動いちゃってたんです。馬鹿なんです、わたし」
アゴルの頬に、猫のひげのような線を残す。
「師匠を、恨んでいたはずなのに」
零れ落ちそうになる手を、アゴルは必死に掴む。フィーは、握りかえそうとはしない。
「顔を合わせたくないと思っていたのに」
それとも、もう握りかえす力すらないのだろうか。そうしている間にも、鮮血は広がっていく。
「それでも、気になって。毎日、窓の隙間から師匠を見て」
部屋が、赤で満たされていく。止める手段はないのかと、アゴルは必死に考える。でも、アゴルにはどうしていいのかわからない。何かをしようにも、このだんだんと温度を失う手を離していいのか。
「泣きそうな顔で骨笛を彫る師匠に、頭にきて」
でも、そんなことをしたら。
「泣きたくなって」
この、初めて温かさを分け与えてくれた手は。
「でも、どうしても嫌いになれなくて」
温かさを、二度と失ってしまう気がして。
「馬鹿なんです、わたし」
放してはいけないと、つなぎとめなければいけないと、感じた。
「山を降りたくない理由なんて、わかりきっていたのに」
「フィー。待ってくれ、頼む。待ってくれ」
言わなければいけないことがある。伝えたいことがある。
自分が、どれほどフィーからたくさんのものを受け取ったか。どれほど、幸せだったか。まだ、言葉にできないこのもやもやとした感情に、なんという名をつければいいのか。触れてくれる温かさに、気づかせてくれたことがどれほど大きかったか。
どうして、自分がさっき死ねなかったのか。
なのに、言葉は一向にまとまらなくて、涙とともに流れ出ていく。
ああ、止まってくれ。この涙も、彼女の赤い命も、流れる時間も。
(残された時間では、とても伝えきれないんだ……!)
でも、そんな願いはもちろん神に届くはずもなく、ゆっくりとフィーの手からは体温が奪われていく。
「師匠、お願いがあります」
フィーは、満たされたような表情で告げた。
「私が死んだら、私で骨笛を作ってください。とびっきり、強力なやつ」
何を言っているのだ、馬鹿弟子。生きている人間で骨笛をつくるほど、自分は非常識ではない。
そう言いたいのに、フィーの瞳はアゴルが話すことを許さなかった。
「師匠は言いましたね。あと数十年もすれば、人間は魔物に対抗できるって」
ああ、言った。アゴルはどう伝えるために、強く頷く。
「だから、まだ無理なんです。今はまだ、人間は魔物を倒せないんです。そして何より、わたしみたいな弱い人たちは……まだまだずっと、魔物におびえ続けます」
だから、と彼女は続けた。
「わたしを骨笛にして、たくさんの人を救ってください。師匠は、わたしやたくさんの命を犠牲にした罪と罪悪にまみれて、人を救ってください」
それが、師匠の罪です。
最後は言葉にならず、唇の動きだけになった。
そして、彼女は最後にこうアゴルに告げた。
――そして、わたしと師匠の絆です
「フィー」
彼女の手から、温かさが消えた。鼓動が、失せた。命が、とんだ。
その最後は、静かに咲く白のコスモスのようで。アウゴは、初めて手の中であたたかさを失った。
そして初めての約束と絆と、罪を背負った。
愛しい人の遺体を抱き上げ、アゴルは工房へと向かう。何をするかなんて、決まりきっている。
「しかたねぇよな。唯一の、弟子の頼みなんだから」
彼は、骨笛職人なのだから。
これは、有史には書かれぬおとぎ話。
一人の青年が、白く輝く笛を高らかに鳴らし、人々を脅かす魔物を退けたという英雄譚にして冒険譚。
青年の吹く笛は、誰も聞いたことのないような美しい音色を奏で、魔物のせいで傷ついた人々の心さえ癒したという。
大陸全土にまたがるように存在するこのおとぎ話を信じるならば、青年はどれほどの旅を続けたのだろう。それほどの人々の命を救ったのだろう。
ただ言えることは、笛を吹く青年の肖像画は、どれも悲しさと希望に満ちた表情をしているということだけである。